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執筆者の写真クレマチス

風信 沼のほとりから 第49号 弥生

今月の「沼のほとりから」には、春硯さんのお孫さんからご両親まで磯目家の五代の歴史が刻まれて、句帖は色彩豊かな弥生三月の生命讃歌になっています。「日溜まりへ」の句は成長の早い春先の薔薇をスナップショットのように捉えていると思いました。

ビデオカメラのエピソードは私も同じ悩みがありました。記録の保存がアナログからデジタルに変わって便利になった一方で、何か大きなものを失ってしまったような誰もが感じている喪失感の象徴のような大花野のロボットの句が印象的でした。



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2 commentaires


杖の歩み歳相応に春の風 この俳句の気分お若い方にわかるかどうか 春が押し寄せてくるのに浮き足立つような若いときの気分が一瞬よぎるのですが、え?年甲斐もないという気持ちが、春の日差しと空気を胸いっぱいに吸い込んで気分を落ち着かせる…その気分。 年相応に…抑えた気分、若い皆さんも歳をとればわかる😉 屋久島のたんかん剥いて浅き春 Googleで調べてたんかん、が野性味あふれる柑橘類であることがわかりました。屋久島の春を思い浮かべればまだ肌寒い春も名ばかりでないことがしみじみわかりますね。 空遠く飛行機の音す日向ぼこ 気分よくひなたぼっこをしているところにノイズのような飛行機の飛ぶ音がかすかに聞こえる。 気分が好いので環境音楽と思うことにする。気分のおすそ分けいただきました。 吾を生みし父母若く水仙花 時は流れて世代を引き継ぎ、また引き継いで、繰り返す世代はいつだって日々新しい。 父母もまたそう思った日々を思い出す、、感動的です。 日溜まりへ枝先伸ばす門の薔薇 枝先の気配を感じたのですね、同じ生き物同士の気配を察しながら生きている。 山茱萸今年も庭の露払い 季節を告げる庭の見張り番といったところでしょうか、もう今頃は盛りの庭おうらやましいです。 我が陋屋の2階の縁側の貴重な春の日差しに温まりながら春硯さんの俳句便りを楽しく拝見しました、ありがとうございました。 捨て置きし枯れ木の鉢に春芽吹く

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17 mars

技術の進歩が著しくて付いて行けず、それだけならいいのですが、折角馴染んだやり方が陳腐化してしまって、さらには使えなくなる、という経験は私たちもしています。ただ、夫が古い物を捨てない人なので、レコードプレイヤーも古いラジオも残っていますし、ビデオを見られる機械もあって、流行の最高後端をのろのろ歩んでいてもさして不自由は感じません。それにしても、慈愛溢れるお祖父さまですね。


こちらも次第に春めいて来ましたが、時にしっかり寒が戻ることも。先日「水に落ちし椿の氷る余寒かな」という高井几董の句を見て、子供の頃にはそんな寒さもあったと思い出しました。もっともこちらの余寒はさらに厳しく、このところ墓地を訪れることが増えているのですが、その際に浮かんだ句。

・墓石の没年覆う春の雪 びすこ


前にも触れたかと思いますが、植物のグローバル化が進んで、かつては日本でしか見かけなかった花が欧州で広く栽培されるようになりました。その中にサンシュユもあります。ドイツ語でAsiatische Kornelkirscheと言います。西洋山茱萸と呼ばれるKormelkirscheは以前からあったようですが、そこへアジアからのバリエーションがやってきたので、「アジアの」という形容詞をつけて済ませているという感じです。山茱萸という名前は子供の頃から「ひえつき節」の歌で知っており、うら悲しいメロディーのように感じていました。木に咲く春の花は郷愁を誘いますね。


・辛夷咲く七年を経て娶るらし びすこ


これは仙台の知り合いが夫人を失くした後、忙しさにかまけて最期の世話もろくにできなかったことを悔いて再婚の話を断り続けていたのですが、ようやく後妻を迎えるらしいという噂を聞いて作ったものです。


他に今月の句として、

・木の芽雨背戸の林は点描画

・埋門開いて砦は春となり

・春の夜の子のさびしさはたださびし


埋門といえば日本の城のは風趣に富みますが(写真参照)、こちらの要塞などにも見かけます。最後の句は、ふと70年近く前の自分を思い出して。



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