令和5年最後の風信と春硯句帖です。日常生活の近況を常と変わらず淡々と語られておりますが、電動自転車で転倒された消息を拝見して胸を突かれました。私も日々体力の衰えを痛感していますが、一月ほど前にバイクで転倒して自力で起こせず、見知らぬ青年に助けてもらったことがありました。この時は車庫入れをしようとして左にハンドルを切った瞬間、コーナーから飛び出してきた少年の自転車との衝突を避けようとして急ブレーキをかけたため遠心力を失って転んだのですが、このときの惨めな気持ちは忘れられません。
「馬場近き・・・」の句が、なにやらなまめかしく、白丁花=別名満天星の注意書きがあり、これがむずかしく、普通によめばあの白い下向きの花を満天の星を散らしたように咲くドウダンツツジですが、季節的には晩春に咲く花で季語が合いません。調べてみると白丁花は通常初夏に咲くアカネ科の白い花とあり初夏の季語となっています。そこでよくよく考えてみると季節的にもこれは秋から冬にかけての句でわざわざ注記もあり、今そこここで美しい紅葉をみせている満天星紅葉(どうだんもみじ)のことと合点がいきました。勝手な深読みかもしれませんが、この字ずらに惑わされて真っ赤なツツジの紅葉に思いいたるまでのプロセスが「佳人」の人柄までを巧妙にカモフラージュしているようにも見えました。
近くの小さなスーパーが消えてご不便を嘆いておられる状況はよく分かります。私の田舎の家の近く300メートルほど先にも小さな個人商店があって、母はちょっとした食料品をそこで買っていましたが、店主が病気になって店を閉め、同時に母の方も歩行がいささか困難になったので、その不運をよく託っていました。(実は最近、海の方に近かった市役所が老朽化と津波のリスクへの対処で何とわが家から便利な所に越してきて、国際ホテルと見まがうような庁舎が建ち、それ自体は別に有り難くないのですが、コンビニくらいはすぐできるだろうと、それがせめてもの慰めです。固定資産税が上がりませんように。) 馬場という言葉はそれだけで何となくゆかしいですね。今月になっていちまるさんとのフォーラムでのやり取りで、こちらの貴族の広大な馬場の一角にある厩舎(超豪奢)で催されたクリスマス市の話をしたばかりでした。(その写真を添付します。)これも自分のことになりますが、私が郷里でお世話になっている弁護士さんの事務所が「桜馬場」というところにあって、それが高知城の傍なので、そうか、馬場に用があるのはお侍さんだったのだと認識しました。しかも騎馬兵。土地柄も格別のようです。余談の余談になりますが、事務所を出たあとタクシーを探して歩いていて、寺田寅彦記念館に差し掛かりました。寺田家もなかなかのお家柄だったのですね。「桜なき馬場を歩けば寺田邸」なんて、まあ、これはジョークですけど。 そう、今日は冬至でした。北国に住むとその日は特別に感じます。南の国から来て、冬の暗さに一片の詩情を抱きつつも春を待つ心はひとしおの身に、ああ、明日から日が長くなる、という嬉しさは在住20数年が過ぎても変わりません。それにしても当地の冬至の日の陰鬱さ。東京では冬でも赤々と陽が照っていたのに。 ・冬至の陽頬に発矢と高架橋 どうでもいいような話ですがこの高架橋は渋谷です。今もあるでしょうか。
沼尻の水門橋に寒烏 せっかくの?寒い季節に烏とて一休みする場所は選ぶ、、絵になる水門橋の上に止まった黒一点、春硯さんが見逃すはずもない 辻堂の古き石碑に枯葉散る 古びた石碑の風雨にさらされた静けさに枯葉もまたところを得て美しい 冬至湯を寒枝で待つ庭の柚子 人は湯船に体を沈め、目の前に浮かぶゆずの香りに歳を忘れます、その光景を思い浮かべるだけで、、柚子にその気があろうとなかろうと、、 鳥眠る沼の静寂や冬銀河 寝静まる夜、銀河が届ける遠い光を受ける沼、銀河も冴える 透かし見る湾処の底や沼の冬 水面の底に想いを馳せるのは画家のモネばかりじゃありません、見えない底を透かしみたい、誰もが抱くそんな気持ち俳句にした人いたでしょうか 馬場近き佳人の家や白丁花 通りすがりに見るだけで、手入れの良さが偲ばれる庭の周り、手入れする人の容子の好さもうかがわれる、、ですよね 今年もたくさん楽しませていただきました…引き続きよろしくお願いします
ありがとうございました😊