東京の友人に教えられて開いたブログ「伴美喜子|人生のPlayback」* は話題も豊富で読み応えがあって、どこから始めようかと迷ったほどだが、とりあえず一番興味のあった南アフリカに関するものを最初に選んだ。
これは最初のページの右端にある「故郷で世界に生きる」という「カテゴリー」に属する。
その中の「アフリカの果てに散ったある企業戦士」と題した 7 回のシリーズは、交通事故で即死に近かったという下の弟さんの弔いに赴いた南アフリカでの数日、かつて少女時代をすごしたかの地の思い出、さらにその後のご遺族のことなどを綴っておられ、深い悲しみの色が全体に漂っているが、これが 2005 年の12月に高知新聞に掲載されていたということにも驚いた。
前にも述べたように美喜子さんとその弟さんたちは学校時代を県外・海外で過ごしているため、高知県内で彼女の存在に注目する同世代の人は少なく、そのため私が会った誰も新聞記事のことを話題にしなかったのだろうが、母は存命中で高知新聞を購読しており、伴さんといえばすぐ「ああ、あの」と分かったはずなのに記事には目を留めなかったと見える。
伴家の中で末っ子の幸衛ちゃんだけが俗世界、いわゆる娑婆の仕事に従事しており(ということは自ら稼いで税を納める側だった)、美喜子さんの方は父上同様「官」界に近い位置を占め、上の弟さんは共同通信の記者とあって「民」も「官」も外から眺める立場にいた。
これまでの人生の大部分を私・民の世界で過ごした私としては、自身の体験もあって企業戦士として倒れた伴家末っ子の早世への哀惜の念はひとしおである。
ブログにも記されているように、伴正一氏は選挙出馬で外務省を退官する少し前まで第 2 代青年海外協力隊事務局長の任にあった。この海外ボランティア派遣制度は独立行政法人国際協力機構 ( JICA )によって実施され、政府開発援助いわゆる ODA の一環として、開発途上国の経済発展の支援をそのミッションとする。
開発途上国への援助と言えば、実は私もかつてその種の仕事に関与していた。ただし外務省ではなく当時の通産省の外郭団体で、ここは日本の産業つまり民間企業を通じ、主として技術面から途上国を支援するのが目的であった。
1960 年代から 70 年代にかけて日本経済の成長は目覚ましく、日本企業は世界各地に進出して工場を建てそこで現地の若い人々を採用した。雇った現地人の技術・技能レベルは限られているので研修のため彼らを日本に送り、6 カ月から長くて 2 年程度本社のある日本の工場で技術を学ばせる。
この技術研修は主に海外で生産を行う私企業の必要性からだが、それによって開発途上国の技術水準の向上にも資するということで国からの援助があり、当時は研修生のための全費用を通産省と私企業とが折半していた。従ってここも ODA 予算の対象事業体である。
その団体の名称は今は変わったが元は海外技術者研修協会(以下、研修協会)といい、よく JICA と混同されたものだが、後ろに控えている省庁が異なるだけでなくアプローチも違うので、職場・職員の気風も一種独特だった。
私が言うと身贔屓になってしまうけれど、企業で使い物になる人材を限られた期間内に育成するという具体的な目標があるから、口当たりの良い理念や小むずかしい理屈をこねている暇はない。それでよく数ある海外支援組織の中でも優等生とされていた。つまり実際的で無駄が少なかったわけで、そして私が勤務していた時期もその後の 10 数年間にわたっても通産省からの天下りは 1 人もいなかった。上層部がそれだけ骨太だったということである。
私がそこの正規職員だったのは 6 年間だけだが、当時は来日早々の研修生に日本事情を学ばせるための企業訪問があり、日本の産業に関する講義や、さらに日本語のレッスンもあって、工場見学などは通訳が必要なので退職後もしばらくはフリーランスとして出入りしていた。
日本語と言えば、そこで蓄積された日本語教授の手法は研修協会にとっての大きな財産となり、それを生かさぬ手は無いと別途に日本語教科書の出版社が設立された。私の昔の同僚たちが開発した教科書「みんなの日本語」シリーズは、今や世界中で使われている。
現在その社長の任にある女性は研修協会出身ではなくその新会社に雇われたのだったが、真面目ではあってもひどく内気という印象の彼女が殻を破って成長していく姿を見るのは喜ばしかった。母体である研修協会自体が、男女を問わず人を委縮させることのない組織だった。
こことの縁で得た経験や築いた人間関係は私にとっての宝で、またその後の私の人生に大きな影響を及ぼした。仕事上必要に迫られて学んだ産業諸分野に関する知識が多少なりともあったから、90 年代半ばに来日した夫とその同業者たちのための通訳が務まり、それが縁で現在ドイツにいるというわけである。
話が自分のことに逸れてしまったのは、海外援助とか国際協力といっても実態はさまざまで、外務省主導の場合はスマートでイメージもよく予算も潤沢なようだが、私が関係していた仕事はむしろ泥臭く地味で具体的だったということを言いたかったためで、国民の汗の成果である税は慎ましく使われていた。
そういう自分の経歴もあって、美喜子さんのブログの中の、亡くなった幸衛ちゃんがその約 10 カ月前にご両親に送ったというメールは心に響いた。当時の商社日商岩井(現在の双日)での仕事にも ODA の予算が与えられ、働き盛りの幸衛ちゃんはかつて幼年期を過ごした南アフリカに意気揚々と赴くが、アパルトヘイトが過去のものになり理想を達成したはずのこの国の現実を目の当たりにして唖然とする。
そしてこれは、実は今から 37 年前にほんの 7,8 日を南アで過ごした私がひそかに危惧した状況でもあった。
白人支配のおかげで、といえば差別を是認することになるが、当時の南アは安全で清潔な国だった。それでもホテルを勝手に出ないでくれと言われていたのでタクシーやバスから通りを歩いている人達を眺めるだけだったが、町には黒人の数は少なく、そして何より私が心を痛めたのはうつむきがちで無気力な彼らの佇まいだった。
どこにも黒人の出入り禁止の場所があって白人と有色人種はきびしく分離されていたが、救いはどの黒人も身なりが比較的きちんとしていたことで、おそらく衣・食・住全般にわたって生活レベルはかなり保証されていたのだろう。
だから飢えることも凍えることもなしに生きていける。鉱山で見たように、黒人のための医療だって考慮されている(特に結核の予防)。しかしその表情を見れば誰も彼らが幸福とは思わない。この人達に微笑んでもらうにはアパルトヘイトを撤廃せねばならない。だがそれだけでこの国は変われるだろうか。
南アフリカを囲む周辺国はどこも極端に貧しい。幸衛ちゃんの手紙にはポルトガルの旧植民地モザンビークとの比較があるが、私も南ア各地を旅しながら、それなりに面倒を見てもらって暮らしていけるアパルトヘイトの南アフリカと、独立して差別は受けないが日常食べる物にも事欠く隣国と、もしこの究極の選択を迫られたら黒人たちはどちらを選ぶだろうかと幾度も考えた。
私が南アを訪れて 7 年後にそのアパルトヘイトは公式に撤廃された。それからのアフリカについて、1999 年の年頭に幸衛ちゃんはご両親に次のように報告している。
<南アは危険です。報道の通りです。日頃から細心の注意を払って生活しています。昔の南アとは別世界です。中南米も同様に危険で、私も色々知っていますが、「殺される」確率は比べものになりません。これが「アパルトヘイトがなくなった南ア」です。この「現実・事実」から目を逸らしてはいけない、帰国までに自分なりの意見・結論を出したい、と何時も思っています。「やっぱり黒人は・・・・所詮黒人は・・・」という結論ではあまりにも悲しすぎるので。>
この危険と混乱とは近年悪化する一方で、大規模な暴動や略奪も頻発している。こちらの新聞で報道される南アについての記事によれば、白人対黒人の対立が解消されないのみでなく、黒人の間での格差が事態を一層複雑にしているという。貧しさから抜けだせない黒人からすれば、白人にうまく取り入ってそのシステムに嵌っている黒人や他の有色人種は「裏切り者」に見えるのだろうが、成功した黒人にとっては恵まれた今の暮らしは努力の結果である。しかしそれを言えば貧しいままの黒人たちには「無能」と「怠け者」のレッテルが貼られることになり、アパルトヘイトが消えた今はかつてのような差別を恨みや憎悪の口実にすることもできない。
幸衛ちゃんが生きていたら、どんな結論を出しただろうかと考え込んでしまう。
日本では日商岩井による社葬が執り行われたというが、それは当然だろう。42 歳での彼の死は殉職で、手掛けていた仕事は ODA の無償援助のプロジェクトであったというから、伴正一氏の愛息にふさわしい命の燃やし方だったと言えるかもしれない。
もう一つ私がアッと思ったのは、「④満開のジャカランダ」で言及されている畠中篤氏のことである。弔いの後で「一日だけ暇をもらってプレトリアを訪れた。遠縁にあたる畠中篤大使が車を出して下さった」とのことで、外交官なら在外なのは不思議でもなんでもないが、よりによってこの時期に同氏が在南アフリカ大使だったのはただ奇遇というほかない。
(プレトリアは昔も今も南アの首都で、アパルトヘイトの南アと日本とは正式な国交がなかったため当時は領事館が、現在は大使館が置かれている。最大の都市はヨハネスブルクで、こことプレトリアとは、いわばニューヨークとワシントンのような関係にある。)
喜美子さんはこれが高知新聞の記事であることを考慮してか「畠中篤大使(安芸市出身、現在 JICA・国際協力機構副理事長)」と紹介しておられ、これに目を留めた上記の友人が「もしやお知り合いでは」と訊いてきたので、お知り合いも何も田舎の我が家のお隣さんですと答えた。
南半球の 10 月は春にあたり、桜の代わりに紫のジャカランダが咲く。私はこれを大西洋に浮かぶポルトガル領のマデイラ島で初めて見た。このブログに掲載されている写真で、そのジャカランダの下でマレーシアの民族衣装姿の美喜子さんと並んでいるのは畠中大使夫人。
この女性は、もう 40 年も前になるが母が上京した折りに母の従姉妹たちと一緒に永福町の畠中家での食事に招待されたとき、その手伝いに来られていて甲斐甲斐しく働く姿を目にしたことがあるので懐かしかった。もっともこの場合も、あちらさまは私のことなど記憶にないであろうが。
畠中(若)夫人はさっぱりと明るく飾り気のない人柄で、その好印象はこの写真からも伝わってくる。それにしてもこれはまた何と不思議な「ヴィーダーゼーエン(再見)」であろうか。
写真は南ア・プラチナ鉱山見学グループ 1984 年
先ほどのコメントの続き。
普段日本なんかと馬鹿にしている欧米諸国がなぜG7にかこつけて日本を招待したんだろう、と考えていて、はたと思い当ったのですけど。
湾岸戦争のとき、日本が軍事的な協力はできないと言ったら「国際舞台」とやらでメチャメチャに叩かれた。それで、「カネで済むなら」という最高にアホな手段に訴えて各国を宥めようとした。約束した額は90億ドル。米国が「せめてこの程度は」と希望していた金額の数十倍だったとか。
そうか、これに味を占めて、NATO加盟国は日本にまたまた巨額の拠出金を迫るつもりなんですね。金で済ませてやるよ、それなら文句ないだろ、って。
しかし湾岸戦争の際には政府は石油への依存という理由を掲げて日本国民を宥めたけれど、今回のアフガニスタンには日本は何の義理もない。
とんでもない協力費を強制されたら、S首相、断れますかしらね。
昨日からちょっと出かけて、ラジオでニュースを聞いていましたが、今日アフガニスタン撤退・避難の問題を話し合うためにG7会議が開かれた、というので、呆れました。日本は欧米のレベルで関与したわけではなく、アメリカなどに急かされて「お付き合い」程度(それでも相当の援助費をつぎ込み少なからぬ人員が危機にさらされていますが)なので、他の6か国と同じテーブルについてもどんな発言をするのか。まあ、それをいうならイタリアなども「俺は知らん」になりますが。米英仏独、それからカナダ(ここもNATO加盟国ですから)で解決策を見つけるべき。タリバンは期間延長はしないと言っていて、8月31日を過ぎると恐ろしい事態になるでしょう。
そもそも、なんで各国はアメリカの顔色を窺う必要があるのか(まあ、その理由が分からないというのではありませんが)、日本などはなぜNATOなんぞという縁もゆかりもない組織に同調せねばならないのか。低レベルの発言といわれるのを承知で言わせてもらうと「NATOが日本に何をしてくれたのさ」です。
それなのに、欧米の尻馬に乗ったばかりに「西側」の一員としてタリバンとその支持者の反発を買い、中村哲という優れた人材を失った。(欧州国がこの人を「聖人」とまで称賛し惜しんでいることが僅かな慰めですが、その程度で済む話ではありません。)
今の日本には国策というものが無いと同様に、対外策もない。政治家はいつも馬鹿の一つ覚えのように〈国際社会に乗り遅れないように〉といっていますが、そんなもの、乗り遅れても取り残されてもいいから、国家としての筋を通してほしい。
「海外援助とは、…」言い得て妙。アフガンの今回の混乱は頭空っぽのトランプがタリバンといい加減な約束をしたものをバイデンもまたそれを深く考えることなく引き継いだ。民主党政権に代わっても、コロナ対応も同様だが、世界全体の安定に責任をもたないアメリカファーストの無責任さに起因しています。イギリスから引き継いだ石油利権のために莫大な資金と戦力をつぎ込んだアメリカも、化石燃料の先が見えてきたら、現地の紛争や経済の混乱には目もくれずさっさと店仕舞いにはしっています。さすがに内外の厳しい批判を受けて、9月末完全撤退のスケジュールの軌道修正にうごいているようですが。日本も半端ない開発援助をつぎ込んでいるはずですが、どう生かされたのか。ペシャワール会の中村哲医師のような民間人の努力には頭が下がりますが。
ロングストーリーショートあぁかいつまんで話してこれですか、、、解放後の南ア、解放前の人間関係をそのまま引きずるが如くの状況、一転して利権、ODAとの絡み、闇ルート、…複雑な人間関係、解放後も根深く残る事実上の人種差別、行間からいろいろな魔物がぞろぞろ出てくるようなイメージですね、あ、失礼なこと言ってませんよね😅さっきから2度ばかり唸って、、生々しい映像がちらつきました、時代は通り過ぎても…人々の記憶は昨日の事だったような実感なのだろうなと想像するばかりです。僕がフーテンみたいにいっぱつ当ててやろうと…駅ビルみたいな愛想のない通産省と違い、所轄のレンガ造りの特許庁に先願権チェックするのにうろうろネズミみたいに出入り、その後いろいろあって、食い詰めてペンキ屋を始めた頃、、既に縁の下の力持ちみたいに地球せましと活躍されていらした、こういうわけか…今日もまた恐れ入りました