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執筆者の写真クレマチス

遠くの南アフリカⅠ――ドイツの黒い森から 19-1(びすこ)


袖すり合うも他生の縁、とはよく言われる諺だが、70 数年も生きていれば袖すりあった人の数も少なくはない。ただ、何年かを共にした級友や同僚と異なり、ちょっと出会っただけ、文字通りすれ違っただけという相手についての記憶が曖昧なのは当たり前のことだ。自分で言うのも何だがその点に関して私はわりあい記憶がいい方、ところが相手は私のことなどてんで覚えていないというケースが大半である。

これは頭の良し悪しや、記憶力の優劣さえも関係なくて、要するに興味のあるなしに由る。むしろシャープで効率・効能を重んじテキパキと人生を歩んでいる人の方が、そこらで出会った人のことなどきれいに忘れているのが常である。しかし私は極めて不合理でぐずな人間であるから、短き葦のふしの間に会った人でもふと懐かしく思う事があり、今となってはそんな非効率・無駄も自分の人生の「構成部分」として受容するほかない。

それが高じて、というわけでもないが、袖をすり合わせもせず、旅の途上で通りの向こうを歩いているのを見かけただけとか、単に自分の友達と言葉を交わしている姿を目にした程度の人のことでも何となく覚えていて、後年それが結構な意味を持つことがある。


今回南アフリカに関連して私が話題にする伴美喜子さんもその一人で、一度だけまともに顔を合わせたものの、互いに親戚や家族が一緒だったので特に親しく言葉を交わすことはなかった。(今回のブログでは登場人物の大半が実名であるが、これは彼・彼女たち自身が実名でブログを書いていたり、公的な立場にあって名前が知られていたりするので、匿名にする意味がないからである。)

実際に顔を合わせる以前に美喜子さんの名前を聞いたのは、大学入学で私が上京した当時世田谷区の成城に住んでいた叔母からであった。

叔母の連れ合いは 1950 年代に JETRO(日本貿易振興機構)に就職し、結婚して間もなく、日米間の航行がまだプロペラ機だった時代にサンフランシスコ駐在員となってそこで 4,5年を過ごした。アメリカ暮らしなど一般の日本人には夢のまた夢だった時代である。

その叔父は後に JETRO を辞めて自分で事業を始め、それで富豪の養父(日系アメリカ人)から相続した財産をすべて失うが、70 代初めまでは豪奢な暮らしぶりだった。学生だった私がそこを訪ねていくたび聞かされたのが「伴さん一家」の話で、この一家と叔母の家族とはサンフランシスコで知り合い、双方の帰国後にも親しく行き来していた。


伴正一氏は外務省のお役人で、サンフランシスコ領事館に勤務していた時期に JETRO で派遣されてきた叔父と知り合ったのだが、二人とも高知県出身者とあって日本人自体が少ない外国の町で急速に親交を深めた。

伴氏は米国からの帰国後も外交官として世界のあちこちに赴任し、私が彼に会うまでの 10 数年間にパキスタンの大使館や南アフリカの領事館に勤務していた。どちらの国も子女の教育には難があって、長女の美喜子さん、長男の武澄君、そして少し年が離れた次男の幸衛ちゃんは何年間か親から離れて日本の高校で学んだあと、いずれも東京外大に進んだ。

私が美喜子さんと顔を合わせたのは彼女が東京外大に入学した年で、ちょうどその頃キッシンジャーが日本の頭越しに中国との友好関係を推進しており、美喜子さんの専攻が中国語・中国文化と聞いて「これからの時代、それは賢い選択かもしれないわね」と叔母と話したりした。

その数年後、私が社会人となった時期に叔父の商売は潰れ、無一文になった叔父は自分の妻の姉(私の伯母)の夫が経営する高知市の建設会社に雇われた。その会社は当時東南アジアで港湾設備の建設を手掛けており、叔父はその英語力を見込まれてシンガポール駐在となる。むろん叔母も随いて行ったので、以降は互いに手紙で消息を知る程度となった。(伯父が創始者の一人だった高知市の建設会社も、今世紀に入って倒産した。)


そんな状況下で伴さん一家について聞くこともなくなっていた 80 年代の初め、突然田舎の母から電話があって、このたび伴正一氏が高知県から衆議院選挙に出馬することになり、その応援だか激励だかのパーティが都内のホテルであるので私もそれに出席せよという。

何のことかと面食らっている私に、さなきだに話のくどい母がくどくど説明するところによると、その依頼は畠中夫人からだという。畠中家は私の田舎で正真正銘の隣人である。ちょっと上背のある人なら、わが家の裏庭の塀越しに畠中家の坪庭や井戸端・勝手口が覗ける。

ただ久しい昔から普段は誰もいない家になっている。大正初期生まれの先代戸主はのちに中央省庁のお役人となるが、この人と私の父とは幼馴染み、そして先代戸主の父上が私の両親の仲人という間柄なので、高級官僚として出世した畠中氏は帰省するたび夫人を伴って我が家に挨拶に見えるのであった。

志村ふくみ似の奥様は実は伴家の一族から嫁いで来られたのだそうで、関係は深くはないが母の実家とも縁戚関係があるらしく母とは以前から仲がよかった。同夫人と伴正一氏は親戚なので伴夫人の久子さんを含めてのお付き合いがあり、その関係で私の母もこの二人の女性と親しかった。


良家の令嬢や名門の奥さまが好きな母は得意げだったが、こちらとしては政治家のパーティなど「あっしには関わりのねえ話」である。枯れ木も山の賑わいということなのだろう。しかし電話口で押し問答しても埒が明かないので顔を出すことにした。

そのパーティ席上で伴家・畠中家の人々に挨拶をしていて、あ、そういうことだったのか、と気づいたのは、畠中家の長男篤さんに会ったときだった。私より 4,5 歳年長の篤さんは子供の頃夏休みになると弟さん・妹さんと共にご両親について帰省していたから全く知らない間柄ではなかったが、田舎娘の私は東京から来たエライさんの家族というので遠目に眺めていただけで、顔はまるで覚えていなかった。

その篤さんが外務省の官僚になっていたのである。単に同郷・親戚の間柄というだけでなく、伴正一さんは畠中篤さんからすると外務省の先輩に当たるわけで、それで選挙の応援にも力が入っているのだった。(この時期、美喜子さんは中国におられたらしい。)

だが伴氏は見事に落選した。どうみても政治家には不向きのタイプだったから私は驚かず、久子夫人も最初から厭がっていたと聞いて共感を抱いた。選挙で外務省は辞職していたため、その後は高知市に戻って何か法律関係の仕事に従事しておられたが、さほど高齢になることなく他界された。

さて、その間に子供さんたちはどうなったかというと、美喜子さんは国際交流基金かその関連組織で働いているとのことだった。もともと父上はウィキペディアにもある通り「青年海外協力隊事業の立ち上げに尽力した人物」で、国際交流基金も外務省管轄の独立法人なので、そのお嬢さんとしては順当な就職先といえる。長男さんの方は大学を出て共同通信の記者となり、世界各地のニュース報道に忙しい日々だった。もちろん二人とも今は定年退職している。末っ子幸衛ちゃんのことは後で触れる。


さて 90 年代も後半になって私が最も忙しかった時期に、昔の同僚でずっと仲良くしていたKさんがご主人の仕事でマレーシアに数年間滞在することになった。人懐っこい性格だけに当初は異国の暮らしが寂しく心細かったようで、遊びに来てと何度も言うので、年末の仕事が一段落した頃クリスマスを挟んだ連休にクアラルンプールに飛んだ。女二人は日がな一日おしゃべりし、ハイヤーを雇ってマラッカなどにも行ったが景色などそっちのけで口ばかり忙しく、後日その運転手さんにKさんがあった時「ああ、道々ず~っと話し続けていた方ですね」と言われたと笑っていた。

彼女との会話の中でマレーシア女性の民族衣装の話になり、これは体を締め付けないから楽なのだが Kさんはまだ試していないという。ひざ丈のワンピースの下にさらにスカートを履くので足が見えず、ワンピースはゆったりしていて体格を気にせずにすむ。

ただ模様が鮮やかだから日本人はちょっと躊躇するかもという私の意見に、バジュクロンと呼ばれるその衣装を「伴さんはいつも着ていらっしゃるのよ」とKさんが言うので、え、伴さん?と訊き返すと、そう伴美喜子さん、ご存じ?と逆に訊かれて驚いた。何でもマラヤ大学で日本語を教えているのだという。そうか、こんなところにいらしたのか、とびっくりしつつ納得した。


美喜子さんがマレーシアを離れたのがいつのことかは知らないが、2001 年に私がドイツに移ってのち、前のブログで触れた日本語教科書出版社の社長から彼女を知っているかという問い合わせがあったところを見ると、21 世紀の初めには活動の場を日本に戻していたらしい。

仕事がら世界中の日本語教師とのネットワークがある友人の質問は、この私と同郷だからというのだが、美喜子さんの場合ご両親が高知県人ということでお子さんたちは東京や海外で育っているので、高知県との繋がりがどの程度かは私にも分からずにいた。するとしばらくしてその友人から、美喜子さんは高知工科大学の国際交流センターで留学生の世話をしているとの情報があった。

高知にお住まいなら帰国したときに連絡してみようかしら、と私は言い、母が残した電話帳には伴久子という名前とその連絡先もあったのだが、何となくそのままになっていた。そして 10 年近い歳月が過ぎ・・・


今年の 7 月初めに葛飾文芸クラブのためのブログを書いていた時、同じ友人から共通の知人の訃報を知らせるメールが来て、そのついでに、今度は「ロウ菅の歌」という著書の筆者が高知県出身の先川信一郎という人だが知らないかと訊かれた。それがアイヌに興味を持ったポーランド民俗学者の話だというので、ちょうど今南アフリカで出会ったポーランド人のことを書いていたところだと言うと、間髪を入れず、南アフリカといえば伴美喜子さんがそこで命を落とした弟さんのことをブログに書いているので読むように勧められた。

幸衛ちゃん(出会った頃みんなが「ちゃん」付けで呼んでいたので私もそうする)が南アでの交通事故で亡くなったことは風の便りに聞いていたので、その詳細を知りたいとパソコンに「伴美喜子」と入力するとすぐに彼女のブログが出てきた。タイトルは「人生の Playback 」となっている。


それを読んで初めて、2005 年以降の彼女の消息と、そしてそれ以前の、最も悲劇的な弟さんの死、さらにはお母様を亡くされた前後の状況などが分かり、またもう一人の弟さんも姉君同様に退職後はご両親の郷里で暮らしていることを知った。

以上、背景を述べるために話がえらく長くなったが( 1950 年代から 2021 年まで!)、これでやっと南アの美喜子さんに辿り着いたので、後半はその話を掘り下げていきたい。


写真は南ア最大のワイン産地ステルンボッシュ。建物はオランダ風で独特の破風を持つ。

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