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執筆者の写真クレマチス

職人に乾杯!――ドイツの黒い森から 49(びすこ)

今回のブログを思いついたのは、KBCのフォーラムでのいちまるさんとのやり取りがきっかけだった。そこでいちまるさんはそれまでのザシキローノマドやイモズルシキホンノキに続いて 11 月中旬から陋屋正伝シリーズを開始され、古い新居の改築の過程を綴っておられる。生来の器用さとアイデアの豊さで中古の家がどんどん生気を帯びていく様子をリアルタイムで追うのは、不器用で自分では何もできないながら昔から職人業に敬意と憧れを持っている私には実に楽しい。

さてこうやっていちまるさんの新居が着々と改装されていく中、12 月の半ばには、近所の瓦屋さんで屋根用ではなく入り口付近の華やぎ(彩色瓦なので)に何枚かの瓦を調達したとの報告があった(「正伝 陋屋記 039」)。それでなんでもイモズル式に自分の興味のある方向に話を持っていく悪癖のある私が、瓦といえば淡路島産が有名だとコメントに書き、それで思い出した有名な左官さんのことにも触れた。


左官の件は後で詳しく述べることにして、まず瓦であるが、日本では三州瓦、石州瓦、淡路瓦が三大瓦として知られる。いずれもその産地は西日本である。いや、三州瓦の産地は愛知県三河地方なので微妙なところだが、昔の区分でいえば箱根の関所より西という意味で西日本としてもよいでしょう。

自分の郷里よりだいぶ離れているせいもあって三州瓦が使われている家というのを私は観察したことがないのだが、石州瓦についてはかなり鮮明な記憶がある。これの産地は島根県石見地方だから高知からは愛知県とあまり変わらぬ距離だが、90 年代後半のある晩春に出張の途中で、この瓦で葺いた家々を走る車の中からしばし眺めた。九州から宇部に移動し、そこから本州を横断する形で山陰の長門を訪ねる途上だった。

ちょうど田植えが終わった頃で糠雨が水田に降り注ぎ、それだけでも嘗てのカントリーガールには懐かしい光景だったが、息を飲んだのはその向こうに広がる農家の家並みで、その屋根のくすんだ赤、正確には赤茶色というか、フランスでサン・ド・ブフ(牛の血)と呼ばれる釉薬に似た色(写真 1 )が、降りしきる雨の中でひとしお床しく思われた。

それとよく似た赤い屋根はだいぶ以前にシンガポールでも見たことがあり、話を聞けば植民地時代に英国が持ち込んだそうで、教えてくれた人は屋根の色に関心を持つ観光客は珍しいと笑っていた(私は観光で行ったのではなかったが)。もっとも中国のどこかの風景写真にこの色を見たことがあるような気がする。また、シリアから何度か越えたレバノンの山間地方にも似た色の屋根の別荘が並んでいて、ひとくちに中東と言ってもさすがにここは地中海地方なのだと実感した。

しかし自国の、島根県と境を接する山口県の農村で見た瓦の色とその周辺の景色は、まさにその慈雨のごとくに心に沁みる美しさで、訪問先で商談を始める前の雑談でこの印象を熱っぽく語る私に長門の人たちは「ああ、石州瓦のことですね」と事もなげに言うのだった。因みにその出張で一緒だった私よりやや年上のアメリカ人は、60 年代にベトナム戦争への徴兵を忌避し平和部隊の一員としてタイの農村で数年間働いたという人で(それでその奥さんもタイ人だった)、私同様にしばし農村風景に見入り、そのとき交わした会話も忘れがたいのだが、その話はまたの機会に。


淡路瓦はもちろん四国では多く使われており、どこかで立派な普請の家が建つと「あそこは淡路瓦を使った」と大人たちがいうのを聞いていたので、私も「瓦」ときけば淡路島を連想するようになったのである。もちろんわが郷里にも瓦屋はあり、子供の頃から知っているので社歴は長く、淡路島で修業した職人もいたかもしれない。ただ、今の様子を見るに多くは近代的な新築家屋用で、昔のように鬼瓦(鬼でなく例えば紋入りであっても鬼瓦と呼ぶそうだが)を作る職人、鬼師と呼ばれる人たちももういないようだ。

三大瓦のうちには入らないが、岡山県の備中高梁市で見た「甍の波」も記憶に刻まれている。備前焼に代表されるように岡山県の焼き物は有名だから、同じような土で良質の瓦が焼かれているのであろう。ここも数回の出張があって出かけた町で、車から眺めた高速道路脇の家屋群の黒い屋根は艶やかに輝き、こちらは私のイメージの中にある古典的な美しさだった。

余談だが備中高梁には松山城という山城があって、ここは子孫が絶えて何度か改易になっているが、その中で水谷家からの城の受取りを命じられたのが後に自身取りつぶしとなった浅野家で、その家老大石良雄が城番だったと聞いて俄然興味が湧いたのに、この地では終始勤務中とあって、下から仰ぐだけでついに城の中には入れずに終わったのが今も残念でならない。


最初に触れたフォーラムでの 12 月 20 日のいちまるさんとのやり取りを今見直すと、私の方は「西日本で最良の瓦は淡路島産だそうです」と書いていて、これは「最良の瓦の一つは」と修正すべきである。そしてそれに続いて「淡路島には最近まで世界的に有名な左官さんがいました(何かの雑誌に出ていた)」と記した。こんな風に私が無理やりのように持ちだした左官の話であるが、実はこう書いてから、件の雑誌の記事を切り取って今も持っていることを思い出し、探すとすぐに見つかった(写真 2 )。

記事は 1989 年 4 月 11 日の AERA に掲載されたものである。どういうわけか、今思うと実に不思議なのだが、滅多に手にしない朝日新聞社の雑誌に「現代の肖像」と題して「左官職人久住章さん・世界をかける土着の表現者」という記事を読んだ時、私はこの久住(くすみ)という職人さんにいたく興味を喚起され、雑誌から切り取る、というより、数頁をむしり取って保管していたのである。古い鉛筆削りや小さな物差しなどを入れた小物入れに半分に折って仕舞い、それをドイツにそのまま持ってきていて、ごくたまに何かを探すときこの箱を開けるので記事がそこにあることは忘れていなかった。


この久住氏の父親が子供たちに説いた左官屋という職業の話も面白いが()、それを念頭に、当初は関心のなかった左官業に本腰を入れ、次第にのめり込み、日本各地で修業を重ねてドイツ西部のアーヘン工科大学に招聘されるまでになる。1989 年という時点で彼とアーヘン大学の縁を知っても特にどうということはなかったが、自分と同じ昭和 22 年生まれということには無視できない因縁を感じたし、彼が門を叩いた修業先の一つに土佐漆喰の久保田騎士夫(安芸市)という名前を見たことも、今考えると、この記事を捨てられなかった理由であろう。

AERAよりの引用:かねてより父親は言っていた。「左官屋の腕の発揮しがいのある仕事は不景気の時に舞い込んでくるもんや、世間の景気のいいときは、ゼニ儲けはできても、いい仕事はできん」…現役時代、繰り返し好況と不況を体験し、志のある職人にとって不況時こそ良き現場に踏み込めることを肌で感じていたらしい。なぜそうなるのか。好況時ともなれば職人は多忙をきわめ、丁寧な仕事もままならない。一夜明けの成金ならいざ知らず、眼力ある施主ならば新築ラッシュを避けて注文してくるものである。)


今回記事を読み直してみて、私はまるで、かつて一方的に懸想していた相手から忘れた頃に初めて微笑み返してもらったような気がしている。

そしてフォーラムで「最近までいました」などとまことに無責任な書き方をしてから、いや、私と同い年ならまだ現役かもしれない、とインターネットで探すと、何と「久住有生(くすみなおき)」という名前の左官職人が最初に見つかった。1972 年、兵庫県淡路島生まれ。間違いない、久住章氏の息子だ。50 歳で好青年という印象の彼が初めて鏝を握ったのは 3 歳のときだという。「『世界を見て来い』という父の勧めで渡欧スペインにて、アントニ・ガウディの建築を目の当たりにし、その存在感に圧倒され開眼、左官職人を目指す」とある。

うわあ、章さん、よかったね、立派な息子さんを持って。同じ村の同級生なら手に手を取って喜び合いたいところだ。息子が親の職業を継ぐというのは、家督の継承なんてケチな話ではなく親の職業に子が尊敬の念を抱くということで、それこそが親業の成功の証しであろう。その幸せな父親の方については、ネットには「カリスマ左官と呼ばれている」とあり、私の嗜好ではこんな表現は「ケタクソ悪い」のだが、それにしても、いちまるさんのおかげで 33 年も昔の恋人の今を知ることができたのは何という僥倖であろうか。


土佐漆喰についてもこのたび調べてみたが、聞けば土佐育ちの私には別に新しい話ではなかった。というより、わが家を改築して裏手の物置を離れにした時、現在懇意にしている工務店の主からその話は聞かされていた。土佐漆喰の場合には要するに「のり」を使わない工法になるが、そのとき藁スサの代わりに珪藻土を使用したいというので何も分からない私は「そうですか」と返事したのだが、数年して彼が(自主的に)点検に来てみるとその珪藻土のせいでカビが生じていたのでやり直させてほしいとの依頼があった。

AERAの記事によると、久住章氏が友人と四国をドライブしたとき室戸岬の付近で見かけた一風変わった漆喰がずっと気にかかっていて、それが契機で後に安芸市の久保田師の門を叩いて土佐漆喰を学んだのだそうだ。私の推測では、彼が土佐漆喰を見たのは室戸市吉良川町でのことだろう。ここはかつて、明治から昭和の初めにかけてウバメガシから取れる良質の備長炭で潤った町で、現在は国の重要伝統的建築物保存地区になっている。


その町並みについてはだいぶ前から聞かされていたが、近年流行の町起こしだの古民家探索だのという話に少々懐疑的だったので足を運ばずにいたところ、コロナが始まった年に寡夫になった妹の亭主が気晴らしに「行ってみませんか」というので彼の車で連れて行ってもらった。気に入ったので二度でかけ、そこの喫茶店やパン屋さんとも親しくなり、来年また来ますと約束したのにその後はドイツに閉じ込められて約束を果たせずにいる。瓦も塀もユニークだが、特に土蔵の水切り瓦と呼ばれる造りが有名らしい(写真 3 )。

この町を見て思い出したのが、これも二度訪ねた愛媛県の内子町で、ここを訪れたのは、ドイツ有数の観光都市ローテンブルクに行ったとき、内子がその姉妹都市だと知ったからだった。第二次世界大戦で灰燼に帰したこの町の復興に大きく寄与したのはアメリカで、これは町を空爆で破壊したのちに戦後この辺りを占領したのが米軍であったことによるが、無論他の欧州国や日本からの寄付もあった。再建された町の周囲の壁(これはこれで優れた石工の技を示している)に、世界各地の献金企業・個人の名前を刻んだ銘板が年代順にかかっており、最後の方だから比較的後のことだろうが、姉妹都市・内子町とあるのを見て驚いた。2007, 8 年当時は内子の存在すら知らなかったからである。


それで帰国時に一度は妹夫婦と観光に行き、なかなか良かったので次の機会には亭主を連れて行った。正午に町中にベートーベンの「歓喜の歌」が流れるのに、夫は最初びっくり仰天し、次に爆笑していたが、小京都と呼ばれるこの町でドイツ人がいきなりベートーベンの曲を聞いたら戸惑うのも無理はない。

内子町の方は木蝋で栄えた町で、芳賀家というのがその中心となっており分家が多いので本芳賀家に加えて上芳賀家、下芳賀家、中芳賀家などがある。名所としてはかつての豪商の古い屋敷のほかに立派な造りの内子座というのがあって、ここで町民たちは芝居を楽しんだという。さらに芳賀一族の豪邸を飾る鏝絵も一見の価値があり(写真 4 )、ここに見られる土蔵の「旭鶴」という商標の鏝絵などバロック・ア・ラ・ジャポネーズという趣である。その上下に芳賀家の方喰紋があるが、こちらはすっきりとした感じで好もしい。

これらの家の一つを夫も交えて 4 人でそっと覗いて、思い切って中に入って行ったところ、表座敷で家宝の刀の手入れをしていたご老人がいかにも「翁」という風格で私たちを手招きし、刀の他に家財まで見せてくれたのも、楽しい思い出である。


以上、日本の職人さんたちの業績を取り上げてきたが、もちろん欧米でも、そして特にドイツでは、これまでは職人が尊敬され大事にされてきた。それが近年のITブームで人間の手仕事が軽視されるようになって、人件費の高騰から職人に対してもいちまるさん言うところのタイパ(タイムパフォーマンス)が求められ、さらにルーチンワークやえげつない分業で仕事の醍醐味がだんだん消えていくためもあり、相関して職人も減っている。

久住さんのお父さん(一代目)が言われたように、地域に懐の深いお大尽がいて良い仕事を注文してくれるうちは職人も浮かばれるけれど、ツーバイフォーだのプレファブだのの依頼ばかりになると磨いた腕を発揮する場所もなくて、官庁のいう「技術者養成」などお題目だけではどうにもならない。

それはもうここ 30 年余り前から感じていることで、そのあたりの情勢というか時流は洋の東西で変わらないのだが、必ずしもお金持ちのパトロンやスポンサーだけが職人を支えているわけではないことを実感させられるケースに遭遇したことがある。


このブログでも何度か話題にしたアルザス地方で私たちが常宿としている所は、Osthouseという小さな村にある。そこからコルマーやストラスブルクに行くには隣の Westhouse を通らねばならない。(お察しの通り、それぞれ「東の家」、「西の家」という意味の地名で、この辺はドイツ語圏だった時代の方が長いので、地名もほぼ全てドイツ語を語源とする。)

何年か前のことだが、「東の家」村からすぐ、「西の家」村の外れに大きな案内掲示板のようなものが立っているのに私が目を留め、何が書いているか見たいと車を止めてもらった。それによると、掲示板の後方、道路からずっと向こうの方の一見農家の敷地と思えるところに Holzbad という、おそらくはローマ人がもたらした湯浴みの習慣を真似たらしき浴場があり( Bad はドイツ語で bath、つまり風呂のことである)、そのすぐ横にある礼拝堂は 1100 年頃に建てられたものだという。日本なら平安時代である。

行ってみようよ、ということになって、何の垣根も塀もないその敷地に車で入って行くと、一番手前の棟から犬が出てきて吠え、釣られて主人と思しき年配の男性が現れた。年配者には珍しくないがドイツ語が流暢、というより仏語ではなく独語を母語とする人で、私たちの質問に答えて浴場(今は単なる古跡になっている)と礼拝堂の謂れを説明してくれた。

礼拝堂を見たいというとすぐに案内してくれて、ここは普段は使われていないが公現祭や復活祭などお祭りの際には信者が集まるとのことで、小さなスペースながら祭壇もあるし村の信者の数からして十分な椅子も並べられている(写真 5 )。

その堂の両側の壁に、色がやや薄く少し輪郭があいまいだが中世の絵を思わせる絵画が描かれており、その優しさが何とも言えない雰囲気を醸し出している。聞けば、この礼拝堂は長い間、恐らく数百年の期間にわたり打ち捨てられ荒れ果てていたのだが、戦後になってこれを修理しようという動きが出てきて、関係者の尽力でほぼ元の姿に戻された。

そのときに困ったのが両側の壁の絵で、どうも何か描かれているようなのだがよく見えず、下手に汚れを取るとその絵も消えてしまいそうだというので、それこそ左官さんたちが細心の注意を払い時間をかけてオリジナルの絵を蘇らせた。建物よりはやや新しく、多分 1300 年頃のものだろうということだった。そういえば、AERAの記事に久住章氏はアメリカの修道院の修復にも携わったとある。


「西の家」村の修理・修復には国(フランス)からの援助も多少はあったろうが、その実現を可能にしたのは地域の大工や左官や石工等の職人による金勘定を度外視した献身であった。浴場がただの遺跡になっても礼拝堂がその意義と合わせて何とか残されたのは、規模は小さくても、どれほど古びていても、これは祈りを捧げる敬虔な場所なのだという意識が人々に取り壊しを許さなかったのであろう。

今でも何かの折にそこを覗くことがあるが、初めて見学させてもらって何年か後に私の頭にふと浮かんだ句がある。

・堂を修(しゅ)せば千年の画に春日射す   びすこ


閲覧数:43回5件のコメント

5 Comments


heute
Jan 10, 2023

こんなに長くてしかも無駄なくかっちりとしたコメントをありがとうございます。私が職人なら、職人冥利に尽きる感想をいただいたというところです。私の方は正真正銘の素人だから印象を連ねただけの文になりましたが、コメントの方こそ専門知識に裏打ちされた一つの作品・力作です。


瓦のこと、密でないと水漏れ・雨漏れが起きるが、といって隙間もないと蒸れてしまう、というのはよく分かります。その加減を知るのが熟練職人なのでしょうね。前にもお話したことがありますが、裏手に離れを作って間もなく、母屋の東端(東西に長い建屋なので)に白アリの被害が見つかって、屋根を葺き直さなければならなくなりました。被害からして3分の1を葺きかえれば十分だと建築家には言われましたが、昔と同じ瓦は入手できないとのことで、亭主が「上から見て3分の一が別の瓦なんてみっともないじゃないか、全部やり直せ」というので相当の出費を強いられ泣く泣く。


北と西は田圃だし、わが家の屋根を見下ろす家は近くにないから、航空写真でも撮らない限り分からないと思ったのですが、あにはからんや、新しい離れの中二階はこの屋根を見下ろしていて、ここに泊るゲストの目にはちぐはくなことが丸見えと後に分かりました。

結論から言うと、外見のためでなく機能の問題で全部葺き直したのは正解でした。二十世紀初めに建てられた家の屋根瓦は当時の工法として粘土で接着されていて、これが恐ろしく重かったのです。昔の職人さんたちの仕事が念入りだったことは、何度台風の襲来があってもわが家の瓦が飛んだことは一度もないという事実からよく分かりますが、毎年の台風もさることながら、何年かに一度の地震にも備えねばなりません。実際、南海地震でわが家の柱が僅かに傾いた箇所があり、障子戸がきちっと閉まらなくなっていました。


13年前に屋根を新しくした時、重い粘土を全部取っ払って新しい工法で瓦をくっつけたのでぐっと軽くなって、屋根の重量で家が倒壊する確率は格段に少なくなりました。白蟻に感謝すべき?


水切り瓦については、おっしゃる通りだと思います。その大きな利点を考えると全国的な広がりがあっても、と思いますが、多分高知県のそれも室戸地方となると、暴風暴雨が日本一多いので、必要が生んだ技術なのでしょう。


フレスコ画ですが、壁の漆喰が乾き切らないうちに絵を描く、失敗したら漆喰を塗り直さなければならない、というのでは、タイミングに途方もないリスクがあって「巧遅拙速」などと嘯いてはいられない。失敗が重なると費用もかさみ、結果を早く見たい領主や王様が生殺与奪の権利を発揮しかねない。昔の職人さんは命がけで仕事をしていたわけです。おかげで現代の人間は「不朽の名作」を楽しむことができるのですが。


今に残るフレスコ画は欧州ではかなりあるようですが、私はジョットの聖フランシスと小鳥の絵を見たくてアッシジに行きました。当時はまだ高齢者でなかった夫の車で。ジョットは13世紀末から14世紀にかけて活動した人なので、アルザスの小村のチャペルにフレスコ画が描かれているのも当時の欧州美術の流れに乗っていたわけですね。


塗りの話で思い出しましたが、友人に塗りのお稽古に通っていた人がいて、「先生が、漆は湿気で乾くというのよ、カッコいいでしょう」なんて言っていました。体調の悪いときは、肌がかぶれるので大変だったようです。でもそれだけ苦労してできる品は、大事にすれば何代も使える。


我が家もですが、知り合いにも戦後の改革・変革ですっかり落ちぶれ生き残りのために大変な苦労を重ねた家が少なくありませんでした。そういう人達の日常生活はちぐはぐなもので、壊れた戸やささくれだった畳を代える費用など到底捻出できなかった中で、昔の良き時代を思わせる立派な品が登場したりしました。

・貧に落ち荒めど雑煮は塗りの椀   びすこ

という暮らしでした。そういえば、だいぶ前にテレビでかつての大名の戦後の生活をレポートする番組があり、そこのお世継ぎは普通のナイフを買うお金がなかったので、見事な短刀で鉛筆を削っていたそうです。


いま私たちが使っている日常品で100年・200年後にも使用に耐えるものってあるでしょうか。それは建築物も同じで、現代の花形アーキテクトが設計した建物のいずれが次の世紀まで残るだろうかと考えてしまいます。一方で、千年も昔に聖堂や宮殿を完成させるために命を縮めた職人の一生を思うと、そういうものが消えしまっても、もう仕方がないとも思いますが。

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heute
Jan 10, 2023
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観音が宿りたまえと堂の寒

この句、素晴らしいと思うのですが、いちまるさんの作ですか。いいなあ、すごいなあ。


一昨日、東京に住む幼馴染みのご主人が神奈川県での山登りで震生湖(関東大震災による)のそばに次のような寺田寅彦の句碑を見て、写真に撮ったと送ってきました。

・山さけて成しける池や水すまし


夫妻ともに高知の人なので、同郷の寺田寅彦の句というのが嬉しかったようです。スケールの大きな見事な句ですよね。源実朝の雄大な歌を絶賛した正岡子規も、友人漱石のその友人であった寅彦のこの句をきっと大いに気に入ったと思います。雄大な景観の中の「みずすまし」というのが、もうたまらん。


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繁 大村
繁 大村
Jan 09, 2023

貴重な記事と写真ですね、菩薩のようなお顔をした久住章さん、教えていただいてよかったです。挾土秀平(はさど しゅうへい)の名も頭をよぎりました。2代目の僕の相棒が彼のことを言い出して左官に興味を持ちまして、千葉の佐倉だかの1日講習会に参加したことがあります、講師は姫路城の壁の修復に携わった職人さんでした…相棒はどこで習ったか知りませんが鏝板の持ち方も使い方もうまくてびっくりしたことを思い出しました、好きこそこそ物の上手なれ) 赤茶色の甍の波…見事でしょうね。曇天にも晴天にも似合う。 土蔵に水切り瓦が使われている理由はすぐわかりました。 甍の波と言われるように優美な曲線のリズミカルな繰り返しは誰が見ても美しいと思うと思いますが問題は瓦の大きさです。一つ一つの瓦の大きさには意味がもちろんあります。瓦の下地の通気性を維持するためと作業性だと思います。あの大きさで瓦を積み重ねていく時、重なり目の角のところ(びすこさんのブログの最初に出てくる二枚の左上の角の切り欠き)瓦に微妙な隙間ができるのです、長い間に瓦がずれていくとその隙間はさらに大きくなります、水漏れの原因です。そのために瓦寄せという作業もある位です。ただし、その隙間は必要な隙間だと僕は思っています、その隙間がないと下地が蒸れてしまって下地の老朽化が進む。ところが土蔵は中の品物を状態よく保存するための温蔵庫、冷蔵庫のような特殊な建物。水切り瓦は土蔵の構造上ぴったりの部材だと思います、蒸れる心配は少なく、雨仕舞い重視、小さめに出来ているので隙間も少ない、、あ、以下の記述も含めて、記述全て僕の想像ですのでよろしくです😉


芳賀家の土蔵の破風下の鏝絵は当時の一流の職人の手になるものですね、泥絵の具はフレスコ画との連関を想起させます。 礼拝堂の造り、質素の中にも、そのしつらい(設らい、室礼?)伝統に則ったものなのでしょうが見事なものですね、梁、祭壇、何気ない長椅子に至るまでバランスと格調、シンプルで美しい迷いのない曲線と直線の組み合わせ…神に仕えてみようかという気にもなりましょう、なっちゃって。 壁の絵の老朽化は… 1300年代ではすでにフレスコ画の技術が落ちていたのではないかと思います(フレスコ画はご存知のように非常に堅牢なものですが石灰が固まる前に描ききるという神業を要求される)技術の伝承がおろそかなのは、すでに始まっていた、それもこれも…それだけ音楽家芸術家は下層、虐げられていたということではないでしょうか。今、希少種というだけでもてはやされているかもしれませんが本当のところはどうなのかとても疑わしい、と思いますね。観客の質が落ちているからだと思います。いつだって、その時代のその他大勢が職人を育てる(金を出すのはパトロンだとは思います(誰かのパトロンになっているかどうかは知りませんが…かの不動産王にして金満家トランプ氏(まさか大統領になるとは彼の著書を読んでいる時思いもよりませんでした)はかつてアート全般について…あれはConまやかし詐欺だと言い放ったのですよ🤨)が腕の冴えを認めるのは大衆…)…そう思います。


あんたぁ、そこの名人(らんま制作)が仕事がないわよ、仕事取って来なさいよ…と向島の近所のおばさん(面識は無い!)に言われた時(おそらくは当時僕のいた事務所には若いいきのいいコミッションセールスマンたち(彼らは商材(玉ぎょく)を選びません、売れそうなものは何でも売ってくる、それが腕の見せどころ、と彼らの1人から聞きました)がではいりしていたのでそう思ったのだろうと今わかりました)…僕はそれどころじゃありませんでした、金繰りが忙しくて…仕事はたくさんある…営業マンが仕事をとってくる…手を出す、コミッションを要求しているのです…当たり前ですそれが仕事ですから…職人さん達はもっと落ち着いたちゃんとした仕事がしたい…僕が引き抜いたその人は当時20歳半ばの人でしたが明治時代日本で最初にペンキの仕事をし始めた会社(大沢塗装?)で修行した人でした、、漆の仕事(塗師の仕事、、建築塗装:外部塗装等、室内塗装、塗師ぬし、と塗装業と一口に申しましても、3分野に分かれています)でも何でもやるから仕事をとってきてよ、と言われましたが…そんな仕事は蕎麦屋の重箱、お盆位しかありません…儲かりません、儲かるか儲からないかそれが全て、くそ!5年間で目標の500件のお客を口説いた時、円形脱毛症…若い人に…坊主にしちゃえば目立ちませんよと言われました、坊主が似合ううちの兄みたいな作りではなく、短頭、絶壁なので、それは拒否しました😅 脱線修復…観音が宿りたまえと堂の寒 いやー読みでがありましたね…ありがとうございます、これは作品であり力作にしてさりげなく置かれた名品、恐れ入りました、広く読まれて欲しい、読んで欲しいです。

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繁 大村
繁 大村
Jan 11, 2023
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寅彦の句しびれますね、大山鳴動して鼠1匹、その風狂を一句でまとめて余すところがない、いつかこんな句を読んでみたいものです、そうですか寅彦さんも高知出身…うーん、東京出身の人は影が薄いな、、軽みを重んじるのはいいけど、程度問題、、なっちゃって…子規の、歌詠みに与ふる書、初めて接したとき、力入りすぎじゃないのと、、あまり感動はなかったのですが、ふざけて俳句作ってるうちに…最近あなた様の所業の意味少しわかったような気がして恐いっています、、たかが、俳句、、でもいま子規の想いは軽々と国境を越えて、俳句Haikuは世界共通語になっている、世界一短いポエム…子規さん、ありがとうございます、びすこさんに褒められました、適当に読んだ句なので、穴があったら入りたい、、けど、いい気持ちになったところでもう寝ます、高知県産の特売の茄子を、けさ、生まれて初めてごま油で炒めて茄子びたしにしておいたもの、辛口菊正に、ぴったり、その後、今日は餅がよく焼けたので海苔をまいて食べてたらお腹もいっぱいになってしまいました、失礼します、おやすみなさい😘

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