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執筆者の写真クレマチス

聖マーティンのガチョウ――ドイツの黒い森から 26(びすこ)

今年 10 月初めの小生のブログで触れた、聖マーティン(聖マルタン)の日に食べるガチョウのローストが今回のテーマ。

その前に、小生というのは男性がへりくだって自分を指すときの一人称で、女性には使えない、そもそも女性にはそれに当たる言葉はないということは知っているが、ちょうどいい機会なので、トリヴィアとしてお伝えしたいことがある。

ドイツ語には自分を指して meine wenigkeit(マイネ・ヴェニヒカイト)という言葉があり、wenigというのは「僅かな」とか「取るに足りない」という意味なので、わが微小なるもの、ということ・・・は、つまり「小生」に当たる。この言葉を初めて知った時は、極東の日本と中欧ドイツの文化にある種共通するものを認めて感慨深かった。

いきなり話が逸れたが、私「小生」が聖マーティンのガチョウについて書いたときには思いもよらなかった展開が待っていた。


あれは 2 か月前、正確には 9 月 12 日のことで、その日の空は麗しく晴れ渡り「清澄」という言葉がぴったりの安息日であった。それで午後には墓参りをしたいと私は夫に言った。

そのちょうど 3 か前に夫の会社の非常に優秀な従業員が心臓麻痺で亡くなった。昼食の最中に倒れ、周りに応急処置の心得のある仲間がいたため一旦は命をとりとめたが、入院しても意識は戻らず、一週間後に生命維持装置を外して泉下に送った。

子供はおらず、収入は能力に比してとてもよかったので、63 歳で辞めてカナダに移住したいと言っていた由、それが 60 歳を前に亡くなり移住はかなわぬ夢となった。

その 6 月 12 日はこちらで知り合った関西出身の日本人女性が一昨年に癌で逝った日でもあり、この事件はおそらく夫その他の人達が考えるよりも遥かに大きな悲しみを私にもたらした。昨年突然に妹を失った衝撃も消えてはいない。


今年の初夏はずっと曇りがちで日本の梅雨冷えのような日が続いたのに、ビリーさんの葬儀の日は突然空が晴れて気温がぐんぐん上がり、墓地では参列の従業員もみんな汗みずくであったが、夫人だけは悪寒でもするようにガタガタと震えていた。その光景だけでも、私たちの涙を誘った。

墓地を去るときに私は初めて周囲の長閑な景色に気づいてしばらく見入った。そこは先回のブログで書いたケーニヒスフェルトからも近く、古い農家が散在しているが新しい住宅も多くて最近徐々に開発が進んでいるらしい。

いいところだね、と夫と話して、いずれまた墓参に来ようとそのとき思った。


クレマチスさんへのメールにも書いたが、長月の日曜日の静けさに思う事は多々あって(真夏に旅立った妹を婚家の墓地に埋葬したのは、猛暑が治まった秋の日であった)、墓参りをしたいと夫に言った。この国では一般に墓参の慣習がないためもあり、彼はちょっと驚いたようだったが、せっかくの「皇帝日和」だから行ってみようと同意してくれた。

その途中、朝食が遅くて昼食はとっておらず小腹が空いたので、時々行くカフェ・レストランに立ち寄ってコーヒーとケーキを注文した。これも以前のブログに書いた老舗のシュタウデとならんでこの地域では人気がある食事処だが、シュタウデがもっぱら食事を出すのに対して、ここ「ラップ」は午後のお茶の時間に訪れる人も多い。


ちょうど 2 時頃でコーヒータイムに切り替える時刻だったが、まだ食事をしている人もちらほらいた。私がケーキのガラスケースの前でどれにしようかと迷っているとき、そばにアジア人らしい女性が多分デザートのケーキを選ぶのにやって来て、私をみると軽く一礼をした。

夫とコーヒーを飲みケーキを食べてから席を立とうとすると、レストラン・カフェの一角で食事をしていた数人も立ちあがり、その中に上記のアジア人女性もいた。彼女は私たちのところにまっすぐやって来て、私に「日本人ですか」とドイツ語で訊く。「ええ、私は。こちらは違いますけど」と夫を指して答えたら、彼が「ニホンジンデハアリマセン」と言い三人で笑ったが、私よりいくらか若いと思われるその女性は人懐っこく世慣れた感じだった。それが一般にこちらで出くわす日本人とは大きく異なっている。


ドイツでときどき日本人旅行者に出会うことがあり、夫は私が日本人と話をしたいだろうと余計なお世話で言葉を掛ける。夫に対してはみんな笑顔で答えるが、傍らの日本人の私を見ると途端にちょっと顔をこわばらせ、つっけんどんな態度になる。それが最も顕著なのは、ゆとりある年金生活者と思しき婦人である。

最初それが不思議だったが、その心理を分析するに「私はドイツを歩いてその雰囲気を味わいたくてドイツに来たのよ、日本人と話したければ日本にいくらでもいるわ」というところらしい。それで夫には、日本人の特に中年以上の女性に話しかけることを「禁止」したほどだった。


ところが私に親しげに話かけて来た人は、陽気でざっくばらんで、要するに「性格が良さそう」なのだ。その彼女が、自分は知り合いの日本人と一緒にお茶を飲んだり食事したりすることがあるので、もし構わなければお誘いしたい、と言った。

私が少しく怯む表情になったのを見て取り、いえ、日本人会とかそういった集まりではなく、気の合った少人数が一緒にお喋りして過ごすだけなんですよ、と言う。ああ、それなら喜んで、と私は答えて「お住まいは?」と尋ねたらシュヴァルツヴァルトでもかなり北方の、ヘルマン・ヘッセの生誕地で知られるカルフ周辺の地域であった。

ちょっとは個人情報を聞き出してもいいだろうといくつか質問して分かったのは、お父さんが商社勤めだったのでロンドンにもパリにも住んでいたことがあり、しかしその父上の仕事はドイツが主だったため、いやそもそも彼女が生まれたのはドイツなので、英・仏・独のうちドイツ語に最も馴染んでいるということだった。というより、ほとんど母語である。


クミコという名のその日本人に、私たちは中部シュヴァルツヴァルトのこのラップから遠くないところに住んでいると話して、あれこれ説明するのは面倒なので夫の名刺を渡し私専用の電話番号をそれに付け加えた。

そのあとの墓参りでは、これも思いがけず墓地の管理をしているらしい人に出くわして、周辺の村の話や 20 歳の息子を亡くした村長さんの一家のことなどを聞き、わが家でマリオさんが育ててくれた薔薇の花を墓前に飾って家路についた。


カフェ・ラップで会った日本人女性のことをほとんど忘れていた約 3 週間後、パソコンを叩いていたらそばの私の個人用の電話が鳴り、その番号を教えてあるのは 9 割が日本人なので「はい、もしもし」と応じたらクミコさんだった。

年齢不相応なほどに(?)明るく可愛らしい声で名乗った後、「ご一緒にマーティンのガチョウをいかが?」と訊く。はあ、何のこっちゃ、と面食らっていると、ちょっと早いが 11 月になったら聖マーティンのガチョウのローストを仲良しグループで食べに行く予定なので、よかったらいらっしゃいませんか、という。しかも場所は彼女と出会ったラップとのこと。


写真 1 はガチョウのロースト。丸いのはジャガイモを潰して作った団子。ローストビーフにヨークシャープィングが付きもののように、ガチョウのローストでは赤キャベツとジャガイモまたは白パンで作った団子とがセットになっている。

謂れある 11 月にガチョウのローストを食べることにも、うちから 15 ~ 20 分程度のレストランに出かけることにも異存はないので、あら、嬉しい、と答えたら、私たちを含めて 12 人のうちまだ現役の人も若干いるので 11 月 13 日の土曜日を考えており、ラップの女将さん(この人と夫とは昔からの知り合い)に話して仮予約をしたという。

みんな南ドイツの人ばかりだが、一組だけハノーファーからというのでびっくりした。この辺りから北ドイツのニーダーザクセンの州都ハノーファーまでは 600 キロ余り、車でアウトバーンを飛ばしても 6 時間近くかかる。

「まあ、そんな遠くから?」と呆れていると、その奥さんが日本人で長い付き合いなので夫妻で自分の家に遊びに来て、しばらくシュヴァルツヴァルトに滞在する予定とのことだった。


うちも現役だから 13 日の土曜というのはありがたかったが、実は聖マーティンの祭日は 11 月 11 日でフランスではこの日は休日になっている。これもブログで触れたように、そもそも聖マーティンの出世のきっかけは、世界史では「ツール・ポアティエの戦い( 732 年)」で知られるツールの司教に選ばれたことで、当時ここはドイツのカロリング朝の祖先の支配下にあったが、そんなの知ったことか、ツールも聖マーティンもフランスのものじゃ、という大国フランスの方針で 11 月 11 日が国民の祝祭日になった。ついでにマーティンさんは当時ローマ帝国の属州だった今のハンガリーの出身だが、このことについてもフランスは「それがどうした」という反応である。

ドイツでは聖人の祝日は一つもないが(その代わり 11 月 1 日が「全ての聖人の日―万聖節」となっていて、これはカトリックが多数派の州でのみ休日、プロテスタントでは聖人崇拝は排されているから祝わない)、宗派を問わずご馳走を食べることに反対する信徒はいないので、この時期はレストランにとって書き入れどきである。


私がこの誘いを二つ返事で受けたのは、亭主に鉄分の多いガチョウ肉を食べさせたかっただけでなく、ここ数年間その機会を逸していたためもある。一昨年は日本にいて手術のための検査に忙しく、昨年はちょうど聖マーティンの日にドイツに戻ってきたものの、ロックダウンでレストランもカフェも全部閉まっていた。

さて待ちに待ったガチョウのローストを食べる会、地の利で一番乗りの私たちをウェイターが長く並べたテーブルにすぐ案内してくれた。そのうちに大して待つこともなくみんなが揃ったので食事を始めたが、私はテーブルの端に座りその隣が亭主、彼の右隣がクミコの旦那様で、幹事のクミコは彼と向かい合わせに座った。私たち夫婦の向いは、夫の郷里であるラインランド・プファルツ州の、わが州との境界近くに住んでいる人たちで、その住所を聞いて夫が「ダイムラーのトラックの大工場があるところですね」というと、そこで長年働いていたという。

この人達とクミコ夫妻とのお付き合いは、クミコの旦那様のヴァルデマールもダイムラーに勤務していたのでかつての同僚ということだった。しかしこの二組の夫婦が仲良くなったのは、実はナイジェリアに駐在していたときだという。ナイジェリアですって。私はそこの怖い話ばかり聞いているので、この老夫婦が 14 年もそこに住んだという話に度肝を抜かれた。


うちと同じくハンスという名のそのおじさん(しかも年齢も同じ)に、危ない国なんでしょう、と尋ねたら、「危ない・・・」と言ってしばし沈黙した。そしてやおら、クミコたちは襲われたんだよ、と言う。強盗が侵入したのですか。…いや、自宅の使用人にやられたのさ。クミコは危うく殺されるところだった。

私は絶句してしまった。このハンスおじさんもヴァルデマールさんも、アフリカであまりにひどい目に遭い、直接・間接に言語に絶する経験をしているので、ちょっとやそっとのことでは驚かないようになっているらしかったが、現実的な私はあとで夫に、ダイムラー社が海外駐在の社員にかける保険料だけでも厖大な額になるだろうと話したことだった。

ナイジェリアは産油国ですよね、と私が言うと、ハンスおじさんは「稼いだ外貨の 9 割はトップの 1 %、いや 0.1 %の懐に入る」と淡々とした口調である。クミコが襲われた後遺症で今も病院に行く必要があるというのにも驚いた。ところが彼女自身も淡々の人で、「だって腕を切られて、ほとんど片手を失くするところだったもの」とあたかもニュースで聞いた事故のことを話すような口ぶりだ。

彼女は結婚するまでにいくつもの国で学校(それもドイツ語学校)に通い、いくつもの多国籍企業で働いてきたので、私などとは比較にならないほど大変な、一部異様ともいえる経験をしているが、何より感心したのは、それでいてこんなに優しく可愛らしくいられるということだった。すれっからしの印象や、海外生活が長い人のとげとげしさが全くないのである。


うちの亭主は亭主で隣席のヴァルデマール(この名前はロシア語のヴラジミールに相当するそうな)とすっかり意気投合し、彼からネパールやカタールやシリアでの経験を聞いて唸っていた。

座席の関係でもう一方の端の6人とはあまり話せなかったが、クミコが「こういう機会をまた設けましょうね」と言ってくれたのでわが家のハンスは楽しみにしており、他の6人も食事会の後でクミコに電話して来て私たちへのお礼を言っていたという。

お礼は夫が飲み物とデザート代を払ったことに対してで、本当は全員にご馳走したかったのだが初めて会った人にいきなり奢られては戸惑うだろうと、前菜とガチョウのローストはみんな同額だから自分で払ってもらうことにした。しかしワインやビールなど飲み物とデザートに関しては、一人一人の額を出して徴収するのにウェイターが苦労するだろうから夫が一括して払った。


ラップ側は長年夫を知っているので当たり前のように、それも手間が省けるので喜んで受けてくれたが、他の人達には当たり前ではなかったらしく「こんなにしてもらって」としつこくお礼を言われるのに少々閉口した。

夫も私も、こんなにいい人達からたくさんの面白い話を聞かせてもらったお礼としては安いもの、と言う感想である。

私は密かに、これは 9 月にその墓に詣でたビリーさんの配剤かもしれないなどと考えている。あの世でビリーさんとマーティンさんが示し合わせてくれたのかもしれない。これって、いかにも日本人らしい感じ方でしょうけれど。


写真 2 はレストラン・カフェ・ラップ。前景のマロニエの葉は、今の時期には茶色くなってしまった。
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