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執筆者の写真クレマチス

究極の「女性蔑視」発言 Ⅱ――ドイツの黒い森から 6-2(びすこ)

堂々と女性蔑視発言をした次の大物は、アインシュタインほど世に広くその名を知られた天才ではない。ただし、社会学の分野では大きな業績を残した「巨人」の一人で、私がその著書に興味を持ったのは、ここ数年の間に読んだ本の何冊かにこの人の研究への言及があったからである。

彼の名はエミール・デュルケム。フランスはロレーヌ地方に1858 年ラビ (ユダヤ教の聖職者) の息子として生を受け、従って彼もユダヤ人である。が、それよりも私は最初彼の名前に興味をもった。デュルケムは Durkheim と綴る。ドイツ語読みならデュルクハイムで「デュルクの家」という意味である。

よく知られているように、アルザスとロレーヌはドイツ領になったりフランスの版図に入ったり二つの国の間を頻繁に行き来しているが、歴史を辿るとそもそもルイ14 世がちょっかいを出してくるまでは数百年にわたって神聖ローマ帝国、ということはドイツ語圏の一部だったから、住民の多くはドイツ系の名字を持つ。

別にユダヤ人でもフランス人でもドイツ人でも構わないものの、人の出自はやはりその生涯に少なからぬ影響を及ぼすらしい。ヨーロッパではいわゆる辺境、つまり国の真ん中でなく「はずれ」に生まれた人に偉人が多い。異文化・異人に接し、時に異郷に身をおいて培われるものがあるのだろう。アインシュタインだっていつでもどこでも「異邦人」だった。(でもやろうね、州人会。)

さて私が手にしたデュルケムの著書のタイトルは、その名もずばり「自殺」である。社会学者の著者が追究しているのはあくまでも自殺をもたらす社会的要因で、題名から想像するような怖い本ではない。とはいえ、日本でこの本を入手したあとすぐ私は手術を受けることになるのだが、さすがに療養中は「自殺」などという物騒な題の本を読むのはためらわれ、結局ドイツに戻ってから読み始めた。

繰り返すが著者は社会学者であるから、自殺の社会的要因を分析・解明するのが目的で、精神病やそれに影響を及ぼす遺伝形質、さらに人種など、非社会的要因は最初にその理由を述べて除外している。社会的要因に関しては、宗教・性別・職業・既婚/未婚、寡婦/寡夫などの項目が扱われ、地域別に統計をとって、宗教の場合ならユダヤ教、カトリック、プロテスタントの順に自殺が増えていくこと、都会人の方が田舎の人間より自殺傾向が強いこと、男の自殺の方が女のそれより多いことなどをデータで証明していく。

プロテスタントの方がカトリック教徒より自殺が多いことについては、カトリックは分かり易くいうと他力本願(むろんそんな表現は出て来ないが)で「神さまのせいや、全部神さまにお任せしとるんやから」という態度なので、自己責任とかの概念は強くなく自責の念に駆られる傾向もあまり見られない。

それに比べて、もっと近代化され理性を重視するプロテスタントの方は、すべてが自分にかかってくる。個の意義を主張し自立・自律を銘じているので「社会のせい」とも言えず自分を責めて孤立しやすい、と、こういうことらしい。つまり、1人であれやこれやと「しょうむない」ことを考え過ぎるのだ。

また一般にカトリック教会の方が信徒の面倒見がよい。そりゃそうだろう、信徒は教会・神父を介してすべてを神さまにゆだねているのだから。要するに、社会の網の目の中に深く密に取り込まれていることが自殺防止の助けになる (デュルケムの言葉で言うと「自殺免疫がある」)、というのである。だから都会の孤独の中では寄りつく社会もなく、命を絶つという現象が生じる。

面白いのは上記の性別・宗派などの要素の組み合わせを現実の社会で観察し比較して行くのに、当然欧州各国がその主な対象となるのだが、イタリア、デンマーク、フランスなどは国として出てくる一方で、「ドイツ」というのはなく、大部分がプロイセン、ザクセン、バイエルンなど現在の連邦州に区分けされていることである。シュレージエンのような現ポーランド領もある。

これは当然と言えば当然で、19世紀末にドイツはビスマルクなどの主導でようやくばらばらの領邦の集合体から統一国家になったものの、地方色は依然として濃く、デュルケムが「自殺」を書いた1888年には「ドイツ」という国家概念自体まだ馴染まなかったからであろう。

また、デュルケムがロレーヌの人でおそらくドイツ語にも通じ (ベルリンで学んだ時期もある) ドイツ文化との親和度があったことは、中欧の各地方の実態をめぐる彼の緻密な調査活動に有利に作用したと思われる。

それで次は男女差であるが、これに関しては例えばイタリアの男女とプロイセンの男女を比べてどうのこうのとは言っておらず、国/地域ごとの性差別の度合いを自殺率と結びつけることもなく、結婚状態の違いによる比較を行っている。つまり、既婚・未婚・離婚の場合における男女の自殺率の差、妻に先立たれた男と夫を亡くした女の自殺傾向の違いなどである。

これらに関してはもう全てのケースで男の方に断然自殺者が多い。女がさほど自殺に走らないのは、上記の解釈を当てはめるなら、女の方はああだこうだと深く考えず他人任せ・神さま任せでのどかに暮らしているから、ということになる。

これは当方の勝手な類推ではなく、そういう趣旨のことを直接・間接に述べており、700ページ近いこの書物(ただし統計と注が非常に多いので、特に浩瀚というわけではない)の真ん中あたりで、デュルケムの女性蔑視は極致に達する。

その前段として彼は子供や老人に自殺が稀で動物も自殺をしないことを挙げ、彼らは自己充足的存在だから、という。「彼らは、自分以外の何かほかの存在によって充たされたいという要求を持たないから、それだけ生きるために必要なものを欠くおそれもないわけである」とある。

さらに未開社会の場合も同様として、そこでは「社会生活が極めて単純で、個人の社会的欲求も同じような特徴をもっているので、それを充たすわずかなもので足りるからである」と続ける。昨今、世界規模で「幸福度調査」なるものが流行っているが、「デュルケムの法則」でいくと単純でみんな似ていて多くを求めない社会ほど人々の幸福度が高いことになる。

未開社会といえば、最近「蛮族」ゴート人のアラリックに関する本を読んだのだが、ローマ帝国の軍事学者ウェゲティウスが Simple-souled, content with a little (単純素朴で、つつましい) と評したゴート族の新兵も、当時の古代世界では最も幸福な集団だったのかもしれない。その彼らもローマ帝国を陥落させたあたりから幸せそうでなくなったのは、幸福を捨てて世界の檜舞台に躍り出たせいか。そして今では、望むなら女にもその種の選択が可能となっている。

話をもとに戻して、デュルケムはさらに、

「最後に女子が男子よりも容易に孤独に耐えて生きることのできる理由もこの点に求められる。寡婦がやもめに比べ、はるかによくその生活条件に耐えることができ、男やもめほど再婚に熱意を示さないことを考えると、家族なしでも生きられるその傾向は、女子の優越性をものがたるしるしと考えたくなる。女子の感情の働きはとくに活発で、家族の外部にもたやすくその発揮の場を見出すと言われ、他方,人びとが生に耐えていくうえで、女子の献身的な行為は欠くべからざるものだともいわれている。しかし実際には、女子がこの特権を享有しているのは、その感受性が大いに発達しているためでなく、むしろ未発達なままにとどまっているためである。」

こんな風に貶されると、あんた、女に何か恨みでも、と言いたくなるではないか。当時は男と女が日々対等に接する場はなかったから、自分が動いている範囲でしか異性を観察することはできなかったはずで、時代の制限のゆえとはいえそういう限られたサンプルから結論を出すのは、社会学者としていかがなものであろう。このことから分かるように、いかに知性・見識豊かな碩学といえども、それこそ「知の巨人」でさえも、生きる時代の思潮、ドイツ語で「ツァイトガイスト」と呼ばれるものの檻から抜け出せないものらしい。

「女子は男子よりも共同生活の圏外にいることが多いので、彼女たちの中には共同生活がそれほど深く浸透していないわけで、この社会性の浸透度の低さゆえに、女子にとっては社会の必要性も少ないということである。社会の必要性という点については、女子はほとんど欲求をもたず、[仮に欲求をもったにしても] また難なくその欲求を満たしてしまう。老嬢の生活は、少々の信仰上の務めを果たし、数匹の動物を愛玩するだけでみちたりるのだ。」

老嬢!! そういえばそんな言葉があったっけ。それがオールドミスになり、田舎では「嫁かず後家」、やがてハイミスという表現も生まれ、そして「負け犬」などというおぞましい言葉が、この場合は同性によって造られた。私も子供の頃から見聞きしているが、女は男の無理解に苦しめられるだけでなく同じ女の侮蔑にさらされることもあって、「女はつらいよ」なんです。


(ブログに添えた絵は19 世紀末に描かれたセザンヌの「ロザリオを持つ老女」。セザンヌの使用人に雇われる前は修道女だったという。作家ジョルジュ・ルコントはセザンヌについて「toujours noble même dans la représentation des plus banals objets〈最も月並みな対象の表現においても常に高貴である〉と評した。)

閲覧数:40回2件のコメント

2 Comments


hmdhonau
Apr 11, 2021

そうなんですね、私も同感でセザンヌの絵を選びました。昨日読んでいた本に陋習という言葉が出てきて、かつて女性が置かれていた状況は旧弊なんてものでなく、陋習だったのだと思いました。戦後に制度や法の改革が実施されても、戦中派の心理というのはそう簡単には変わるものではありません。それなら戦後世代はどうかといえば、やはり親の世代の影響から抜けだせずにいるような気がします。でも男ばかり責めるのはお門違いの面もあるのではないでしょうか。以前テレビで若い人達が談笑する番組があって、その中の一人の女性が「私は専業主婦でいいです」というのを聞いて、こりゃダメだと思いました。・・・でいいです、ってどういうことなの。本来はもっと可能性があるのだけれど、夫になる人のために「家にいてあげる」ということだったらしい。女は女で陋習にうまく乗っかろうとしてきた部分がありますね。だから日本女性の社会進出はいつまでもはかばかしくないのだと思います。

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繁 大村
繁 大村
Apr 10, 2021

資料をして語らしめようと言う著者の本からびすこさんの視点でずいぶんいろいろなものを引っ張り出しましたね。勉強になりました。ありがとうございます。ボリュームたっぷりの文庫本を読んでも、ある地域のプロテスタントの自殺者がカソリックの人に比べて多いんだなぁ…なんて思いながら結局何も読み取れず本をパタンと閉じた記憶があります。各国、各地方の歴史における女性の抑圧の記録は意外と少ないんじゃないでしょうか。それこそがその時代が持っている「力」で、その力が無言であるが故に圧倒的な抑圧に向かう。著者の発言にも同じ圧力が加わっている。セザンヌの絵は象徴的に女性に加えられている抑圧の問題に無言で答えた彫刻のように見えます。

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