今回はヨーロッパ人によるとんでもない女性蔑視の発言を紹介したい。いずれも19世紀末から20世紀初めのことで、今だから半ば冗談として笑って聞けれるけど、という人もいるだろうが、逆に当時は誰も目くじらを立てなかっただろう。男女同権は何千年いや万年単位の人類の長い歴史の中からほんの最近生まれたばかりの概念で、動物を狩ったり領土確保の戦争をしたり肉体労働で稼いだりしていた時代には男の方により大きな権利があったのも当然である。
でも今ではボタンを押して戦争することもできるし、土方や耕作に従事する男などごくわずかで、収入を得る上で肉体の頑強さが占める役割はほとんど無視できる程度になった。第一、人類の半分は女なので、女を軽視したら消費者を対象としたビジネスもあり得ない。
だからまあ、当時は当時の事情があってのこと、と大きな心で聞いてやって下さい。別に私が彼らの肩を持つ理由もないのだけれど。それにこういう尊大で無礼な発言をした人物が、今のジャーナリズムが大好きな言葉でいえば「知の巨人」であったことを考えると、ちょっと遡及的に弾劾してみるのも一興だが。仮面を脱いだ○○博士とか。人名事典から除去せよとか、教科書に偉人伝として載せるのを止めよとか。ノーベル賞も剥奪?
ついでに、何かというと「知の巨人」などと大仰な言い方をするのは個人的に好みに合わない。これは多分、「大男、巨人(童話などの)、偉大な人物」を意味するドイツ語の Riese (リーゼ)という言葉に出くわした記者だか作家だかが「巨人」と訳してみたらカッコよかったので、NHKなど「真似しい」が後を絶たないのだろう。だけどシンプリーに「大物」でいいじゃありませんか。
リーゼの代わりに英語のジャイアントでは、まず頭に浮かぶのはプロレスラーとか野球チームでどうも威厳がなく威光に乏しく、英語の新聞雑誌でその言葉が使われているのを見たことはない。(たまたま私が目にしていないだけかもしれないが。)フランス語のジェアンはわりと使われるみたいですよ。東日本大震災の時、ル・モンド紙の見出しは「ジェアンの転落」だったって、友人が怒っていた。フランスらしい意地の悪さよね、でも日本を巨人と認めているのは進歩かな、などとも言っていたけど。
さてそのリーゼ又はジェアンつまり「大物」の最初は、泣く子も黙るかのアインシュタインです〔今月は 2分割掲載〕。
その前に、今回は引用が入るので、それでなくとも長くなりがちなわがブログがさらに長くなる旨をお断りしておく。
実は先日、あることで寺田寅彦の随筆を読みたくなり(この物理学者は私の同郷人)、青空文庫を見ると超長い作品リスト(288件)の最初が「アインシュタイン」だった。意外だったので、私は好きな「どんぐり」などの再読は後回しにして、あいうえお順に読み始めることにした。そこで描かれるアインシュタインの生涯は、アレキサンダー・モスコフスキーというジャーナリストあるいは評論家らしき人物の書いたものに由るところが大きく、どちらかといえば娯楽読み物的なこの本はパリにいる知人から寺田に送られてきたものだという。
アインシュタインに関してはウィキペディアを見れば幼年時代、青年時代、学者として名を成したその後のことが詳述されていて、そのウィキを執筆した人は一部またはかなりの部分寺田寅彦の「アインシュタイン」を参考にしたと思われる。だからここでその生涯について改めて述べる必要はないのだが、個人的にちょっと嬉しいのは、彼が私の住む西南ドイツの州の生まれということで、いずれあの世に行ったら、寺田寅彦とは県人会、アインシュタインとは州人会(などというものがあるかどうか知らないが)がやれることになる。
さらにアインシュタインが 20代後半に勤務して、のちの学者としての活動に潜在的な影響を与えた(といわれる)技術特許局はチューリッヒにあり、これもわが家から目と鼻の先なので、勝手に何となく親しみを感じている。
ユダヤ人であったためドイツの学界で受けた冷遇やアメリカの大学でのエピソードなどは、これも関連した読み物が世に多くあるので省略するが、付言すると寺田寅彦が「アインシュタイン」を発表した翌年の1922年にアインシュタインは来日し、寺田寅彦はその講演を聴講するとともに歓迎会にも招かれている。
この「アインシュタイン」よりも、私が読んでさらに面白いと思ったのは、青空文庫のリストの二番目にある「アインシュタインの教育観」である。これも上記のモスコフスキーの本で 1章を割いて書かれていることに基づいており、そこで彼モスコフスキーは実際にアインシュタインに何度かあってその教育観について聞いたことをまとめているわけだが、そういう話題に乗ったことから分かるようにアインシュタイン自身も教えることに興味を持っていたらしい。
いわゆる象牙の塔に籠った学者ではなく、庶民からのファンレターにもできるだけ返事を書こうと努めたし、忙しい中で講演を依頼されても厭がらずにそれに応じようとしたという話から、結構人好きのする庶民的なおじさんだったと思われる。
これも相手が数学・物理学の天才とあれば意外ではないが、言語に関連した学問は嫌いで外国語も苦手だったらしく、また世界史なども「あまり必要でない」からカリキュラムから削ってよい、という意見だった。とにかく無味乾燥な詰込みの学科を毛嫌いしていた。数学に関しては私などから見ると非常に理解があり、数学嫌いの要因は生徒の無能より教師の無能のせいだ、などと言っている。よくぞ言って下さいました、アルバートさん。
しかし「アインシュタインの教育観」のクライマックスは何と言っても、彼の婦女子教育についての見解である。これはもう、寺田寅彦がモスコフスキーから引用している彼の言説をそのまま紹介した方がよいだろう。
『次に女子教育問題に移る。
婦人の修学はかなりまで自由にやらせる事に異議はないようだが、しかしあまり主唱し奨励する方でもないらしい。
「他の学科と同様に科学の方も、なるべく道をあけてやらねばなるまい。しかしその効果については多少の疑いを抱いている。私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」
キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、
「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから定まっている標準は動かされない。」
モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、
「貴方(あなた)は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智能が増すという『量的』の前提から、天才が増すというような『質的』の向上を結論するのは少し無理ではないか。」こう云った時にアインシュタインの顔が稲妻のようにちょっとひきつったので、何か皮肉が出るなと思っていると、果して「自然が脳味噌のない『性』を創造したという事も存外無いとは限らない」と云った。これは無論笑談(じょうだん)であるが彼の真意は男女の特長の差異を認めるにあるらしい。モスコフスキーはこれを敷衍(ふえん)して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。』
さあ、これに関して世の女性はどう反論するであろうか。私としてはここ百年に登場した女性の天才の数、つまり質的向上の度合いなどに鑑みて、あまり歯切れのいいコメントはできない。ただし、私は今までに耳にした科学史のエピソードから、本当は女性の功績なのに夫や息子がその成果を横取りしたケースもあるのでは、と密かに思っている。妻や母(それもたいてい学者の娘)に手伝わせた分野としては天文学が多く、宇宙物理学にはかなり早くから女性が関与していたのではないか。
(私の知る最初の例は、11世紀初めにイスラム支配下のイベリア半島で有名な科学者だった父親の助手として天体観測を行っていたファティマだが、古代ギリシアにも女性の天文学者はいたらしい。)
ここでアインシュタインの女性観について詳しく調べても面白いと思うが、直接にそれを論じた書物があるかどうか分からない。ただ、この天才おじさん、二度結婚しており、一度目のセルヴィア人の妻とはチューリッヒ工科大学で知り合ったそうで、当時世紀の変わり目に女の身で大学教育(今日のそれとはレベルが違う)を受けたということ自体が例外的存在だった。しかしそれだけに離婚の協議も一筋縄ではいかなかったらしい。また面白いのは、この女性、物理などの成績は良かったのに数学で落第していることで、女の脳みそは数学向きにできていないというアインシュタインの説もここに端を発しているのかもしれない。
それから、二番目の妻は彼の従妹に当たるバツイチの女性で、彼女は再婚後17年ほどで亡くなっているが、こちらは穏やかな「良妻」タイプだったようだ。天才といえどもやはり自分にとって気楽な相手を望む点など、そのあたりは普通の男だなという印象である。
(写真はマリー・キュリーと娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリー。イレーヌもノーベル化学賞を受賞している。)
ドイツを含む欧州の人たちは一般に調和とか穏和ということを好まないのですよ。そんなものを求めるのは弱虫だと思っている気配がある。対立こそが進歩をもたらすと信じている(どんな進歩か知らないが)。体力もありますしね。だから離婚が非常に多く、裁判沙汰が引きも切らないのだと思います。でもある程度年をとると、みんな諍いに嫌気がさすのか穏やかになっていくみたい。
私の独身の友人があるとき、その同僚についてこぼすのです。大学講師をしていて優秀で人柄もいいんだけど、くだらぬことにグタグタ拘って決断は遅いし、何かというと「主人に訊いてみる」というんですって。ご主人は大学工学部の教授でもちろん頭のいい人なので、その私の友達が「あのダンナ、あんな妻でイラつかないのかしら」と不思議がる。それで私が「でもご主人にとっては、そういう奥さんで居心地がいいんでしょ、きっと」というと、「それで分かった!」と、大変な発見をしたかのような口吻。何かと思えば、彼女いわく「世の男は10人中ほぼ10人が私といると居心地が悪いと思う。そうか、それで私は今も一人なんだわ」ですって。でも居心地のよい女になる気はさらさらないそうです。
あー面白かった、ふー この話を拝見して、最初に思った事は、、、不思議と隔世の感がなかったことです。 あまりにも急激な男女同権の風潮が最近加速化しているような幻想がありますが、どうなんでしょうか。webが知らしめる日々の真実は、、、つまり、絶対数の多さから言えば一握りの真実の海に溺れそうになっている連中の現状は、つまりつまり現状維持が好都合な連中にとっては、真実はすべて脅威だと思います。その意味で…隔世の感がない。 その上で改めてびすこさんが引いてくださったアインシュタインの結婚における家庭の平穏は先駆的なものだと思いました、実際がどうだったかは別として。ひとつ屋根の下にいて平穏に暮らすと言うことがどんなにか知恵を絞るものであることかおぼろげながらに想像できるからです、偉そう😓 男女同権とは…お互いが自分のままで良い、と言う考え方を含むとし、広げる可能性と意義があるなら、webは人間の全歴史を通じて人間を変えた最も革命的なツールだったと子孫たちは称えることでしょう、エセ造物主^_^ さて、気を確かに持ってぼくに帰って(我に帰って)、、、 難しい事は分かりませんがアインシュタインがある意味平凡な女性と安穏に暮らしたと言うことは、話しが落ち着くところに落ち着いたなと平和な気分になれました、 どこに落ち着くんだろうと言う話題もちゃんと落ちつかせてくれるびすこさん、今回も楽しいお話をプレゼントしていただきありがとうございました。特派員手当は当分出ないと思いますが今後ともよろしくお願いいたします。