週に一度ネットで送られてくるエコノミスト誌、先の金曜日の号でもお決まりの欧州のコロナ問題やらバイデン大統領の景気策やらが並び、またお隣フランスでマクロンの人気がぱっとせず極右のル・ペン女史に追い上げられている等の見出しもある中、ふと、日本の詩人がどうのこうのという記事が目にとまった。
ナニナニと読んでみたら、それは地球温暖化で桜の開花が早まるなど自然界が乱れてしまい、そのために季節を需要な要素とする俳句・短歌にも影響が及んでいる、という話であった。
桜の時期が古今和歌集などの時代とずれているというだけでなく(旧歴・新歴の話は面倒なので触れない)、生活様式や慣習の変化で、季語というものも俳諧が成立した江戸時代の約束事や高浜虚子一派の業績では網羅しきれなくなっている。
近代化の側面はともかく、昨今騒がれる気候変動の文学への影響について天下の(?)エコノミスト誌が注目したのは意外だが、近ごろは俳句に関心を持ち英語やドイツ語でチャレンジする欧米人も増えているので、ちょっと変わったこんな記事の読者層も広がったとみての掲載なのだろう。
まず、この記事を翻訳してご紹介する。できるだけ原文に忠実に訳したつもりだが、きっちりした翻訳調では読みづらいので多少言葉を補った箇所もある。
以下、訳文、注は訳者
『気候変動の被害を受けているもう一つの種:日本の詩人
「さまざまのこと思い出すさくらかな」日本の詩人(俳人)芭蕉はこう詠んだ。(注:英語では how many, many things / they call to mind / these cherry blossoms! となっている。)この花はずっと昔から、美や儚さや自然界の切れ目ないリズムを思い起こさせるものだった。さて今年もまた咲いたものの、これらのリズムが変わり行くことが感じられる。東京での桜の開花は 3月14日で、これは1953 年に気象庁の観測が始まって以来のタイ記録である。京都では 3月26日に満開となり、1200 年の歴史における新記録となった。科学者たちはその原因を気候変動に帰している。
近いうちにサクラは単に開花が早まるだけでなく、今までほど見事に咲き誇ることはなくなるのではないか。日本の大部分の地域で見られる桜はソメイヨシノという品種で、これは秋から冬にかけて寒さが続いて初めて春に豊かに蕾をつける。温度は約 40日間に亘って摂氏 8度未満でなければならないが、日本の南の地域ではこれは保証できない。幸いにも、理化学研究所(理研)の科学者たちがさほど面倒でない変種を創り出した。阿部知子と彼女の同僚は粒子加速器の中で桜の種に照射してそのDNAを刺激し、そこから暖冬のあとでも花が咲くニシナオトメという変種を生み出した。(注:ニシナは理研の仁科加速器科学研究センターに因む。)
気候変動によって、桜ばかりでなくそれを愛でる詩人たちの間にも混乱が起きている。日本文学の中で季節は常に重要な位置を占めてきた。十世紀に編まれた歌集「古今和歌集」は、その最初の 6 つの章で季節を扱っている。十七世紀に俳諧を成立させた芭蕉は、その句にkigo つまり季節の言葉を入れて時を示すとともにある種の情緒を醸し出そうとした。
ここ何世紀かの間に俳人たちは季語の暦(注:歳時記のことか)を編纂し、多くの自然現象やまた人間の営みさえも季節毎・特定の月毎に分類してきた。しかし温暖化が進み天候が極端化するに伴って、季語はそれが示すはずの季節と一致しなくなってしまった。この「季節のずれ」のため、現代の読者は伝統俳句を理解するのに苦労している。こう語るのは鹿児島国際大学で形/型を教えるデイヴィッド・マクマレイ。台風が詠まれる句・短歌は秋を思わせるはずなのに、台風は既に5月から、そして12月に至っても発生するようになった、と俳人の宮下恵美子は嘆く。不安定なサクラは確かに気を揉ませるが、心に訴えることに変わりはない。それは「われわれが置かれている危険な状況」を思い起こさせる。』
ちょっとでも俳句の実作に手を染めた人なら、上記の記事にある「季節のずれ」はときに切実に感じられるであろう。今は季語・歳時記についてのしっかりした書物もあるし、インターネットのサイトでも季語は豊富に紹介されている。
季語があるからこそ、俳句はそれに加えて5・7・5という簡単な制約の中で楽しく踊りまわることができる。たった17文字で。逆に自由詩などの方がよほど難しそうだ。しかし、季語が確立されたのはいつか、そもそも確立されているのか、という点は別として、一般に季語とされる言葉のうちのかなりの部分が現代の生活から姿を消していたり、残っているにしても日々の暮らしに合致しなくなっていることは確かである。
一例をあげると、現代に「蚯蚓鳴く」なんて秋の季語を使いこなせる俳人がいたら弟子入りしたいくらいだ。蚯蚓が鳴くことの真偽はともかく、夜も更けて地中から響いてくるかすかな虫の鳴き声が聞こえるような場所は、今の日本にはもうほとんどなくなっている。第一、忙しい現代人は誰もそんな声に耳を澄ましたりしない。
この蚯蚓の鳴き声は実は螻蛄(ケラ/オケラ)の声だという。螻蛄なら私も馴染みがある。昨年も自宅で出くわしたから、絶滅の危機を案ずる必要はなさそうだ。私は「虫愛づる姫」(堤中納言物語)ほどの好奇心もアンリ・ファーブルのような探求心もないが、この螻蛄は愛嬌があって好きだ。何たって手がすご~く可愛い。ペットにしたいくらい。虫愛づる姫は男の子たちを虫捕りに使い、「童の名は例のやうなるはわびしとて虫の名をなむつけ給ひける」そうで、その一人を「けらを」と呼んだというのも「いとをかし」である。
で、人がその鳴き声を蚯蚓と思っている螻蛄は、実は俳句の世界では夏の季語だそうな。私は春に土起しした畑でケラちゃんに会うことが多かったので、なぜ夏なのか納得できない。去年わが家にふいと螻蛄が訪ねてきたのは秋だった。要するに地中で眠る冬以外はいつもいるわけで、季語を夏とする根拠は何だろう。
植物の世界でも季語と実際の季節とのギャップは珍しくなく、とはいえいくら何でも1月にソメイヨシノが咲いたり、梅が前年の12月に香を放ったりということはなかろうが、私の郷里ではこれも昨年の正月早々にレンゲが咲いていた。その横でシロツメグサも咲きかけていて、こちらも季語になるらしい。外来種とはいえ渡来は江戸時代だというからまあいいか。植物図鑑によると、晩春の季語とされるこの植物の花期は春から秋までだという。
園芸種となると、洋花や交配による新種も急速に増えているからあまり細かいことを言っては切りがない。人工的な植物として毛嫌いするのも可愛そうだ。(茶の湯の世界では、それらは言下に除外されるらしいが。)
人工的といえば、エコノミストの記者が張り切って取材したソメイヨシノだって自然に生まれた花ではない。ウィキを見ると栽培品種のクローンなどと書いてあって、どうも艶消しである。そのことはひと先ず忘れて花を楽しむとして、問題はやはりそういう出自のゆえか長生きできないことだ。樹齢は平均 60年というから、私が生まれる前に植えたソメイヨシノは仮に存在するとしてもかなり弱っていることになる。まさに姥桜である。
もっとも、古今集など昔の歌集に詠まれ、あるいは源氏物語にも登場する「花」はオカメザクラとかヒガンザクラなど日本古来の長寿の桜で、面白いことに欧州でよく見かけて土地の人が「日本の桜」と読んでいるのは、これらの古風な花である。ソメイヨシノはどこでも見たことがない。
また、エコノミストの記者というなら専門は政治・経済、せいぜい社会学を齧った程度だろうから、そんな人に短い駐在期間で日本の文化を学べと言っても無理な話ではあるが、この際、サクラの風趣は花だけじゃないのよ、と言っておきたい。
あなたがた葉桜ってご存じ? これは温暖化でやられるような柔な相手じゃありません。やられるとしたら毛虫。さらに桜紅葉の美しさも知ってほしいものだ。もちろん葉桜も桜紅葉も、ついでに毛虫も季語です。
ついでにドイツ語の俳句の例を(ほぼ)逐語訳付きでご紹介。
Schlaflos – auf dem Kissen neben mir Mondlicht
Roswitha Erler
眠れない/私のそばの枕に/月の光
Shinkansen – Nach dem Tunnel rast das Licht durch die Waggons.
Klaus-Dieter Wirth
新幹線/トンネルを抜けると光が/車両を駆け抜ける
Gewitterluft der Hofhund knurrt seinen Schatten an
Gabriele Reinhard
雷雨の気配/農家の庭先で犬が/自分の影に唸る
どなたかこれらを5・7・5に変換して下さいませんか。
(最近友達にもらった手紙に東京都美術館で買ったという吉田博の版画が同封されていたので、他にどんな作品があるかとインターネットを見ていったら桜をテーマにしたものも多かった。今回の「雲井桜」は明治 32年の水彩画だそうだが、長羽織や銘仙の着物、手にした巾着袋など昭和 30年代にも婦人の外出着はだいたいこんな風だったと記憶しており、そう遠い昔という気はしない。)
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