今年はもう終わったが、四月は私の父が召された月で、晩年に初めて互いに打ち解けた母方の伯母もこの月の、しかも同じ日に他界した。数年前には、心身ともに頑強でさぞかし長寿であろうと思われた恩ある元上司が白血病で突然亡くなり、親しい友人の父上はこれぞ正真正銘の長寿で103 歳で逝った。伯母の息子 (私の従兄) の妻に悔やみ状を書いたとき、これからは桜が咲く季節になると亡き人を偲ぶことが増えます、と記したが、「まっこと」(土佐弁で「まことに」という意味)増える一方である。
そんな中で英国女王の夫君エジンバラ公爵(こちらではフィリップ公と呼ばれる)が 4 月 9日に 99 歳で逝去。年に不足は無く、女王との結婚生活も73 年にわたったというから、少なくとも一般論でいえば健康にも家族(多少難あり?)にも恵まれた幸せな生涯だったといえよう。
私は君主制の支持者ではなく、といって廃止論者というのでもなく、世間の大方のごとく王室のことは「どうでもよい」派なのだが、6、7 年前にテレビのドキュメンタリー番組でこのフィリップ公の母君にあたるアリーチェ・フォン・バッテンベルクの生涯について知ってから、フィリップ公とドイツとの関係に興味を持つようになった。アリーチェというドイツ語名は英語ではアリスで、一般にはこちらの名前で知られているようなので、これも以下アリスとする。
このアリスはドイツのヘッセン大公ルードヴィヒ・バッテンベルクとその妻ヴィクトリア・フォン・ヘッセンの間に生まれる。両親ともにヘッセン(フランクフルトの周囲の地域)の貴族で、母親のヴィクトリアは祖母のヴィクトリア女王からその名前をもらい、女王の孫ということでウィンザー城で生まれている。そしてその娘のアリスもまたウィンザー城で産声をあげた。両親も彼らの祖先も英国人とドイツ人のミックスだから、アリスは両国を往復して過ごしたらしい。
大貴族の姫君なのだが、この人の生涯は生まれ落ちたときから平穏なものではなかった。聴覚障害者だったのだ。そこで驚くのは、ヴィクトリア女王の孫である彼女の母親が、信念に基づくのか、単に面倒だっただけなのかは分からないが、特別な教育は施さず、娘に自分自身で何とかせよと言ったことである。
誰にも頼れないと悟ったアリスは独力で読唇術を習得し、普通に生活する分には問題ない程度になった。それもまずは 2 か国語の読唇である。ついでにフランス語も、そして後にもう 1 か国語が加わった。話者が目の前にいなければ唇の動きが分からないこの方法には限界があるが、それは手話の場合だって同じだ。
両親のどちらにも英独の血が流れていたことについては、そもそもヴィクトリア女王自身がドイツのハノーファー朝の子孫でほとんどドイツ人なのだけれど、それを言うと面倒な話になるので省略する。(ただ、ハノーファー朝てなんや、と思われる方のために分かりやすく説明しておくと、英国でスチュアート朝の後継者が絶えたとき、同王朝から嫁をもらっていたドイツのハノーファー家のゲオルク王子を連れてきてジョージ 1 世とした1714 年にこのドイツ系王朝が始まる。そのときゲオルクに付いて来たのがかのヘンデルで、英語の分からない 50 代のジョージがテムズ川の舟遊びで憂さを晴らす際の余興として、有名な『水上の音楽』を作曲した。)
一方、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公はドイツの名家ザクセン=コーブルク=ゴータ家の公子であった。彼をヴィクトリアに紹介したのはベルギーの初代国王レオポルド 1 世で、1831 年まではベルギーなんて国はなかった。だからベルギー国王といっても他所から連れて来るほかなく、それでドイツの貴族(やはりザクセン=コーブルク系)の公子レオポルドに白羽の矢が立ち、その彼がアルブレヒト—(英語でアルバート)とヴィクトリアの仲人になったというわけである。
因みに、欧州には「世界で最も薄い本」はベルギーの歴史の本とドイツのユーモア集だというジョークがある。それを言うと夫は怒るが。
さて、ヴィクトリア女王はアルバートに一目惚れし、王室内の反対派を押して結婚する。そしてほぼドイツ人のロイヤルカップルはドイツ語で会話しながら仲睦まじく暮らし、42 歳でのアルバート公の死は早すぎたものの 9 人の子を成して娘を欧州各地の王家に嫁がせ、ロマノフ朝ロシアとまで縁戚関係を結んだ。アルバート公を婿養子に出したコーブルク家には、アルバートの二男が養子として戻る。
当時から既にドイツ人を粗野で頑固な田舎者として嫌う一派が英国上流社会にいたので、アルバート公はその能力と教養にもかかわらず馬鹿にされ冷遇されたという。ただ妻の愛情と尊敬とは大きな支えとなった。この点はエリザベス女王とフィルップ公との関係によく似ている。
さらに、女王の側が一目で心を奪われたという点も共通している。確かにフィリップは映画スター並みの容貌に威厳が備わっていたから、ヴィクトリア女王の玄孫同士の見合いでエリザベスがぽーっとなったのも無理はない。
さて年ごろになったアリス姫(フィリップ公の母君)はギリシアの王子に嫁ぐ。先月にフィリップ公の逝去を報じた新聞雑誌にはいずれも、父親はギリシア・デンマークの王子だったとあり、これは間違いではないものの、この父親はギリシア人でも、もちろんデンマーク人でもない。上記のヴィクトリア女王が多産だった関係でギリシアともデンマークとも繋がりがあったが、実は(元)ギリシア王家のメンバーはこれまたドイツ人である。
長くオスマントルコの支配下にあったギリシアが独立戦争に勝利した19 世紀の初め(英国から馳せ参じた熱血詩人バイロン卿はあまり出番がなく、熱病で客死)、当時それを支援した列強は君主制を押し付けたが、ベルギーの場合と同様にギリシア人の中には適格の首長が見つからない。それで当時欧州で権勢を誇っていたドイツが南部の領邦バイエルンから王族を連れてきた。ドイツ人によるドイツ人の王家とあってギリシアの市民に馴染むはずもなく、極めて危うい王権であった。
巷に流布した説によると、次男だか三男だかで王位継承の望みがないアリスの夫は自堕落な生活をおくり次々と取り換える愛人のもとで過ごすようになって、アリスはそれが原因で精神を病むことになったという。それは事実だろうが、ここでちょっと考えると、自分の意思と関係なく聴覚障害の娘と結婚させられたこの王子の立場にも僅かながら同情の余地があるかもしれない。
アリスは優れた資質を持つ女性だったが、毎日青空のギリシアで甘やかされて育ったぼんぼんの王子には女の人格などどうでもよかったのだ(断定)。それでも二人の間には5 人の子が生まれ、最初立て続けに娘 4 人が生まれたあとで 5 人目にやっと男児が誕生した。それがフィリップである。母親がドイツのバッテンベルク家の出で、父親は革命でギリシア王家が倒れた後にモナコかどこか駆け落ち先で亡くなるので、息子はフィリップ・フォン・バッテンベルクと呼ばれることになる。
二つの世界大戦の間の時期アリスは双極性障害のためベルリンやスイスで療養生活を送っており、その頃には娘たちが全員ドイツ人と結婚していたため、彼女らと年の離れた弟のフィリップは姉たちの世話を受けて成長する。一番親しくしていたのはバーデン辺境伯に嫁いだ次姉のセオドラで、彼女だけ配偶者がナチス党員ではなかった。
居候先がドイツ西南部(黒い森の周辺)で、ドイツ有数の賢公とされた人が姉の夫だったことも幸いして、フィリップはこのバーデン地方の名門シュロス・ザーレム校に入学する。これはユダヤ系教育学者のクルト・ハーンがバーデン公の支援を得て設立した全寮制ハイスクールで、ドイツ語を母語とした彼にとってそこでの授業や生活に何ら支障はなかった。その後彼はバッテンベルク家の叔父を頼って英国に渡り、同じクルト・ハーンが設立したゴードンストウン校で学ぶ。
フィリップがまだ10 代だった時期に第二次大戦が勃発して英・独は敵対関係に入るが、それ以前、彼が生まれた当時既に第一次世界大戦の影響で英国の対独感情はこの上なく悪かった。この大戦に大きな責任のあるプロイセンのウィルヘルム 2 世もまたヴィクトリア女王の孫で、身内同士が不倶戴天の敵になったわけである。
一般国民の感情に鑑みて王家からドイツの匂いを消し去るためハノーファー王朝という名は廃され、ウィンザー朝と変わって今日に至る。のみならず、英国の特に軍で重要な地位にあったバッテンベルク家もそのドイツ名を嫌い、マウントバッテンとした。ベルクは山という意味で「バッテン山」という名字だから、それを英国風のマウントバッテンとしたわけである。何だか姑息ではないか。祖先をないがしろにしちゃいかん。
英国のパブリックスクールを卒業したフィリップは海軍学校に入り、続いて海軍(ロイヤルネービー)に入隊して第二次世界大戦に従軍した。一人息子は英国海軍の士官、他方で娘 4人の 3 人までがナチスの高官を夫に持つとあって、この時期の母親の胸中は察してあまりあるが、アリスはアリスで戦前にスイスのサナトリウムを出て大戦中は戦火のギリシアに住んでいた。
使命を受けて立つ彼女のような人物には苦境が力の源泉となるのか、ギリシア正教の信仰を深め(後に修道女となる)粗末な家に住んで貧者や被災者の救済に奔走し、さらに大きな危険を冒してユダヤ人を匿っている。この行動がのちにイスラエル政府の知るところとなって表彰されるが、そのときにはアリスは既にこの世の人でなく、息子のフィリップ公が代わってイスラエルでの式典に赴いた。
最晩年には息子夫妻のいるバッキンガム宮殿に呼ばれ、そこで生涯を終える。ウィンザー城で生まれ、亡命者として欧州大陸をさまよい、バッキンガム宮殿で亡くなったアリスの生涯は、「一身にして二生を経るが如く」(福沢諭吉「文明論之概略」)なんてものではなかった。当初その遺骸はウィンザー城の聖ジョージ・チャペル(今回フィリップ公の葬儀が行われた場所)に埋葬されたが、死後 20 年近くを経た1988 年にようやく、エルサレムのオリーブ山の麓で眠りたいという彼女の遺言が叶えられた。
「艱難汝を玉にす」という格言通り、彼女は逆境に鍛えられ磨かれていった。聾者という先天的な障害を自力で克服し、家族を分断した戦争も子等との別離も運命として静かに耐えた彼女であるが、夫の放蕩と裏切りに深く傷つき心を病んだのは、これが自分の精励刻苦や学びではどうにもならない苦しみだったからだろう。貧乏よりも病よりも辛いのは夫の背信であると、私は何人かから聞かされた。もちろん、贅沢な暮らしができるなら愛人の二人や三人へっちゃら、という女もいるだろう。しかしアリスはそういう女性ではなかった(これも断定)。
ドイツ人としての出自を大っぴらに語れず肩身が狭かったフィリップ公を不憫とも感じていた同胞は少なくなかったけれど、コロナ禍の中の葬儀とあって30 人に限定された参列者の中にドイツ側の貴族 3 人が含まれていたことは救いだったと思う。故人の母君アリスのためにも。
(写真は若き日のアリスと、美青年フィリップと、フィリップが学んだシュロス・ザーレム校。ここはわが家からはスイスの方角へ1時間ほど。)
〔以下は著者の近況を伝えるびすこさんからクレマチス宛のメールの抜粋です〕
**さま
こちらでは四月はどんな天気もありの月と言われますが、今年は総じて寒く特に下旬は小雨で霧も出て、厭な 11 月に似た気候でした。日本も数日前のニュースでは行き交う人が傘を指していましたね。でも温度はさほど低くなさそうでした。
さて今回は、4 月 9 日に世を去ったエジンバラ公に関係したブログです。……
明日がメーデーでスーパーはお休みですので金曜の夕刻買い物に行き、生まれて初めて髪を止めるピンを買いました。私はこれまでいつもショートで(美容院で「セシルカットに」と言っても分かる人はもういませんけれど)、一生長くするつもりはなかったのですが、ずっと美容院が閉まっており、やっと開いたと思ったら、お上のお達しで 24 時間以内の PCR テストの結果が陰性という証明書をもって来た人のみ中に入れてよい、ということで、みんな(私も)そうまでして、という反応。店の人もそんな要件のために顧客が減ったと、とても怒っています。政府はまた、すべての企業が社員のために定期的に PCR 検査を実施するよう義務付けており(社員にはノーという権利があるそうですが、会社にはいやおうなしに検査実施の義務あり)、私も事務所で受けられるのですが、どうも気が進みません。でも来週は半日だけですが出かけるので、火曜日午前中に検査を受けようと思っています。髪の毛の話ですが、日本を発つ前に切ったきりでかなり長くなっており、ただ幸か不幸か天然パーマのためウェーブがあってわりとまとめやすいので、適当にピンで止めると外出時もあまりみっともなくないようです(周りもそのまま伸ばせばいいのに、と言います)。ほんとにコロナのおかげでいろんなことがありますね。
メルケルはワクチン接種でも劇的な感染者減は見られないので業を煮やし、これまで各州に任せていたのを中央で一括して対策を決めることにし、「非常ブレーキ」とやらを掛けています。反対派が憲法違反で最高裁判所に訴えると騒いでいるところです。実際、各地の条件が全く異なるので、美容院の場合のように同じ規制を全国にというのは無理があります。ドイツは 9 か国と国境を接しており、デンマークに近い北方のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州は感染者が少ないのに対し、チェコと接するバイエルン州・ザクセン州は「ホットスポット」とやらがすぐそばですのでビクビクです。ニュージーランド、台湾、日本など、海に囲まれている国とは事情が全く違います。
今回のストーリーをメイン・プロットとすると、そのサイド・プロットというか、派生した話はたくさんあって(何しろ欧州全体の王族・貴族の話だから)、紙幅の関係で割愛したのが、ヴィクトリア女王の多産と婚姻策で広がった遺伝病のことです。
今ちょっと免疫と遺伝子の本を読んでいて、私には息切れ・ため息の連続になる難しい内容ですが、それでよけい英国王室が広げた病気に興味が湧いたというわけです。
ヴィクトリアに端を発した(といってもその前に誰かからもらったのですが)遺伝病というのはhemophilia、日本語では血友病で、これ血液が凝固しない病気なんですってね。そしてよくあることですが、劣性遺伝なのでX染色体が2本ある女性には遺伝はまれなんだとか。
この病気はヴィクトリアの子孫の結婚で北欧やらドイツにももたらされるのですが、一番歴史を変えたのは(そのとき歴史が動いた!?)女王の大甥であるニコライ2世と、女王の孫であるその妻との間にできた皇太子が血友病だったことです。
そのために母親の皇后が絶望的になって頼ったのが怪僧ラスプーチン。この人、麻原彰晃に似てません?やることは弓削の道鏡風。彼のおかげで国政はメチャメチャになり、結局彼のみの粛清では済まずロシア革命で皇帝一家は全員殺されてしまうのですが。
というわけで、血友病は王室病とも呼ばれたそうです。
血友病の場合もですが、遺伝子の話にはよく「ランダム」という言葉が出てきます。つまり法則はなく因果関係も特定できず、予測が不可能ということ。私たちの体には数えきれない遺伝子があって、極悪遺伝子からハッピー遺伝子までさまざま。いつどこで悪者が顔を出すか分からない。
そして血縁同士の結婚だとこのランダムネスが悪く作用して、確率的に不利になるらしい。だから英国王室は親戚同士の結婚を止め、二代続けて英国内の「他人」からお嫁さんをもらうことになって、やっとわかったのね、です。
ところで、英国王室がどうしてもドイツ貴族に頼らねばならなかったのは、1.貴賤結婚が禁止されていた、2.カトリック貴族(フランス・オーストリアなど)からは嫁はもらえない、という理由で、このうちの2番目はヘンリー8世の遺言(?)です。その話をすると長くなるので、またいつか。
うわー今回も何やらロングストーリー…と思って読み進めたらあれよあれよとふむふむふむ、え?へーそういうことであーなってこうなったわけだと、、、いつものように持っていかれていつものように人に語りたくなるイギリス女王陛下の旦那さんのお話興味津々で早くも認知症気味の僕の頭にもすんなり入りました。こうしてお話をうかがうとイギリス王室ファミリーになんとなく親しみがわいてくるから不思議です。ちょっと考えてみますと、、生まれた時から王室ファミリーの歴史をごっそり背負わされて好奇の目を含むその他大勢の注目を浴び続ける人生…は一般庶民とはかけ離れているだろうけど、人間の感じる喜びや悲しみにそれほど差があるとも思えません。テレビはあまり見ない僕も…あぁあの方が亡くなったんだと一瞬思ったと同時にすでに忘却モードに入っていた記憶がストップし、おおよそ結びつかない方の人生に思いを馳せることができました。王族ファミリーとは言え外国人の僕にとってはまっこと、まごうことなき赤の他人、それでも部屋に進み入り、掲げられていた肖像画の背中を見たような気になれました、肖像画と写真いずれも見たいところだけにフォーカスを与え静かだけれど相手に目をそらさせないような眼差しですね、当KBCチャネルで流すだけでは惜しいような、このコロナ禍の新鮮な空気穴のような通信でした、ありがとうございました。