先月SNS「ひょこむ」(https://hyocom.jp/blog/b_search.php)にAさんが引き戸とドアについてブログを書いておられ、私も日本では引き戸派なのでコメントしているうち、今度はKさんがご実家の造りに言及し、古い家には一見無駄なスペースがありそれにほっとさせられるという意見を披露された。これにも全面的に同意。そして現代建築では家の中がやたら明るいという点も、私がずっと感じていたことなので、谷崎潤一郎の「陰影礼讃」を持ち出したりした。
この「陰影礼讃」は海外でも有名らしくアメリカ人から質問を受けたこともあり、また何よりびっくりしたのはこの家にそのドイツ語版があったことだ。それでその顰に倣って今回の題を「無駄礼讃」にしようと思ったが、あまりしっくりしないので福沢さん風に「無駄のすゝめ」とした。
近年頓にバリアフリーの住まいが求められるようになって、都会でも田舎でも改築が進み、段差があってはいけないというのでまず玄関の光景がすっかり変わってしまった。敷居だって足の不自由な老人には危ないからと、入口が引き戸でなくドアになっている。そして外の地面と同じ高さのスペースが中にあって、そこからまたほとんど段差なしで家の中に入る。
日本人は昔から「内」と「外」の区別をはっきりさせてきて、これは人間関係や人付き合いについても言えることだが、今回その点は措いて住居に焦点を絞ると、敷居を跨げばそこには三和土があるが、古来日本の家は床が高く三和土からいきなり飛び上がるなんてことは元気な男の子でなくては無理。それで式台と呼ばれる板が設けられ、そこを踏んで玄関の間に上がる。
ところが昨今は、三和土は一応あるもののそこと玄関の間との段差、つまり上がり框の高さは数センチで、少々よぼよぼの老人でもさしたる苦労なしに上がれ、あるいはちょっとした介助の手があれば問題ないようになっている。欧米では靴のまま入るから数センチの段差すらないが、日本は靴を脱ぐのでどうしても上と下との境界が必要になる。実際には白い線でも引いて、ここからは靴なしで、と指示することも可能なのだが、やはりこの点に関しては、車椅子を必要とする住人の家は別として、日本は欧米を真似ない。
古い日本家屋の床が高いのは(我が家の場合約 60 センチある)家を長持ちさせるためで、贅沢でも何でもない。通気性がいいので、床材が腐らず夏季にも家全体を涼しく保てる。
知り合いの建築家が、90 年代の初めだったが「完全床暖房」の家を建てたから見に行きませんか、という。さる大企業の副社長の家で、件の建築家はその設計を担当したというので出入りできて、話の種にと同行して見せてもらった。
そもそもが豪邸なのだが、寒いのが苦手という主のために当時最新のデザインで年がら年中ほぼ同じ温度の家を作ったのだった。帰途にその建築家が言うには「でも 2, 30 年後には完全に建て替えないとダメなんですよ。通気がないので、温度が籠って床材が腐るんです。カビもあちこちに生えて『家』にとっては実に冷酷な構造です」とのこと。
私は隙間だらけで暖房が効かない自分の実家を思って「家に優しい造りにすると人間には厳しいわけですね」と笑った。
そんなわけで、わが家は冬に寒いばかりかバリアーだらけなので、もうちょっと年とったら住めなくなるんじゃないかという危惧があるが、にもかかわらず式台を二段にするなどして不便な家でも我慢している理由は、床暖房などにして 20 年毎に建て替えるような財力がないだけでなく、建築材料をそのような形で消費することに大いに抵抗があるからだ。無駄礼讃と言ったって、そのような無駄は容認しがたい。
それでは徹頭徹尾老人に不親切な家に住んでいるかと言えば、意外とそうでもなくて、玄関先で失礼しますという来客に「まあ、お座りになって」と、上がり框の高い床に腰かけていただくこともできる。小さいお婆さんなら低い式台がベンチのようになる。またこの頃の若い人は脚が長いので縁側などに腰を下ろすにも好都合、昔ながらの日本人的体格の方々なら、沓脱石をフットレストとして足を置けばいい。
正真正銘の田舎だから土地代などしれたもの、無駄なスペースに特別な費用はかからない。だのに今の若い主婦が厭がるのは、掃除の手間が増えると思っているからだろう。しかし、実際にはそういう余分なスペースがあると結構掃除をしやすいものである。キチキチの場所だと掃除機だって使いづらい。蜘蛛の巣や落葉を掃き出すのも手間である。
衣・食・住から成る人間の暮らしのうち、今話しているのは住における「無駄」であるが、私は食における無駄は可能なかぎり避けたい。人類の何万年という歴史を振り返って飢えに苦しんだ数知れぬ先人を思うとき、食べ物を粗末にすることはまさに罰当たりで天を恐れぬ行為だと固く信じている。
しかしながら、言うことが矛盾しているようだが私は食べ物をケチケチ出すのは嫌いで、4人の来客ならせめて5人分くらいは準備したい。食べ物がいっぱいあると豊かな気分になれる(戦中派みたい)。自身はかなり小食なくせに大食いの人が好きで、おいしそうに食べている姿を見るのは心地よい。食べ物だと少々多すぎてもそれを人と共有できるのがいい。
衣はどうかというに、こちらの無駄は往々にして無思慮・無知・虚栄心などを晒すもので、高価な衣装に凝りまくる連中は愚かを通りこして喜劇的である。ところが多くの女性にとって着るものはかなり重要で、高級なアクセサリーや贅沢な服をいくら持っていてもまだまだ足りないと感じている人が少なくないようだ。
私の母は茶道に関与していることを口実に次々と着物を誂え、死後に残された数は 100 枚近かった。値段はピンキリと言っても、数万円で買えるような安物は茶席には着ていけない。帯だって 3, 40 本はあった。
箪笥にぎっしりの反物を見た夫が何と言ったか。「どうしてこんなものに金をかけたんだろう。きれいなものを着て気分がいいのは自分だけじゃないか。もし家をきれいにするためにそれだけの出費をしていれば、家族全員、そして訪ねて来た人も、一緒に楽しむことができたろうに。」
全くその通りだと思った。母は家の壊れた箇所は直したが(それもケチなので娘に無心して)とにかく住まいにはほとんど金をかけず、なのに寒いだの建てつけが悪いの、間取りが旧式で不便だのと文句を言ってばかりで、私が相続した家はかなり傷んでいたし見場も悪かった。それで母の死後すぐに改築に取り掛かり、大工さんから「最低あと 50 年は大丈夫です」と言われるまでにした。着物は私にとって母の悪徳の残滓なので、それらを自分が着ようとは全く思わない。
かくて私は、多くの人が楽しめる「住」重視のライフスタイルをドイツ人から学んだわけである。しかし少なくとも日本では、私の母が特別に悪女だったわけではないらしい。というのは、女の三大欲求としてあげられるのが、 1. 食べたい、2. 着たい、3. 喋りたい、だそうで、要するに女はばっちり着飾って、洒落たカフェでお茶を飲んだりホテル・料亭で食事したりしながら同性とぺちゃくちゃ喋りまくっていれば満足だというのである。
昨今は女性も高等教育の普及と社会進出に伴って賢くなり健全な感覚の人が増えたので、ある層を別にすれば身につける物に過度に凝る人が少なくなったのは結構なことだ。
女の三大欲求に「住みたい」が出てこないのが日本的といえるかもしれない。住む場所が少々狭かろうが広かろうが、新しかろうが古かろうが、そんなことは評価の基準にならないのだ。まあね、一流ホテルのレストランで「宅の敷地は 1000 坪ざますのよ」と自慢したところでインパクトは薄く、それより 50 万円のシャネルのスーツを着て行った方が、10 万円程度のワンピースでやってきた友人に「勝った!」と思えるから。(これ、かつての同僚が、自分とオシャレを競っていた女性の服装を上から下まで見て、私に囁いた台詞。)
高級衣料品を次々と買うのは日本経済に資する面もあるからすべて無駄とはいわないし、それで人生がバラ色になったり生き甲斐を感じたり、はては優越感に浸れるのであれば傍からあれこれ言う必要はないが、わが夫が言うように「自分だけ嬉しい」楽しみ方には共感を覚えにくい。
さてここで、三番目の欲求の「喋りたい」であるが、これは無駄そのものとも言える。しかしこの無駄は必要不可欠な無駄であって、日常生活の中ではかなり大きな意義を持っている。その事実を今回のコロナの中で多くの人が認識したらしい。
お喋りとかゴシップという言葉を聞いて良いイメージを抱く人は少ないだろう。噂話なんか止してさっさと働け、とか。油を売ってないで職場に戻れ、とか。とにかく仕事以外のために話をするのは(特に働き者の多い日本では)無意味な行為とされている。それというのも、お喋りは「百害あって」とは言わぬまでも「一利なし」と見なされているからだ。
ところが。近年(コロナ直前だから 2 年余り前になるが)読んだ本に、この「ゴシップ」が大いに推奨されていた。本のタイトルは「世界文明史の試み・神話と舞踏」、著者は日本有数の知識人として誉れの高かった山崎正和である。残念なことに私がこの著書(上・下で約 600 頁)を読み終えて約半年後に泉下の客となられたのだけれど。
山崎氏はゴシップを社交のために欠かせない要素とし、その社交は人間ばかりか猿をも幸福にする活動だと言うのだが、そもそもこの社交はむしろ猿が人間を率先してくれたようなもので、その猿の毛づくろい(以下の写真を参照)を受け継いだのが「社交上のゴシップ(むだ話)」であると解説している。そして人類は、この無駄話から成る社交の「社会形成への貢献の思いがけない大きさ」を発見するに至ったというのである。
ちょっと長くなるがこの著者がデータに基づいて述べているところを引用すると、
<まず驚かされるのは、現代人がいっさいの言語使用のうちで、たあいない人の噂や世間話に費やしている時間の割合である。ダンバー*の経験にもとづく実感によっても、またもっと計画的な調査によっても、英国のカフェやバーで交わされる会話の 3 分の 1 は、役に立つ情報ではなくて、興味本位の軽いニュースや罪のない他人の近況によって占められている。さらにスコットランドで行われた別の調査によれば、これが実に 60 から 70 パーセントにまで達していることがわかった。ビジネス会議や学界のような実用目的の会合においてさえ、真に知的で切実な話題が 4 分の 1 を超えることは稀だという。
もっと客観的なデータなら新聞記事に現れていて、高級紙「ロンドンタイムズ」でも広告を除いた全紙面面積の 43 %が人物紹介記事であって、政治、経済、文化記事にさかれているのは 57 %に過ぎない。大衆紙「サン」になると有名人の私生活情報が 78 %にのぼり、堅い公的な報道は 22 %と逆転している。似た現象は書籍出版にも見られ、年間販売部数のうち頂点をしめるのは小説であり、しかも通常の人物のロマンスや日常生活を描いた二流の小説である。>
*ロビン・ダンバー( 1947 -)、霊長類の生態学者、人類学者、進化心理学者。山崎正和の引用は彼の「ことばの起原-猿の毛づくろい、人のゴシップ」から。
どうです、世の殿方も「女子供の無駄話に付き合えるか」と馬鹿にしてはいられないでしょう。自分たちだってそれとは知らず、日々の暮らしの中でたあいないゴシップに時間も労力も費やしているのだから。
この事実から、昨今のコロナ禍中でさまざまな社会問題が噴出している理由も説明できるように思われる。ソーシャルディスタンスもだが、外出の機会を失くしカフェやレストランで会食することも制限された人々が、自宅に籠って憤懣やるかたない気持ちになるのは当然であろう。まして家族や友人の来訪も望めない老人や病人となると。
この本には記されていないが、食物探しに多忙であるにもかかわらず全生活時間の 10 ~ 20 %を仲間の毛づくろいに費やすという野生の猿が、その快楽(エンドルフィンを分泌するそうな)を長期間にわたって奪われた時どんな状態に陥るのか、見てみたいものだ。
こうしたゴシップの楽しみは、互いに訪問しあったり食事を共にしたりという意図的に創りだされた場でなくても、本来は人と人が接するほんのわずかな時間にも得られるもので、それをみすみす潰してきたのが現代社会とも言える。
先日フランスはブルターニュに住む日本女性が「お喋りレジ」について書いていたところによると、このところフランスでもスーパーで買い物するくらいしか外出の機会がなく、従って人と会って直接話すこともほとんどなくなったせいか、客がレジに並んでいる間に前後の人に話しかけたり、不愛想の代名詞みたいだったレジ係の女性が「もう 1 ユーロ買えばおまけがつきますよ、2 個おまけは大きいですよ」などと親切に助言したりする場面が増えたという。
ちょっと前までは「さっさと払ってよ、こっちは忙しいんだから」といわんばかり、あからさまに不機嫌な表情だった店のオバサンたちも、若者のジョークに笑ったりして、会話や談笑に飢えているらしい。
そう言えば昔は日本にも「向こう横丁の煙草屋」なんてのがあって、可愛い看板娘の代わりにしわくちゃの婆さんが店番をしていても、タバコを売る人と買う人との間にちょっとしたやり取りが見られた。それが婆さんの時給すら高いというので自動販売機になり、飲み物やスナックさえ販売機で買えるようになって、言葉を発する必要が無くなってしまった。
生まれ育った町にずっと住んでいるならともかく、60 年代・70 年代のように田舎から大勢の若者が都会に移動すると、知らない人との会話を面倒がる傾向が強くなって自動販売機は大いに歓迎されたものだ。斯くて「群衆の中の孤独」などという言葉も生まれた。
人はそのことにさしたる疑問も持たずに来たが、今や世界の多くの国で人々はゴシップの場を失い、自宅に籠ってテレワークなどしてフラストレーションを貯め込んでいる。脳内麻薬といわれるエンドフィンが枯渇して鬱気味の人も珍しくない。
買い物といえば私は郷里ではもちろんスーパーにも行くが、週に一度は移動販売を利用している。親の代からの知り合いで私の「弟分」の一人が 5, 6 年前に始めた仕事で、これに関する新聞記事(朝日の四国版、少し古くて 2017 年秋のもの)がインターネットにあったので、説明代わりにそれをここにコピペする。
<文具店倒産から高齢者の買い物の応援 丸岡さん
車などの交通手段がなく日々の買い物に不自由している高齢者らを応援しようと、安芸市の安芸本町商店街振興組合が昨年 10 月から始めた移動販売車が好評だ。童謡を流しながら野菜や魚を載せて巡回して来る車を、お年寄りたちが心待ちにしている。
台風 21 号が過ぎて秋晴れが広がった今月 23 日昼すぎ。安芸市井ノ口の住宅街に「兎(うさぎ)追いし かの山♪♪……」。童謡の「ふるさと」の歌が流れる。移動販売車「ぼちぼち屋」が到着した合図だ。10 人ほどのお年寄りが杖やカートを押して集まってきた。70 ~ 90 歳の女性ばかり。>
はい、私もその 70 ~ 90 歳の客の一人です。車を運転しないので町までの約 2 ロを歩いて買い物に行くこともあり、それは全く苦にならないのだが(車で通りかかった友達が必ず「乗れよ」というのを断るのが面倒なだけで)、丸岡君とは長い付き合いなので少しでも応援したいのと、村のお年寄りとの噂話が貴重なのとで、みんなで「ふるさと」のメロディーを待つ。飲み過ぎで入院した人、亡くなった人の葬儀の日、ドラ息子の借金に悩む甘い母、イケメンの医師や人気のケアマネージャーのこと…元同級生の一人が「あんた、あんなとこで買い物するのん。あれは超高齢者のための場所やで」と笑うが、余計なお世話だ。あんただって生きていれば超年寄りになるさ、と言ってやった。
二枚目の写真は日本の村での買い物風景。
わたし前から思っていたのですが、ろれちゃん「かちねっと」でも何年か活躍しておられ、ひょこむに移ったときにそれらのブログを消去することなくそのまま保持していらっしゃいますよね。ひょこむだけでも7年分、かちねっと時代を加えると10年を超えるでしょう?バックナンバーということで、過去のブログを何回分かまとめ、あるいは少しだけ加工して、この文芸クラブで発表されてはいかがですか。幸い名編集者のクレマチスさんが付いていますから。といっても、お二人にあまり負担がかかってもいけないので、月に一度程度でもいいと思います。葛飾の皆さん、きっと懐かしがると思います。
このブログを読んで、少し安心しました。私のひょこむでのブログは100%日々のつぶやき、でなんに役に立つのか、男性から見るとよくこんな無駄なおしゃべりッばかり書いてると思われてるのでは?不安でしたが、最近は女性の会員のコメントも増え、そんなに意味のない会話も特にコロナ禍では十分にコミュニケ――ションが取れて、出かけなくても心を癒すツールとして十分な役割を果たしてるかも?と内心満足しています。
これからも無駄なおしゃべりをどんどんしていこうかな?意味がなくたっていいじゃん!
と開き直ってこの先もガンバリマス。
この年で例によって老いの繰り言と言われるでしょうが、私の場合個人的・家庭的事情で「家族のために生きるべし」と洗脳されてきました。基本的に私はいい子ちゃんだったので、よく働いてせっせとお金貯めてなんとか目的は果たしたけど、そこに待っていたのはさらなる期待・要求。自分の人生が他の人間によって方向づけられて、それが有意義な人生と思っていた。そのことに漸く気づいてバカバカしくて、したい放題してきた人が今さらのように羨ましい。でもそれより何より、無為徒食の人生って素敵!そうだ、これからそれをやろう。
ありきたりな言葉ですが人生に無駄なんかない、と思いました、その反語として自分自身が無駄なのでgoodbyeみたいな落語がありましたっけ?