『現在の荒川総合スポーツセンターの場所に、「下町の太陽」「下駄履きで通える球場」「光の球場」、そう人々から呼ばれ親しまれた球場があったことをご存知でしょうか。
東京オリンピックの 2 年前、昭和37年 6 月 2 日に開場した「東京スタジアム」はボーリング場や冬季期間にアイススケートリンクを併設した当時としては画期的な娯楽施設で、大リーグの球場を参考に設計された野球場は現・千葉ロッテ・マリーンズの前身ともいえる「大毎オリオンズ」の本拠地でした。』(荒川ゆうネットArchive「失われた風景~東京スタジアム~」より)https://www.city.arakawa.tokyo.jp/unet/issue/0708/index.html
Wikipediaによれば、「東京球場」という通称でも呼ばれた東京スタジアムは当時『大毎(毎日大映)のオーナーだった永田雅一は私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画……約10億円で用地を取得し、建設工事は1961年7月に着工。総工費約20億円をかけ、わずか 1年足らずの 1962 年 5 月 31 日に竣工し、「東京スタジアム」と命名された。
東京スタジアムの設計のモデルとなったのは……サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パークや……シカゴ・ホワイトソックスの本拠地だったコミスキー・パークで、場内に設けられた 6 基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2 本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。
写真は『エコノミーホテルほていや』ブログ「 “こち亀”と東京スタジアム」より
「失われた風景~東京スタジアム~」には東京スタジアム完成時に中学1年生だったお二人の幻の球場の話が載っています。(当時も今も南千住で青木さんはパン屋、大森さんは蕎麦屋を営業されています。)
『大森……(略)「大和毛織」という毛織工場が営業していましたね。工場への入り口が反対側だったこともあって、出入り口の見えない高い煉瓦塀はどこか刑務所みたいな雰囲気でした。そんな場所にプロ野球球場が出来るというのは地元にとっては突然降ってわいた驚きの話でした。
青木……昭和 30 年の野球人気は今の比じゃないですからね。それまで野球観戦といえば、セ・リーグ中心で後楽園球場だったのが、人気では相当の格差のあったパ・リーグとはいえ、目と鼻の先に球場ができるというので本当に驚きだったよね。
大森……(略)東京では青山の次に出来たというボーリング場や、オフシーズンにはアイススケート場も併設されて、娯楽の殿堂というか非日常空間だったね。
大森……試合のある日は、ベンチまで出前を届けに行きました。肩に何段もザルを重ねて自転者に乗っていると外国人が珍しがってね。曲芸と思ったのかな。(笑)
大森……東京球場は、他の球場より外野が狭くて場外ホームランが出やすかったんです。試合中、道ばたで子どもたちがグローブを構えて、ボールが飛んでくるのを待っていましたね。(笑)当時は硬球なんて珍しかったからキャッチした子はちょっとしたヒーローでした。
青木……タダ券もかなり出回っていましたが、試合も後半になると、チケットがなくても行けば入れてくれました。
大森……スタンドにスイカを持ち込んでスイカ割りしている人もいたし、子どもたちは内野と外野の間で鬼ごっこをしていたね。
球場のすぐ傍に住んでいた鳶の頭が、私設応援団長でね、鳶の出で立ちで纏(まとい)を持って応援に来ていた。観客の飛ばすヤジも、いかにも下町って感じで、それを聞いて転げ回って笑ってる人とかいて…。そういうのを観てるのも面白かったですよ。』
まさに落語の世界です。
私の子どもの頃は、まわりにそんなフーテンの寅さんみたいな楽しい大人は沢山いたので面白いともなんとも思っていませんでした。
その夢の球殿の冬のアイススケート場はグランドにサーカスのテントがはられて、そこがフィギュアスケートリンクになりました。球場の観客席の後ろの外周はスピードスケートのリンクでその一周は 400 メートルもありスリル満点。私はてくてく浅草橋場 (昔の町名) から南千住まで約 2 キロを同級生と日曜日になると通っていました。
今は小学生もスマホで施設等の営業状況などはすぐに確認するのでしょうが、私が小学生の頃は遠足気分で球場まで出かけ、休園という残念なこともしばしばありました。とぼとぼと歩いた帰り道の落胆した気持ちを思い出します。
フィギュアスケートリンクの囲いの外側にはコーヒーショップ、ホットドッグ、コーラなどの出店があってスケート靴をはいたまま飲食ができるのが、とても格好よくアメリカ的だと思っていたのです。しかし小学生の私たちは、おこづかいの都合もあり、スタジアムに入る前にコロッケが美味しい青木屋でコロッケパンを買うのがいつものことでした。そんな賢い気のまわし方は、年上の兄弟がいる友だちからの教えです。
その青木屋に客が殺到して、コロッケパンに手を伸ばし、たいへんな争奪戦。一刻も早くスケートリンクに行きたいがために大騒ぎでした。若者はガールフレンドをかばいながら、子どもたちを押し退け我先にと急ぎ公衆マナーなんかどこへやら。そんなにもその時代は娯楽に餓えていたのでしょうか。
スケートリンクには「スケーターズワルツ」が流れていましたが、遮るように「○○君お昼ご飯なので帰るようにとお母さんがお呼びです。」と場内放送。考えると可笑しな話ですが下町なのでこれも自然ななりゆきと言うものです。
そのリンクに赤い自前のスケート靴を履いている小学生がいて彼女の名前はつき子ちゃん。一度も話したことはありませんでしたが、女子力ならぬ少女力の強いチャーミングな子どもで、漫画が上手だったことで校内では有名でした。物理的欲求の少なかった私でも赤いスケート靴は憧れでした。親にねだることも出来ず、手にいれることはできませんでしたが、遠い昔の子どもの頃欲しかった夢の赤いスケート靴にまつわる思い出は、今でも新鮮によみがえるので手にいれられなくて本当によかったですよ。
その女の子は成人してから漫画家になり今は原宿に住んでいると聞きました。
つき子ちゃんはフィギュアスケート選手のように片足で上品なスケーティングをしていましたが、私はスピードリンクでビュンビュン早く滑るに夢中でした。スピードリンクのつま先の長いスケート靴で格好よく滑るリーゼントの若者集団は後ろ向きに滑ったり相撲とりの四股のような格好で横に滑ったりと、それも憧れのスケーティングです。
そんな数々の思い出を下町の人々や私に作った東京スタジアムは 1972 年閉鎖しました。下町の人々に娯楽を教えてくれた夢の球殿。昭和の人間味あふれる逸話と人々のエネルギーが折り畳まれて平になり、その跡地に今は荒川スポーツセンター、警視庁南千住警察署、都営住宅などへと変化しました。23 区東部にはその後 10,000 人以上も収用できる球場は出来てないそうです。今年 2022 年はスタジアムが失くなって 50 年になります。今は思い出を語りあう人さえ見当たりません。そんな素晴らしい球場があったの?と言われます。しかしあの赤いスケート靴のつき子ちゃんは大人になった今も覚えているはずです。
私がこの浅草地区に引っ越してきて 3 年と半年が経ちました。あちこちの辻に、思い出と言うほどでもない、記憶がよみがえります。私の住むマンションのむかいが、実はつき子ちゃんの実家であることを思い出しました。ハナミズキのこの通りをぼんやり眺めながらそんなことを考えている昨今です。
東京スタジアム跡地案内
南千住駅から徒歩 12, 3 分ほどの場所に東京スタジアムがあった。駅南口から旧日光街道 464 号線を北上して荒川南千住 5 郵便局を左折して西のほうに進み、国道 4 号線を越えて千住間道に入るとまもなく右手に「青木屋」。さらに千住間道沿いに交差点を越えると「公団住宅」。球場の入り口はこのあたりだったとか。公団住宅の隣に「南千住警察署」「荒川総合スポーツセンター」と並び、これらの施設の裏手に「南千住野球場」という 3 面の野球場がある。これらがすっぽりと旧東京スタジアムの跡地に収まっている。
そうですか、50年前まであったのですね、東京スタジアム。
そのころ結婚して新小岩に住み付いたので、まだあったわけですね。
50年と言えば、結構な時間の流れ。どこの地域も風景を新たにしているようです。
うちの近所だって、50年前からあった銭湯が無くなり、マンションに変わろうとしてるし、古いマンションが撤去されて銀座yoshinoyaという靴の会社?がお目見えしました。
なんでこんな下町の新小岩なんかの住宅地に会社が?と不思議な気持ちです。
特に子供時代を過ごした頃の風景は頭に焼き付いていますね。
ベティさんも絵のように楽しい思い出として心の宝物になっている事でしょう。
ありがとうございました丹念な記録です楽しく拝見しましたまたゆっくり拝見すると思います…記録っていいですね^_^