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執筆者の写真クレマチス

春は来たけれど・続――ドイツの黒い森から 番外(びすこ)

父の家

次に父方の家ですが、こちらは父親の奮闘で敗戦の打撃から何とか立ちあがり、私たち 3人の子供もよそ目にはさしたる苦労もなしに育ちました。「よそ目」にはね。でも父が裕福な地主の長男として人と成り、恵まれた青年時代を過ごしたことは、わが家の行く末に好ましい影響を及ぼしたとはいえません。何より、自分にとって都合のよい大正・昭和初期の価値観に拘る父親のせいで娘の私はえらい目にあったのですが、考えてみると当人の方がもっと気の毒でした。

男女差別は家中に満ち溢れており、落ちぶれたとはいえなお「家の継承」という目的を掲げる家庭では、その構成員は目的達成のための「手段」になります。父母にも祖父母にもそういう意識はなかった(つまり自明だった)でしょうが、そんな旧習のもとでは誰もが「長男」を立てて彼を補佐するよう求められるのです。

娘はどうかというと、相応の嫁入り支度を整え、富豪とはいかずともそれなりの家に嫁がせる。そうすれば一生が保証されるからあとは関わらずに済み、嫁いだ娘に相続分として財産の一部を渡す必要もない。

戦後の様々な改革の中でも、社会の慣習は容易に変わりませんでした。

ところが父の長女は結婚しない。良くも悪くもこれは想定外。そして次女は普通のサラリーマンに嫁ぎ、息子は・・・ノーコメントとしておく。それでも彼は「跡取り」なのだから、見苦しからぬ暮らしをさせるため、都会でのマイホーム確保にも子育て・教育にも親が手を貸さねばならない(と親たちは考えた)。だがその親もエンドレスに財政支援できるわけじゃない。

見かねた私が手出ししたのが大きな間違いで、そのあと次々に荷物を負わされることになります。女というものを徹底して軽んじていた父ですが理性はある冷静な人だったから、娘に頼る現実にバツの悪い思いをしていることは傍にいて容易に察せられました。

そもそも父が周囲の女たちの人生の軌跡をなぞってしっかり考察していたなら、旧弊まみれの子女養育がどんな結果を招くか予測できなかったはずはないのです。

父の姉妹は末娘を除き全員が戦前に旧家に嫁ぎました。そしてどの家も戦後潰れました。妹の一人は秀才で、後に東大法学部に進んだ尋常小学校の同級生が中学時代に彼女に数学を教わりに来たといいます。(この同級生、のちのエリート官僚の娘さんはヴァイオリニストとなり、私とは中年過ぎて交流が始まりました。祖父同士も友達だったから、三代にわたるお付き合いです。)

特待生だった叔母は師範学校への進学を教師から強く勧められたのに、親はそれを許さず無理やり金持ちのぼんぼんに嫁がせ、戦後の混乱期を生き抜く能力のなかった夫のため彼女は困窮の中に身を置くことになります。夫に代わって家族を養おうにも本格的な高等教育を受けていなければ手仕事しか選択肢はなく、その窮状には子供の私すら胸を痛めたほどでした。

祖父の娘たちだけでなく、その妹たちも親(曽祖父)の意向で名家に嫁ぎましたが、一軒は途絶え、もう一軒は残っているものの斜陽族となりました。それがメールに書いた父の従弟の未亡人が住む家です。今から40年ほど前、傾きかけたその家で彼女は姑(わが祖父の妹)の最期を看取りました。生活は楽でなくとも明るくて飾らない人柄なので、私の大叔母の晩年も穏やかだったことでしょう。

何軒かの親類を訪問したあと、ふと思い立ってわが家にある「高知県人名事典」を開いてみました。これは父の死後数年経った1999年の発刊で、高知新聞社から送られて来ても誰も見向きもしなかったのを高校生だった甥が覗いて「おじいちゃんが出ているよ」というので初めて中身を知ったのでした。

父も祖父も出ていますが、その他何人かの親戚の名前と略歴もそこにあります。上記の父の妹の嫁ぎ先も、代々大きく商売をしていたため彼女の舅に当たる人が載っており、また酒造家に養子に行った祖父の下の弟の名もあります。

それで父の従弟の家について調べると、彼とその父親のことは出ていませんでしたが、その前の代に爵位(最低の「男爵」ですけど)を与えられていると分かってびっくりしました。一代で財を成した曽祖父としては願ってもない縁組だったのでしょう。

しかし面白いことに、父方の親族は概して身分の上下や貴賤には執着しませんでした。「家制度」の踏襲はもう惰性のようなもので他に対応のしようがなかったでしょうし、「個の尊重」などと言われても何のことかさっぱり分からない。

基本的に彼らは特権意識というものを持たない人々で、祖母などはその祖先が土佐藩直参の武士だったから、土佐藩家老の一人の五藤家に仕えた貧乏侍の母の実家とは格が違うのですが、私は祖母がそれを話題にするのを聞いたことがありません。彼女が身分違いの百姓の長男に嫁すことを躊躇しなかったのは、もしかして祖父に一目惚れだった?だといいけど。

というわけで、わが家には男女差別はばっちりありましたが、ある意味からりとしていました。お金があったばかりに武家の娘を嫁にもらいたがったり、男爵の家に嫁がせたり、ということもしてみたものの、どうも私の見る限りそれは最優先事項ではなかったらしい。それよりも富の蓄積に関心があったようです。とはいえ、それも三代と持たなかったのですが。

私が学生のころ夏休みに弟分のような男の子がよく遊びに来て、それを見た祖母が母に「お前、あの子を嫁(や)るのかい、相手は畳屋の孫だよ」と言ったその口調は「参考までに」程度の軽さだったとか。

因みにその畳屋の孫、さる医大の副学長にまでなって退官したあとどこかで病理学の研究を続けているそうで、これは昨年夏に郷里で彼の従兄(同じく畳屋の孫)から聞きました。祖母が知ったら「ありゃ、惜しいことしたね」と言いそう。

そんな家族だったから、私は金満家を目指した元百姓の父方に親しみを覚えます。士農工商を支えとした母を除けば周囲の人々への蔑みや差別はなく、もちろん戦後成金への妬み・やっかみなどを耳にすることもありませんでした。つまり、精神はこっちの家の方がはるかに健全だったのです。



写真:曽祖父が建てた家

写真は曽祖父が120 年ほど前に建てた家で、私の家の西側にあります(長男の祖父・父は四方向のうち位の高い東に住むべきだったから)。道路と水路を隔てて向かい合う二軒のうち右側の家には、叔母(叔父の後妻で今は未亡人)が独りで暮らしており、やりくり上手できちんと維持しています。左側の家には最初祖父の弟が住み、その一人娘から長男へと継がれましたが、私にはハトコに当たるその男性が 8年ほど前に亡くなったあとは荒れ放題です。彼には息子がいるものの関東在住で滅多に帰省せず、帰省してもほとんど何もせずほったらかしです。村の景観が損なわれるからちゃんと板壁を塗れ、などという市役所のエラソウな注文に、息子は「それならカネを出せ」と言って取り合いません。どっちもどっち。

ハトコには医院を経営する小児科医の弟がいてその息子たちも医者なので、もし次男がこの家を継いでいたら今のような体たらくにはならなかったでしょう。あくまでも長子相続にこだわった頑迷な親の失敗例がここにもあります。

そうそう、これらの家の下の方に見える石壁ですが、クレマチスさんへのメールに書いた私の幼なじみのお祖父さんが築いたのですって。

追加:

この一角はときどき映画やドラマに使われるようです。朝ドラにも。これも昨年郷里にいたときのこと、コロナの自粛が始まる直前ですが、土佐の絵師金蔵(通称:絵金)を主人公に新藤兼人の脚本で1971年に制作された「闇の中の魑魅魍魎」(題名だけで怖気を振るう)が近くの町で上映され、それを観るため関西から帰省した高校の同級生がいました。私は映画は見ませんでしたが、その後で何人かで食事した時、なんでまたこんな映画のために帰ってきたの、と訊くと、そこに友人とともにエキストラで出演しているからですって。呆れていると、別の同級生が「映画にあんたの近所の親戚の家が出て来るよ」と教えてくれました。

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