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執筆者の写真クレマチス

日本人にエール――ドイツの黒い森から 60(びすこ)

日本人の美徳としてよく挙げられる勤勉、真面目、礼儀正しさ等の資質の中で、以前から注目していたのは、「陰日向がない」という傾向である。

傾向だから、もちろん全く「ない」わけではない。しっかり陰日向を持つ人も少なくはない。しかし 100 パーセント当たらないと何かを言えない、というのでは、何も言えなくなる。例えば、女性には理系・技術系を目指す人が少ない、などというと、たちまち、いや、こういう人もいます、ああいう人も、という反論があるが、ここで少ないというのは男性に比して 2 割・3 割にも満たない、ということで(すぐに例を挙げられること自体が珍しいことの証拠でもある)、それを否定しようとするのは、議論のための議論か、単にへそ曲がりか、であろう。


それでこの陰日向、あるいは裏表と言ってもよいが、それが日本人には少ないというのは、かなり以前から気づいていた。実は遥か昔、まだ小学生の頃に、米国駐在から戻って来た親戚と話していた時、4 年間をサンフランシスコで過ごした叔母が「アメリカの子ってすごく陰日向があるのよ。親が厳しくて怖いからその前ではいい子にしていて、人の見ていない所ではひどいの」というので、へえ、そんなものなのかな、と考え込んでしまった記憶がある。なんだかんだ言っても、日本の親は甘いんだそうだ。

その後、仕事や私事でいろんな外国人と会うごとに、この叔母の説を思い出すことがよくあった。しかしそのうち、彼らの陰日向・裏表は、親や教師や上司が怖いから、というわけでもないと気づいた。そして欧州で暮らすようになって、この二面性あるいは三面性というのは、多分、世界の大半の国の人々に普通に見られる現象で、彼らは別にそれを悪しき資質などとは感じていない、と確信するに至った。


その前に、そもそも今日の欧米人の大半は、冒頭に挙げた「日本人らしさ」をほとんど評価していないということを知っていた方がいいと思う。彼らは一応褒めはするが、それは彼らに都合のいい特質だからでもあり、称賛の中には、まんまと自分の意のままにできるという侮蔑と嘲りが込められていることすらある。一般に、家庭でも学校でも、利口であることは評価されるが、賢さなんかどうでもいいのである。いわば、インスタントの知恵、即効のある判断。

先日古い友人とメールをやり取りした中で、私は「誰が見ていなくても天が見ている、という考え方をする真っすぐな人間は日本人にはいて、私はそういう上司にも先輩にも出会えた。でもこの『天』とは何かというと、それは神様という意味でもないのよね」と書いた。ここが私の疑問を誘う点なのである。


よく日本人は神を信じないから真の道徳に欠ける、などという教養人ぶったガイジンがいて、そういえば神のいない日本には「罪の文化」はなく「恥の文化」があるだけだ、と宣わった高名な米国人文化人類学者がいたが、恥というのは一般に「他人に知られる」「他人に笑われる」ということを恐れる感情であって、それなら、人に知られない限りは何をしたっていいじゃないか、ということになる。社会からの制裁が一つの大きな圧力になるというのはその通りだが、無垢・無実の人間の「天に恥じるとことはない」という言葉はそれとは別の次元の重みを持っている。

この概念を私は欧州の人々の間で身近に見たことがない。ドイツに限っていうと、今でも国民の 3 分の 1 は明確にキリスト教徒で、残りの 2 分の 1 つまり全体の 3 分の 1 は信徒とは呼べぬまでも無神論に走ることはできず、自らを不可知論者と称することもためらうキリスト教シンパ。さらに最後の 3 分の 1 は無神論者やイスラム教徒やユダヤ教徒その他であるが、このグループに関する話はここでは置く。


つまり、21 世紀の現在でも圧倒的にキリスト教が幅を利かせているこのドイツで、「誰が見ていなくても神様が見ているから、陰日向のある言動は慎む」という人間、神の存在が自分の生き方の規範になっている人など、特に昨今はまず存在しないんじゃないかと思う。近年の教会の腐敗ぶり(旧教・新教を問わぬ)やおぞましい醜聞を見聞きするにつけても、聖職者というのは単なるの商売であり、彼らが「神に見られている」などと感じることは皆無に近いという印象を深くする。(実際ドイツでは聖職者は国家公務員だから、一つの職業で、「聖」とあるのは疑似表示である。)

もちろん、文句のつけようのない立派な、高潔とさえ言える人格を有する人々もいるが、彼らを支えているのは自らの信念であり矜持であり自尊心であって、それは教育と教養の成果でもあり、各人の魂に宿る神ではなさそうだ(本人たちに正したことはないから確信はないが)。


そして、これは確信をもって言えることだが、欧米ではこの種の人間がごく少数のエリートに属するのに対し、日本人の場合には、普通の市井の人間の中に実際には極めて聡明で、恥を知っていて、そして天を恐れる人間がまだまだ結構いるのだ。

重要なのは、そうした美質が重んじられ正しく評価される風土が日本には(まだ)あるということである。

ヨーロッパに来て一番驚いたことは、裏表のなさや勤勉や正直が称賛されるどころか、むしろ馬鹿にされていることだった。そしてこの傾向は特に英独仏では左派のメディアに多い。時には日本人の真面目さが堂々と嘲笑される。その背後には、真面目にせっせと働くことは資本主義のブタを利するだけ、という思想もある。ゼネストなどして企業を窮地に追い込み、返す刃で自分が傷つくとしても、相手に得をさせたくない、という憎悪の激しさは普通の日本人にはちょっと理解できない。


日本人はおとなしくて唯々諾々として、規律などに拘って、一言でいうと、「つまらない国民」なのだそうだ。ドイツにはかつて日本びいきの人が多かったが、メルケル女史が中国好きで日本嫌いだったせいもあり、この 20 年ほどで対日感情は大きく変わった。とにかく日本は欧州人からみて融通の効かない苔むした人間の国なのである

その見方を示す好例が地震被害に対する日本人の態度への評。阪神淡路大震災のときには、BBC が被害地区で全くと言っていいほど略奪や窃盗がないことを奇跡のように報道していた。だがあれから 30 年近く、能登半島地震もだが東日本大震災の時も、その静かな対応ぶりを「諦めの国」とフランスのル・モンド紙は書いた。「屈しないぞ、負けるものか」という気概がないと日本を批判するのは南ドイツ新聞(この新聞は、ル・モンドと並んで日本の朝日新聞と協力関係がある)。屈しないぞ、と地球に向かって叫んで何になる。それより被害・損害に黙々と対処していくことが先決だろう、というのは極めて日本的で、何をするにも、危機に際してさえパフォーマンスで人目を惹くことが第一の欧州では、黙々なんぞ話にならないらしい。


私の経験では、日本を一番馬鹿にしない欧州国はスイスである。(そしてここは EU に加盟していない。)わが家が定期購読しているスイスの新聞は、自然災害に対処する日本人の姿勢を見て「レジリエンスの国」と評した。余談だが、今年一月一日の日航機と海保機の衝突を報道した記事の後に、この新聞は 1985 年の御巣鷹山の悲劇を紹介し、それを決して忘れまいという強い意志で重ねられたこの 40 年近くの努力が今回の乗客死亡ゼロの快挙に繋がったとあった。欧米なら「過ぎたことだ、忘れよう」という結論になるが、そしてそれがポジティブな生き方とされるのだが、つらい経験を断じて無駄にしないという真面目さは日本人特有の資質だ、という結論に、それこそ「天」ならずとも見ている人はいるものだという感慨があった。


レジリエンスの話に戻ると、私は最初この言葉を物理学的な文脈の中で学んだので、硬いが脆い通常の鉄などでなく、弾性や延性・靭性を有し簡単に破断しない、つまり専門的な言葉でいうと「降伏点」が高い材料がレジリエントなのだと覚えていた。それは間違いではないが、最近あるドイツ人のお爺さんと話した時、私が「樫と竹の違いでしょうか」と言ったら納得した風だった。

樫の木は欧州では力強さ・勇敢さのシンボルで、嘗てフランスのドゴールはこの樹に譬えられ、彼が死んだとき「樫の木は倒れた」と評されていた。日本でも樫は敬われていて、だから厳橿(いつかし)などという言葉もあるのだろうが、やはり日本国民の特質を最もよく表しているのは竹であろう。格好良さの点では樫に劣るとしても、とにもかくにも生きてゆかねばならないとき、よそ目に見ての格好良さなど何になろう。こういう現実主義もまた日本的なのかもしれない。上に、欧米人は日本人を融通の効かない国民と思っていると書いたが、実際は日本人ほど融通無碍な人々も珍しいのではないか。それを言うと「それはプリンシプル(原則)というものを持たない国民性のせいだ」などという批判も出て来るが。

 

そんな指摘をされクサされてすぐに気落ちするのも日本人の特徴で、なぜか昨今は「日本人離れのした」という形容詞をもらいたがる人がやたら増えているように思われる。海外での評価が非常に大事で、特に文芸活動でも科学の分野でも、欧米人が褒めたと言っては有頂天になる。これは止めてほしい。みっともない。 

私は欧米人が日本人より優れているとは全く思っておらず、特に普通人のレベルでは日本人の方が遥かに上だと信じているので(大人の学力テストをすればこれは一挙に証明されるはず)、今どきの西洋人なんかに称賛されて悦に入る日本人が腹立たしい。そしてそういう風潮を煽るメディアに常々怒りを覚えている。 

ただ、日本人は他国の人々や文化との接触が歴史的に浅く、いわゆる「雑種強勢」で鍛えられていないせいであろう、今に至るまで素朴というか、世間擦れしていなくて、褒められると舞い上がってしまう傾向があるのはちょっと困りものである。

 

話がいきなり大きくなるが、日清戦争、日露戦争、第一次大戦と勝ち進んで己の力のほどを忘れとうとう第二次世界大戦に突き進んだのも、「大日本帝国」などという幻影から逃れられなかったためで、いわゆる「夜郎自大」が威を振るった時代にその突進に十分なブレーキを掛けることのできる人物は日本にいなかった。21 世紀の今でも、いい大人が貶されてシュンとなり、称賛されて有頂天になる様子を見ていると、いつまで「卑屈」と「傲慢」の間を揺れ動くのだと歯噛みしてしまう。 

とにかく、正しく自信をもってほしいというのが、年の始めに当たっての日本人への願いである。

 

さて、以上、西洋文化の特にキリスト教に関して辛辣な意見を述べたが、文化の中心点・求心力としてのこの宗教はやはり西洋人の心のふるさとだと感じることが少なくない。

それで、こちらにいて俳句や短歌を作るときにも、自然と教会やそれに付帯した事物を取り上げることになる。日本にいたら神社仏閣や仏教のゆかりの地を吟行して、仏の教えなどに心を動かされることも多いのだろうが、残念ながらそれは叶わない。「馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺(水原秋櫻子)」とか、「ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)」とか、あるいは「額づけば我も善女や仏生会(杉田久女)」と詠むような風土はないのである。その代わりに、春夏秋冬、日常生活の中のキリスト教に小さなインスピレーションを得ることはある。年の初めに当たり、そのいくつかをここに記させていただきたい。


 ・壁龕の聖女は濡れず春しぐれ

(壁龕の聖女のイメージが掴みにくいかもしれないので、写真を添付する。壁龕とは壁の窪んだ部分、ニッチとも言う。)



 ・薔薇窓の春光翳りて聖歌止む

(これは既にKBCのフォーラムに載せたことあり。)


 ・南国に飛び梁くぐり燕舞ふ

(スペインの聖堂の光景で、燕はドイツでは滅多に見かけない。飛び梁、英語で flying buttressとは、ゴシック建築に見る空中のアーチ。写真参照。)



 ・涼みては僧に睨まるカタコンベ

(カタコンベとは教会の地下の墓所のことで、ちょっと気持ちが悪いこともあるが、暑い日に涼むには最適。)

 

 ・聖母子の見守る丘に葡萄熟れ


 ・枯れ井戸に秋冷迫る尼僧院


 ・雪仰ぎ樋嘴の獣と目が合いぬ

(樋嘴(ひはし)、英語で Gargoyle とは「ゴシック建築で怪物の形に作られた屋根の水落とし口」と辞書にはあります。これも写真を添付。)



・晩鐘に飛び立つ鳩へ玉霰


今年もお互いに頑張りましょうね、いちまるさん、春硯さん。クレマチスさんも、ご支援のほどどうぞよろしく。


閲覧数:45回4件のコメント

4 Comments


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Jan 24

いつも懇切丁寧なコメントを寄せて下さり、ありがとうございます。根が単純なもので(もちろん枝葉も単純)、お褒め頂くと百万の味方を得たような気分になり、またそれなりに頑張ろうという励みになります。


そうそう、八百万の神。子供の頃、大晦日が近づくと「異教徒」の祖母が竈や厠(祖母は御手水-おちょうず-と呼んでいた)にどこかでもらってきたお札を貼っていましたっけ。あ、天衣無縫という言葉、大好きです。それが自分に向けられるなんて光栄です。自分のこととは別に、こういう言葉を聞くと日本語ってすごいなと思います。若い人たち、いや日本人全てに、もっと「日本語力」をつけてほしい。英語なんか後回しでいいから。


そういえば、最近の日本のニュースで何やら数本の日本の映画がアカデミー賞の候補に挙がっているとの報道がありました。ふん、アカデミー賞がなんぼのもんじゃ、いいものはいいんじゃ。まあ、あれも商売で、それで観客が増えて映画界もマスコミも潤うなら結構、勝手に騒げ、ってとこですけど。


それを考えると、古典っていいですよね。数百年、ときに千年を超える批評・批判を経て今日の「定評」がある。いや、「今月のベストセラー」もいいんですけど。このところ、こちらの友達が半ば強制的に貸してくれた、日本人刑事を主人公にした推理小説を読んでいます。作者は日本での生活を経験したドイツ人、舞台はハンブルク。日本人の描写が類型的な部分も多々ありますが、自殺の名所青木ヶ原の樹海への言及などがあって面白い。外国人が連想する日本・日本人もどんどん広がってきているのですね。

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Jan 24
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昔々、日本という国があったとさ。人々がそう語る時代が来ないとも限りませんね。


今日の日本の新聞にはスウェーデンのNATO加盟が報じられていました。一方こちらの新聞では、ロシアがどんどん欧州から離れて中国に接近していく、とありました。冷戦時代のようにまた世界が二分される時代になるんでしょうか。


考えてみると、私たちの浅春時代、60年代・70年代にはユーラシア大陸ははっきりと東西に分離されていた。でも別に不自由は感じませんでしたけど。そのあとソ連が崩壊して、西側陣営の一人勝ちみたいなことを言われて、今はまたそれが危うくなって。


日本人のことだから、その間を縫って、暖簾に腕押、塗り箸にとろろ、で案外うまくやっていけるかもしれません。


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あらためてにぎにぎしい新年のご挨拶と、最後に明かす趣向に恐れ入りました❣️ 日本のメディア、マスコミ(僕は最近スマホしか見ないのでこの場合スマホの話)とにかく日本人が外国の方の目を気にしていることに気がついていて、日本人ウケする面白おかしい話をスーパーの特売品みたいにしてページビューを増やすために、人の好い日本人に耳障りの良いネタをスマホに流し続ける日本のマスコミ?の方々の努力で「日本人が作られる」と皮肉の1つも言いたくなります。かく言う僕もつい見たり聞いたりミーハーよろしく拾ってしまう口当たりの良いうんちくチラシ、、とまぁこれは僕のいつもの単なる印象です。それに気がついて最近はスマホを見ている時間も少なくなりました。 ところで軽妙に天衣無縫(なんて素敵な言葉!)に書き綴っていらっしゃいますが、中身は重い。 神とそれぞれが契約を結ぶ社会と、石ころにも神が宿るとしてしまう八百万の神に満たされている僕ら、契約するも何もそこいら中に神様がいたんでは特定の誰かと契約するわけにはいきません。やおよろず、800万の神様!…中国譲りの大口に、誰でも納得してしまうおおらかさ、馬鹿さ加減に呆れる人がいても…そりゃそうだろうなと思います 壁龕の聖女は濡れず春しぐれ 濡れたり、寒がってはいけないと服を着せかけている地蔵さんが近所にあります、、地蔵さんにとっては迷惑かもしれないなといつも笑ってしまいます 壁龕の聖女は信仰の深さの象徴ですね。この俳句によって一段としっとりとした情緒に包まれました、わかってくださいね、西洋の皆さん😉 南国に飛び梁くぐり燕舞う 燕の舞う軌跡に梁の曲線がどんぴしゃりですね、軽快な南国の点景、、これはスペインの方も納得でしょう 枯れ井戸に秋冷迫る尼僧院 修行中の身に僧院の枯れ井戸はなぜかぴったりおさまる風景、、不信心者の感想です😅


鳩に豆鉄砲ならぬ玉霰、、瞬間をとらえた句、素敵な絵ですね。


今年の1月は長かった…そのまとめに読ませていただき、好い気分です、ありがとうございました…続編よろしくお願いします。

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