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執筆者の写真クレマチス

新・焚書坑儒――ドイツの黒い森から 33(びすこ)

一時急激な勢いで広がった MeeToo 運動がやっと下火になって少しほっとしていたのだが、またぞろ 20 年余り前に遡る英国アンドルー王子の未成年女子との交際が訴訟沙汰になるなど、今なお「私も被害者」の声が聞かれる。その動きが不快なのは、こういう訴えについて男性側に味方するつもりは毛頭ないながら、みんなでよってたかって、という感じにどうしても「卑怯なり」という印象が拭えないからである。

アンドルーは結局賠償金(おそらく巨額の)を払うことで訴えを取り下げてもらったが、それについても、なんだ所詮はカネで片付くんじゃないか、という不快感が残る。こう言うと、戦闘的な女たちから「あんたはひどい目にあったことがないから被害者の苦しみが分からないのよ」と抗議されそうだが、いやいや、その「ひどい目」は私も皆さん以上に経験しとりますよ。

私の場合は 10 歳からの性被害なので、そんじょそこらの女たちが言う「傷」とは多分比較にならない。一度や二度では収まらなかったこの暴行を私が長く親にも訴えなかった理由は、その男(当初は未成年)の家が母子家庭でわが家から間接的な支援を得ており、それが知れると一家 4 人の生活が破たんすると知っていたからだ。

私に文才があったらその辺の事情は宮部みゆき風の短編にまとめられるのだが、才能の問題よりも今さらそんな話を持ち出したところで私自身が不快なだけだし、とにかく成人になるまでには乗越えられていたから「もう済んだ」というところである。このブログでいきなりこんな告白を聞かせて申し訳ないけれど、これも山本周五郎が書いていたように*、種々様々な形での未成年暴行というのは普通とは言わぬまでもさほど珍しくない話で、悲劇の主人公をきどるほどのことでもない。

*山本周五郎は「赤ひげ診療譚:氷の下の芽」の中で登場人物の一人に次のように言わせている。

「( 9 つという幼いおゆみに性的いたずらをして脅した)手代は病的性格だったようだし、むろん責任がないとは云えないが、男女いずれにも、幼少のころに似たような経験をすることが多い。特におゆみの場合は、母親の変死とか、縁組の破談などということが重なっている。こういう悪条件の重複にも、たいていの者は耐えぬいてゆくものだが、おゆみには耐えることができなかった。」


しかし私の場合とは違って、欧米で(一部日本でも)告発がひきもきらないのは、実は自身が受けた傷やトラウマのゆえというよりは、結構な地位・身分にある男を突き落としてやりたいという心理が働いているためではないか。ハリウッドの女優たちといい、アンドルーに斡旋された当時 17 歳の少女といい、彼女らはその気になればノーと言える立場にあって全力で抗することも可能だった。それを「仕方なしに」という態度で相手の要求を呑んでおきながら、他の女性が男たちを指弾し始めるとそこに乗っかるというのでは余りに情けない。その動機には、単なる怒りだけでなく富豪の著名人から名誉・権力を奪うことへの快感もあるように思われる。

そこへメディアが介入して女たちの動機を言葉巧みに解説し、おためごかしで正義の鉄拳を下させる。ワインスタインの刑務所入り、エプスタインの自殺、アンドルーの王室からの(当座の)追放。みんな女たちの溜飲を下げさせる結果となった。

このような事件は欧米以外にはなぜか韓国でも頻発しているようで、訴えられたのは市長だったり教授だったり、とにかく人から羨まれる立場にあった人に多く、韓国人というのはどうもこの種の妬み嫉みが異様に執拗とみえる。(歴代大統領の多くが監獄入りというのも、人の凋落を見たがる国民心理の所以ではないか。)

自殺した(一説には、余りに多くの超有名人が絡んでいるため殺された)エプスタインは言うに及ばず、ワインスタインももう二度と浮かびあがれないほど激しく叩かれ罰せられているし、アンドルー王子の場合も事がここまで大きくなると「人の噂も75日」というわけにはいかないだろう。


かくて女性の扱いに失敗して世間から葬り去られる人が増え、それが週刊誌などでは格好の話題になっているが、このところ女性問題ではなく、思想や主義主張の問題で特に若者から攻撃されて窮地に立たされる人達が出て来た。ドイツの場合それはたいてい保守派の教授や研究者、知識人で、左派の学生からボイコットされるだけでなく授業自体が妨害されてしまい、その講義を聴きたがっている普通の生徒も追い払われて講堂に入れない。一般にキャンセルカルチャーと呼ばれる風潮の一環で、自分たちの気に入らない人間を暴力的に排除するこのやり方の歴史は古く、正式(?)には古代ギリシアのオストラシズム(陶片追放)にまで遡る。

キャンセルカルチャーという言葉の定義は既にウィキにも出ていて、またその他のところでも簡単に説明されている。例えば、「著名人をはじめとして特定の対象に発言や行動を糾弾し、不買運動を起こしたり放映中の番組を中止させたりすることで、その対象を排除しようとする動きのこと」ともいうし、あるいは「キャンセルカルチャーは、アメリカなどを中心に 2010 年代中頃から見られるようになった。他者の過ちを徹底的に糾弾する<コールアウトカルチャー>の一種。『You are cancelled(あなたは用無し)』と言って相手を切り捨てる、いわばボイコットのような現象」(https://ideasforgood.jp/glossary/cancel-culture/)など。


この現象は米国やフランスにも見られるようだがまずドイツに的を絞ると、最近の新聞記事に、ハンブルク大学で学生の暴挙が目にあまるということで大学評議会が乗りだしたという報道があった。思想・言論の自由を守るのは大学の義務であり、どんな意見も口封じすることは許されないと明言しているが、今さらこんな自明のことを。10 年以上遅すぎた感がある。それでもなお学生が暴力に訴えて教授の授業・講義を邪魔するのであれば、権力から自由なはずの学問の府に警察が介入することになる。

フランスではこのキャンセルカルチャー、はやく言うと「消してしまえ」運動はイスラム教徒に友好的でない教授や学者を対象にしている。これらのインテリ層はイスラム教自体を問題にしているのではなく、その教理を曲解して今の世の中では受け入れられないような「シャリア(イスラム法)」で人を裁く蒙昧なイスラム教徒に批判の目を向けているのであるが、フランスの左派インテリはなぜかイスラム教に少しでも「難癖」をつけると「イスラムへの憎悪」として容赦なく大学・学界から追放し、社会的にも沈没させようとする。一つにはフランスの知識層にユダヤ系(名前がドイツ風なのですぐそれと分かる)が多いことにも起因しているかもしれない。看過できないほど粗暴になったこの風潮は、最近漸くフランスの国会でも取り挙げられた。


左派というのはリベラルだと思われがちだが、実のところ、極左の思想はファシストと同じだとする著名な学者たち(ミーゼス、ハイエクなど)の説に私は全面的に賛成である。自説への狂信、自分と異なる思想・見解への恐るべき不寛容。殺人すらも厭わない。日本ならこれは赤軍派を連想させる。人類史が始まって以来、こういう人達はどの国にも常にいた。

気に入らない人間を生き埋めにしようとするこの「坑儒カルチャー」を国際政治学者の三浦瑠璃は「異端審問または文化革命のときの自己批判の手法と同じで、圧力をかけて相手に差異化を放棄させることは、知性を放棄させることに等しいと主張した」そうである。

上の解説にキャンセルカルチャーは 2010 年代から目立つようになったとあるが、確かに目だってきたのは比較的最近ではあるけれど、アメリカなどではまさかギリシアほどではないにせよだいぶ古い例がある。

その対象となった一人はかのヘンリー・キッシンジャーで、このドイツ系ユダヤ人はニクソン・フォードの共和党政権で国務長官を務めた。フォードには余り気に入られず、辞職した彼を 70 年代にコロンビア大学が教授に迎えようとした時、学生からの激しい抗議にあって大学側が断念した。何が気に入らなかったのか。共和党は一般に保守派とされており学生の間で人気はないが、ドイツからの移民であるキッシンジャーは生国のそれも左派の社会民主党との繋がりが強く、毛沢東崇拝者の元首相ヘルムート・シュミットとは肝胆相照らす仲だった。洋の東西を問わず、過激学生の運動には一貫性などまるでない。それを言うならキッシンジャーの思想もよく分からないのだけれど。


さて坑儒とくれば焚書とペアで、こちらも近年とみに盛んになりつつある。一番流行っているのはアメリカだが、ドイツでも東の州で保守派・右派論者の著書を主に扱う書店が左派の妨害に遭い、バリケードまで組まれて客が出入りできなくなった。しかし右派のグループによって財政支援が為され、また店主は建物の所有者でもあって家賃は不要だったことから、店を畳むことなく生き残った。

アメリカの例については一月末のドイツ語新聞で大きく報道され、最も熱心に焚書を企てているのは学生やジャーナリストでなく学童の母親だというのに驚いた。それに教師が加担しているから、書物の敵は PTA ということになる。

ラテン語の liber という言葉は「本」(>library)を意味すると同時に「自由」(>liberal)を指し、書物と自由とは密接な関係がある、という文で始まるこの記事によれば、自由を愛する読者たちが今図書館から遠ざけられているという。しかし読者以前に弾圧を受け活動を阻まれているのは作家、教育機関、出版社などで、世界に先駆けて言論・出版の自由を憲法で保障したこのアメリカという国で、その自由に反対する闘争もまた自由だと唱える、これまた矛盾だらけの人々が繁茂しているそうである。そしてそれは左派・右派を問わない。彼らには自分の信条・道徳律に対して鉄壁のごとくゆるぎない確信があって、まさにそれを盾とし矛として自分には容認できない内容の書物を図書館から追放せよと主張する。そして驚いたことに、多くの場合その主張が通るのである。さすがリンチの国だ。


保守派・右派からは伝統的なキリスト教的価値観に反する本を図書館から駆逐せよという声が上がっており、彼らの言う反伝統的書物とはまず、性的に「退廃した」文学つまり LGBT の人物を登場させ彼らを肯定的に描いた本ということになる。また、先住民、黒人、奴隷の歴史などを取り挙げた書物は、一般市民の怒りを煽る扇動的な出版物として消し去るよう求められている。進化論のダーウィンなど万死に値する。

その一方で進歩的左派からは、わずかでも差別的・侮蔑的な表現のあるものを焚書の対象にせよとの要求があって、それでいうと Nigger などという単語が出てくる 19 世紀の小説などはいずれも人目に(特に児童の目に)触れることがあってはならない。イスラム教徒とか原住民という言葉も無害化されていなければ、禁書目録に載せられる。ポリコレ絶対主義である。

アメリカ図書館協会によれば、昨年 9 月から 11 月までの 2 か月間に「抹殺」の要請を受けた書物は 330 に上る。これを 2020 年の 1 年間に同協会が受け取った 273 冊という数と比べてみれば、この運動の勢いが実感できるだろう。

アメリカという国には様々の人種と文化が混在しており、それがエネルギー源となっているとよく言われるが、その反面で誰をも、どんな背景・肌色を持つ人間をも、満足させようとすると、これがとんでもなく煩雑でエネルギーの大部分は無駄に消費される。


とてものことに、日本の青空文庫のごとく「この作品には、今日から見れば、不適切と受け取られる可能性がある表現が見られます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します」などという穏便な措置で済ませられる国ではないのである。視聴覚障碍者や精神病患者には少しばかり気の毒ながら、「気違いに刃物」とか「あきめくら」などという表現があるために日本で公開を禁じられた書物がほとんどないことを私はあり難く思う。

今日から見れば明らかに不適切な表現でも、それらが普通とされた時代を経て今日があるのだし、そんな時代があったという事実を知るのは決して有害ではない。その社会的背景を探り変遷を辿るには有用ですらある。またそういう表現を目にしたからと言って、それらを復活させようなどと考える輩は現代社会にはほとんどいないであろう。今日の日本人には、個人差はあるにせよ 100 % の義務教育普及のおかげで判断力・批判精神が備わっているはずである。その前提があるから、青空文庫の活動も円滑に遂行されている。

しかしアメリカや、昨今は欧州でも、そういう穏やかな、常識を拠り所とした措置は「生ぬるい」とか「日和見主義」とか、果ては反動主義者として、教壇に立つことも論文を発表することも、販売することすら暴力的手段で阻止される。少し前に「生きづらい」という言葉がずいぶん流行ったが(今も流行っているかもしれないが)、多くの場合人々は自ら事を荒立てて生きづらくしているように思われる。


21 世紀の禁書・焚書と並んで欧米で盛んなのが、現代の価値観と相容れない芸術作品をも抹消してしまおうという動きで、これは冒頭の MeeToo に関連してしばらく新聞紙上を賑わした。この場合も美術館や博物館の学芸員がそれに乗じ、あるいはそういう世間に媚びて、ある種の作品を展示室から外すという愚挙に出た。それらの学芸員はほとんどが女性で、女を男の快楽の道具に使っているとか、女は男の従属物と見なされているというフェミニストの抗議に同調し、ケチをつけられた絵画・彫刻を見学者から隠してしまった。

欧州で最初にその渦中に置かれたのは、英国マンチェスター美術館の、ラファエル前派の代表的な画家ウォーターハウスによるギリシア神話の美少年「ヒュラスとニンフたち(Hylas and the Nymph)」の絵であった。これのどこが女性蔑視に当たるのかさっぱり分からない。暇を持て余していたマンチェスターの活動家とやらの好餌だったのかもしれない。


それとほぼ同時期に問題視されたのは、ニューヨークのメトロポリタン美術館の「夢見るテレーズ」というフランス人画家の作品だった。写真でご覧の通り別に猥褻というほどのものではなく、これを観て淫心きざす人がいようとも思われないが、社会の木鐸をもって任ずる道徳家やフェミニスト集団からこの絵が指弾されたのはモデルが未成年という点にあった。これを危険な「小児性愛」の絵とみなす声に応じて一旦は撤去しようとしたところ、それに激しく反対するグループが出てきたので、それこそ青空文庫式に傍らに注を付けて残すことになった、というのが 2017 年のこと。その後の展開については聞いていない。


こう書いてくると、どうも私の見解は保守に傾いているように見えるかもしれない。実際私は、フェミニストにも学生にも、LGBT にも、BLM 運動にも(なぜ YLM がないのだ!今欧米で一番冷遇・無視されているのは黄色人種なのに!)共感を覚えない。

しかし、美術館の展示から外せとまでは言わぬが、何とかしてほしいと思う絵画はいくつかある。その第一がマネによる「オランピア」である。女が裸で寝そべっているのはまだいいとして、その彼女に花束(多分パトロンから?)を渡しているのが黒人であることが全く気に食わない。だいたいマネという人は女性から見てけしからん絵を多く描いている。「草上の昼食」など、男二人は着衣なのに女一人が丸裸、というのは女をまるで見世物のように扱っていてひどい悪趣味ではないか。じゃあ、これらの絵を燃やせって? いや、私はそこまではよう言わん。中庸をもって徳となす東洋人だから極端は嫌いだ。だが扱いには慎重を要すると思う。


女性差別ではないが、もう一つ猛烈に腹の立つ絵がある。これは美術館の展示作品ではなく、なんと王室の馬車に見る絵である。三枚目の写真に示したのはオランダ王室が慶事に使う黄金の馬車で、その両側にはかくの如く人種差別・植民地主義称賛の絵がばっちり描かれている。「植民地からの貢物」という題だそうだ。

われらこそは世界でもっとも開かれたリベラルで寛容な国民と喧伝しているオランダ人が、はるか南の国で現地人を搾取して繁栄を享受してきた過去を恥じるどころか、それをこんな形で顕示する神経がもうまったく理解できない。王室も問題だが、それを許す国民はどうなっているのだ。さすがにこの 2, 3 年は、学生を中心とする若者の抗議で(彼らもたまにはまともである)おめでたい行事にこの馬車を使うことを慎んでいるらしいけれど、こんな破廉恥な絵なんかペンキで塗りつぶすか、いっそ馬車ごと燃やしてしまえばよい。相手がここまで破廉恥な偽善者となると、中庸なんかぶっとんでしまう。


本気で取り組めば、今をときめくフェミニストや PTA のモンスターママや粗野な学生が弾劾している対象よりも遥かに憂慮すべき事柄がこの世界にはたっぷりある。この人たちには時間もたっぷりあるようだから、優先順位を間違えずに事態の打開を図ってほしいものだ。



閲覧数:30回4件のコメント

4 Comments


hmdhonau
Mar 10, 2022

上に三番目の写真とあるのは、実際は四枚目ですね。これは私が、写真が多くなることを懸念して最初のニンフたちの絵を省いたのを、クレマチスさんが追加して下さったためです。美術館の名と絵の題を書いたので、探して下さったのですね。


ついでに、馬車に描かれた絵ですが、まあ、ご丁寧に西インド諸島の植民地の黒人と並んで、インドネシア人(ジャワ人)もばっちり描かれています。男たちがサロンと呼ばれる長いスカートのような腰布を巻いているのでそれと分かる。肌の色もご丁寧に薄めにしてある。オランダにはインドネシア人も多いのですが、彼らがこの絵を見てどう思うか、などということは先進国中の先進国を自任するオランダ人の頭にはついぞ浮かばなかったようです。


また、絵の中で、オランダを象徴する真ん中の女性の左側の男が黒人の子に本を与えていますが、これは何かのご褒美で、本は文明の象徴。つまりオランダは植民地の人々に文明をもたらす恩人・保護者として描かれているわけです。


ああ、気分が悪い!

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繁 大村
繁 大村
Mar 10, 2022

拝見していて…よくまぁ目が行き届いてしかも明快、華奢の僕の頭ではついていくのがやっとです。都合の悪い本はすぐに発禁、権力者が変わるたびに焚書、それぞれの圧力団体のパワー分析で、ガス抜きやら、息抜き、ゴシップを撒き散らしできた新聞マスコミも、そういう情報に飢えている人たちも同罪でしょうか、えらい世の中になってきましたが…学者先生方も難しい数式を使って世の中を分析するよりも… 一番おろそかになっている人間について考察を深めていただきたいと思いました、快刀乱麻と言っては失礼ですがわかりやすいご指摘に蒙が啓かれる思いです、ありがとうございました

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繁 大村
繁 大村
Mar 10, 2022
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見識ですね恐れ入りますそれにつけても…サバサバした物言いに…紛らし年少者には辛い、しかも大人びた配慮…見過ごしたわけではありませんが体験者にしかわからない上書きで抹消できない吐露の裏書き、なんともやり切れなし透徹した所作に最敬礼です

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