昨年 9 月に知り合って 11 月に一緒に聖マーティンの鵞鳥を食べたクミコさんからそのあと電話があって、12 月になったらクリスマス前の週末に食事にいらっしゃいませんか、とのお誘いを受けた(クミコさんのことはブログ 26 に書いた通り)。
彼女の家は同じシュヴァルツヴァルトといっても北方でうちからは 1 時間半ほどかかるようなので(シュヴァルツヴァルトの中にはアウトバーンがなく州道のみである)、近くのホテルを予約してもらい、運転の心配をせずゆっくり飲みながら夕食をご馳走になることにした。
するとまた電話があって、日曜日に遅い朝食を食べたあとで少し時間をとってほしいという。何かと思えば、近所に住んでいて数年前に亡くなった日本人女性がたくさんの本を残していて、医師だったご主人の方は最近どこか大きな町に越してゆき、その家にはいずれ息子さん夫婦が住むことになっているのだが、彼は日本語を話すことはできても読めないのでお母さんの本をもらってくれる人を探しているとのことだった。家の鍵は預かっているという。
喜んでいただくわ、と私は返事して、数多くの本の中から自分が中身(+字の大きさ)を確認して選べるのをあり難いと思った。海外在住でも注文して取り寄せることはできるが、2 度ほどそれをやってえらく高い関税を払わされたのが腹立たしかった。おまけに刊行年が古い本だと、うわあ、昔こんな小さい字を読んでたんかいな、と驚くほど文字が小さい。私は片方が未だに近眼なのでかなり小さな文字でも読めるが(例えば腕時計の文字盤の Made in ドコソコという芥子粒以下の字でも裸眼で読めるのが自慢)、しかし長時間の読書ではあとで頭痛がしてくる。
それで土曜日の和食に続き日曜朝にたっぷりのブランチをご馳走になったあと、男たちを居間に残してそのタカコさんの本を見に行った。ほとんどが小説でまた圧倒的に文庫本が多かった。それも助かる。持ってきた袋にいっぱい入れられる。
クミコさんは既に何冊かもらったそうだが、何せドイツの暮らしが長くて日本の現状には私より疎いので作家についても詳しくない。浅田次郎という作家の「壬生義士伝」を勧めるメールが同じくドイツに住む日本人から前日に送られてきたと見せてくれながら、「これ、なんて読むの」などと訊いてくる。
本棚には書店と同じように作家名のアイウエオ順に本が並んでいて、気に入っている作家の本を見つけるのも楽だった。よほど几帳面な人だったのだろう、自分の本棚の乱雑ぶりを思って恥ずかしかった。もっともタカコさんは、もしかして癌を告知されて自分の余命を知った時点でこのように整理したのかもしれない。その胸中たるや…いや、考えまい。
途中の棚に大きめの菓子箱があって、中を覗くと無数の写真が、こちらは無造作に入れられている。どの写真にも日本人女性は一人しかいないのでそれがタカコさんとすぐ分かった。ふくよかな容姿で、クミコさんとほぼ同年輩、ということは 60 代前半で亡くなったことになる。こうして自分がその本棚から気に入った本を取り出したり、箱の中の写真を眺めたりしていることが、改めて申し訳ないような気がしてきた。
形見分けに本をもらったのは実は初めてである。しかもその本の元の持ち主と私とは面識がない。それでも形見分けと言えるかどうか、と訝りつつ、異国でその生涯を終えた日本人女性への哀悼の意もあって、壁に掛けられている黒髪の「ハーフ」の息子さんと金髪のドイツ人女性との和風婚礼衣装の大きな写真に、いただいていきます、と手を合わせた。
私が生まれて初めて形見分けなるものに預かったのは 11 歳のときで、亡くなったのは 20 歳の従姉であった。父の姉に当たる人の末っ子で高校を出てお勤めしていたが、色白で華奢でまるでお雛様のような風情、急死だったのに余りに儚げなその風貌から誰もさほど驚かなかった。少し結核の気があって薬を飲んでおり、それを誤って飲み過ぎた、というのが伯母たちの説明であったが、その真偽を問うような親戚はいなかった。
実は伯母が嫁いだのは祖母の実家で、家を継いだ祖母の姉の一人娘が結婚後ほどなくして癌で逝き、養子婿の後妻に伯母が望まれたというわけで、二重に縁のある家であった。ほんの子供だった私と 9 歳違いだし、特にその従姉と親しかったわけではないが、小学生の自分と体格のあまり違わない彼女が雑誌モデルのような服装で帰宅したところに行き合わせたことがあって、伯母が彼女を掌中の珠のように慈しんでいることが察せられた。
その従姉の服が全部、身長も体重もほぼ同じ私に回ってきたのである。ブラウスとスカートが多く、それも特別の生地で特別に仕立てたと見え、今思い出すとデザインも昭和 30 年代にしては驚くほど洒落ていた。そのあとの 2 年ほど私は服を新調する必要が全くなかった。私自身は別に衣装持ちになったことを喜ぶでもなく、母の出して来る物を身につけていただけだが、アメリカ帰りの母の妹が里帰りしたとき私の着ている服を見て、こんな田舎でと目を丸くしていた。
今その形見のことを思い出すと、私は伯母の末娘への愛情を思って胸が痛むと同時に、愛娘の死、それも夭折なのに、遺族の悲しみに思いを致すことのなかった自分の幼さを嘆じずにはいられない。
この思いが深まったのは一昨年の妹の死が一つの契機になっている。息を引き取ったのは普段住んでいる横浜ではなく、コロナにも関わらず帰郷していた連れ合いの実家であった。我が家からは 2 キロと離れていない。真夏の葬儀が終わって、埋葬は秋にすることに決め、その間に義弟は車で横浜に戻って妹の衣類・アクセサリーの類を一切合切私の家に運んできた。見るのが辛いということもあるが、こういう場合の常として男には女の身の周りの品を扱う術が分からないのである。
とりあえず残して置くべきもの、特に着物と帯は、母の死後その嫁入り箪笥の一つがほぼ空になっていたのでそこに入れ、ブラウス、セーター、ジャケット、パンツなどは上等のもの、普段着、着古した服などに分別し、ハンドバッグを含めて良い品は義弟の側の親戚や妹の幼馴染・級友にもらってもらった。妹と私は似たような体格でセーターなどそのまま着られるので、人さまにあげるにはカジュアルすぎる品は私のものになった。
本来なら彼女の息子の嫁に着てもらいたいものもあったが、あいにくその嫁は私たち姉妹より 16, 7 センチも背が高いので諦め、その代わりに嫁入りのとき両親が妹に持たせた和服をいずれ縫い直させて渡すつもりでいる。呉服屋には既に相談してあるが、帰国が叶わないので実現していない。
祖父母を含めてもと 7 人だった家族は 60 年代の祖父の死を初めとして次々にあちらの世界に旅立ったから、私は形見分けを何度か経験しているはずだが、祖父の品は祖母が、祖母の品は母が、父の遺品も母が、分けたので、私はほとんどタッチしていない。母の所持品は後述のように大半を手元に残した。だから本格的に故人の品を分ける作業は妹の時が初めてであった。
祖父母共に若いときには贅沢を経験しているものの、戦後はお洒落どころではなく必需品でなければ新たに買うことなど思いもよらなかった。だから祖父の残したのは戦前に誂えた普段着や式服や袴の類で、それらはそのまま父のものになった。また謡や能を趣味としていたため鼓・太鼓もあったのを祖母が押し入れにしまったままにして、それは謡曲の本も同様であった。私が使えるようなものは何もなかったが、死後何年か経って、祖父が愛用していた煙草盆などはもらいたかったと思ったけれど遅かった。全部ゴミとして捨てられたらしい。
そもそも我が家の「嫁」、つまり祖父・父・さらには弟に他家から嫁いで来た女たちは揃いも揃って即物的で、金目の物でなければ粗略に扱い、家族といえども血縁者ではない夫や舅・姑に関してはこんなものなのかと考え込んでしまうことがあった。
そんな中で、祖母の存命中のことだが彼女が黒いシルクのスカーフらしきものを持ってきて、祖父の引き出しにこれがあったが要らないかと私に訊く。まだ 20 歳前後だった私にもそのシルクが上質であることは分かった。祖母は「白木屋から取り寄せたんだよ」と言い、それはもう昭和 10 年代のことだというから当時で 30 年ほど経っていたわけである。
お洒落で身につけるには、黒という色とひらひら長いのとで向いていないけれど、手触りと光沢が気に入ったので「もらいたい」と答えた。それを欲しがった理由はもう一つあって、祖父は外出の折りに幼い私を伴うことがしばしばだったが、そのとき彼が首に巻いていたのが黒のマフラーだったという記憶があったためだ。冬の外出では祖父はいつもインヴァネスを着て、その下にマフラーをしていた。
ずっと後のことになるが、その思い出から
・あらたまの年の集いにつきゆきてインヴァネスの裾にぎりはなさず
という三十一文字が私の頭に浮かんだほどだった。
たまたま見せられて「おじいちゃんの形見に」と受け取ったこのスカーフは、その後私にとって思いがけず有用な品となった。社会人になってしばらくの間は箪笥に眠っていたが、何の因果かその後イランに出張する機会が通算で 7 度ほどあって、それはイラン革命のあとだったからイラン航空を使うしかなく、そして機内に一歩入るとそこはイラン領土というので頭髪を覆うように命じられた。もちろんイラン国内でも同様である。
私は旅の最初から最後までずっとこのスカーフを頭に巻き、現地の女性たちに「随分手回しがいいのね、そんなものを持っているなんて」と感心されたものだった。またシリアやイスラエルに旅した際にも、髪を隠すことは求められなかったものの途中でモスクに入ることもあったし、何より三月半ばでは地中海沿岸の町や高地のエルサレムなど風が強くて寒いので、連日これを防寒用に使った。
イラン南部シーラーズにて
祖父が使っていたもので私のもとに残ったのはこの程度であるが、それは祖母の日常品に関しても似たようなものだ。彼女の着物の一部は母が座布団にした。装飾品やら値の張りそうな衣類は何も残っていないと母は言い、そもそも祖母の生前にKちゃんがよく来て金目のものは全部持って行ったから、と憎々しげな口調でいう。Kちゃんというのは祖母の末っ子、年の離れた父の妹で、不良少女からそのまんま不良中年になって誰かれ構わず無心し、来れば祖母がいくばくかの生活費を渡していたことも死後に銀行口座の残金が僅かだった理由であろう。
Kちゃんの図々しさもいただけないが母の口吻の方が私はもっと気に入らず、「陰で批判してばかりいたくせに、その姑が何も残さなかったからって今さら文句言う筋合いはないだろう」と言いたかった。こんな嫁では祖母もやりにくかったはずだ。
しかしそれでも祖母の形見がないわけではない。その死後かなり経って私は古い鏡台の深い引き出しに鼈甲の笄や簪を見つけたが、いずれも壊れていた。だから母もほったらかしにしていたのだ。ところがそれらをガラガラ混ぜているとわりとまともな櫛と、そして真珠の帯留めが下の方に隠れていた。櫛の歯は一部欠けていて、せっかくの蒔絵にもかかわらず金銭的な価値は無くなっていたがそれはどうでもよかった。別に質草にする気はないし。
帯留めの方はちょっとアールデコ風のデザインで、帯締めの代わりに鎖を通せばペンダントとして使える。もちろん母が自分の帯留めにすることも可能である。それで一応彼女の意向を訊いてみると、ちらと見て今時そんなものは流行遅れだと言うので、それなら私が持っていようと以後アクセサリーとしてこれも結構愛用している。
祖父母との関係はやはり第一子である私が弟妹よりも強く、下の子のどちらにも思い出というほどのものはないらしくて形見など欲しがらなかったので、特に了解を得る必要もなかった。しかし父母の場合はそうもいかない・・・と私は思い、われわれの世代が使えそうなものに関しては一応の相談はした。
ただし父の遺品のほとんどは蔵書で、それも上記のタカコさんのと違ってハードカバーや全集の類が多い。二十巻を超える全集など「形見にもらっていく」と言っても、ポータブルではないのだ。戦前の経済学者の著書もあれば、大内ナントカいう学者の訳したマルクスのDas Kapital(資本論)もあった。今なら極右に分類されそうな父が、何でまたこんなものを。数が最多なのは高浜虚子全集と雑誌ホトトギスで、これだけのものを本当に読んだのかと首をかしげてしまう。
弟妹のどちらもそれらに関心はなく、書架の前で背表紙を眺めたことすらない。一方私は父が古書を含め全集を贖う際には代わって神田の山陽堂その他に注文したから、自身は読んでなくても何かしら縁を感じる。そしてこれは形見と言うより家に付随したもの、いわば備品とみなしている。私の義務はせいぜい、それらを毀損のないように保つことだろう。
その点は母の遺品の場合も同様で、こちらは茶道にかかわっていたことから茶碗だの花瓶だのブンブク茶釜だのが残されたが、それらも私から見れば「備品」である。また数えきれないほどもっていた着物は、出入りしていた婦人の一人にその大半をごそっと渡して適当に分配してもらい、残った 12, 3 枚の着物と数本の帯だけ和服箪笥に残してある。母を看とった妹に「あんたが着てごらん」と勧めたが、要らないわ、というにべもない反応だった。自分の着物すら袖を通してないものもあるのに、という。
そんな次第で、祖父母の形見と異なり父母の遺愛の品で私が普段使っているものは何もないのであるが、しかしこれぞ正真正銘の形見として日本の家に大切にしまってあるのが「千人針」である。これは母の生前から和箪笥の一番下の引き出しの隅にあって、興味深いことにその傍らには 3 人の子の臍の緒がそれぞれ木の小箱に入れられて並んでいた。
わが子の臍の緒を取っておく、という慣習は世界のどこにもなく日本独特だと聞いたことがある。その由来はよく分からないが、母が私に言ったように「これは私のお腹からあんたたちが出てきた証拠だから」という女の気持ちが大元にあるのだろう。血の繋がりのない家族構成員への冷淡さとは対象的に血を分けた者への強い執着があるのは、かつての女たちが置かれていた不自由で危うい状況を物語ってもいるが、母の時代にはすでにかつてのような桎梏はなくなっていたはずなのに、慣習というものはそう容易には廃らないらしい。
とはいえこれらを預かっておくというのは私の任務ではないと思い、母の一周忌で一族が集まったとき小箱を弟妹に渡して自分で保管するように言った。蓋を開けてそこにカンピョウの切れ端のようなものを見た二人は一瞬きょとんとして、そして首をかしげつつ互いに顔を見合わせていた。
一方そこにあった千人針であるが、これも母の死後に、その謂れは言うに及ばず言葉すら自分以外の誰も知らないことに私は唖然とした。臍の緒を(渋々)受け取ったあとで箪笥の中をごそごそやっていた妹が何やら持ってきて、「こんなものがあったわ。布巾かしら、捨ててもいいわよね」というので見ると、九死に一生を得て帰還した父が持ちかえった千人針ではないか。
「千人…何なの、それ」と妹の方はまたしてもきょとんである。父は明治の末の生まれにしては開明的で(男尊女卑は忌々しかったが)、迷信やまじないの類を一切信じない人であった。しかしだからと言って、二十歳そこそこの若い妻が北支に赴く老兵(丙種の父は三十歳を過ぎて出征した)に持たせた千人針をただの布切れとして捨ててくるようなドライな男ではなかった。
私にとっては、千人の女性に糸を刺して下さいと(珍しく殊勝に)頼んで廻った母と、それを肌身につけて進軍した(理性的なはずの)父との、大事な形見であるが、はて私が消えたのちこれはどうなるのだろうと考えるとあまりに悲しいので、もう滅多に取り出すことはない。
・逝きし人みな浄まりて去年今年(こぞことし) びすこ
(新年の季語「去年今年」で有名なのは虚子の「去年今年貫く棒のようなもの」という句だが、私はこれが季語であることを長く知らずにいた。)
ドイツの我が家には物がやたらあって、幸か不幸か使っていない部屋などもあるため置き場所に困るわけではなく、それでますます物が増えて行きます。いずれ、死ぬよりも前に多分別の家に越さねばならないので、何とか物を減らしたい、とにかく今より増やしたくない。シンプルに暮らしたい。
それで買わないでほしい、もらわないでほしい、あとで(つまり死んだあとで)残った人が処分に手間取るから、と私が言い続けているのですが、それに対する夫の答えが「死ぬときのことばかり考えて生きていられるか!」
彼らしいといえばいえるけれども、この答えに私はちょっと考えるところがありました。日本人だけではないと思いますが、ただ日本人の場合に顕著な気がするのは、逆算方法ですね。85歳とか90歳とか、今の平均寿命と自分の遺伝的要素などを考慮して寿命を想定する。現在の年齢からそこまで15年生きるとして、いくら貯金が必要か、とか、どれから処分・廃棄して行くか、何を抑制するか、などと考えあぐねる。
話が飛びますが、物作りの商売をする場合、あるいはサービス業であっても、儲けがないことには話にならないから、コストを真剣に考えます。そのとき、材料にこれだけ、人件費にこれだけ、運搬には・・・と積み上げていくやり方と、最初に○○円以下でないと売れないからそれを最終価格として、そこから材料費はXX円以下にする、人件費は△△円以下に抑える、と逆算していくやり方があります。もちろん後者の方が圧倒的に採用されている。
うちの亭主も仕事の性格上それをやっていて、いい加減それが厭になっているんじゃないかという気がします。なぜ最終ターゲットを設定せねばならないんだ。そんなものなしに物を作ったって、買ったっていいじゃないか。なぜ85歳で死ぬと仮定せにゃならん。生きられるだけ生きればいいのだから、どんどん好きな物を買って増やして、あげたりもらったり、楽しんでいけばいいじゃないか。
コストを考えない企業家なんて無謀そのものですが、これに関しては私もちょっと弁護したいことがあります。もう廃れてしまった物もありますが、かつて画期的といわれ一世を風靡した製品には、もとは軍事的用途で開発された品が結構あるのです。トランジスター、半導体もそうですし、現代社会を席巻しているパソコンなども、以前は巨大なコンピューターに頼っていたのを米軍の人達が暇と金にあかせて(軍事品というのは商売品ではないから上限価格を設定しない)研究・開発した。インターネット(の素)然り。その噂を聞き、あるいは覗き見て、これはいける!とひらめいた人がさらに改良を加えて市場に出した。
つまり、上限、天井、いわゆるキャップを無視した物造りやサービスから生まれた発明品の恩恵を後の人々が受けることが良くあるのです。少なくても、それで刺激されるアイデアやブレークスルーは多いし、考えていても楽しい。
人生だって、とりあえず死ぬ日のことはうっちゃっておいて、今日明日は生きているということを前提に暮らしたっていいだろう。
だから、私ももう諦めて、お金が続く間は好きなもんこうたらええねん、好きな人になんでも気に入ったもんをあげたらええねん、死ぬときのことは忘れたらええねん、と思っています。もちろん夫にそうはいいませんけど。
おしまいの俳句も最初の歌も好いですね。櫛笄くしこうがい煙草盆、残ってますね…もちろん僕の場合には…残っちゃったもの、時間の経過によって距離感がちょうど良くなったもの? → 次の(…)内読み飛ばすと意味が通じると思います (正確に言いますと…そのものが好きと言うよりは置いておくこと、、、 「そこにあることによってなくて良いものを排除する…もの」。お守りでも魔除けでもない自分自身の座標上の点を決める錘おもり。オモリですので場所を動かす。あるいは手にすると、ずれる、なにが?ずれるのは時間です。ずれた距離によって自分の今いる位置を確認する。朝からわけわからないこと言ってすいません。こんなこと言うのは多分武蔵野夫人を読みながらあちこち自分を移動させていたせいだと思います) → それも含めて僕がなくなったら心おきなく捨ててもらえるものしか多分周りにありません。そうしようと思ったわけではなくぐるりと見渡すとそういうことになっています。半分死んでる…という心境です。小心者なので頓死に備えているのかもしれません。あ、通信ちょっと間を置きます🤏