至る所で差別への抗議が高まるなか、メディアで取り挙げられるだけでも、黒人・有色人差別、LGBT(その他)の差別、男女差別、国籍による差別など話題は増える一方で、これらが特に近年アイデンティティ問題としてジャーナリストや学者たちの間で議論されている。
最近は聞かなくなったが WASPという言葉がアメリカにはあり、知られているようにWhite、Anglo-Saxon、Protestant を意味する――ということは白人でアングロサクソン系(要するに英国系、次がドイツや北欧系)、宗教はプロテスタントであることが、エリート富裕層の条件とされた。
カトリックは南欧系とアイルランド系に多く、こちらは 20 世紀初めまで貧しい移民が目立ったので、北米では長い間低く見られていたが、アイルランド系のケネディが大統領になったことから P はあまり意味を持たなくなっている。ブッシュもバイデンもカトリックだ。
そしてこの WASP の P に代わって、男(Man)の優位が続いたことで WASM(私の造語)と言ってもいい状況がそのあとに続いた。もっともこれは建国以来なので今さらの感もあり、男性優位は自明のこととして長く話題にならなかったのだが。
私がいつも不思議に思うのは、他の差別問題すなわち黒人対白人、ユダヤ人対非ユダヤ人, 同性愛者対異性愛者などにおいては、差別される側はほぼ例外なく一致して差別に怒り抗議するのに、男女差別に関してはそうでもないことである。
少なくとも日本社会では、私の子供時代にも顕著な差別があったのだが、それに対して声を挙げる特に若い女性たちに、男はもちろん女もまた極めて冷淡だった。私は自分の周囲で「はねっかえり娘」という嘲笑や、「赤い思想の女」という非難をよく耳にしたものだ。
女であることで何かと不利を被り、いわれのない束縛を受けてきたはずの女たちが、その地位向上を願う同性を馬鹿にするというのは、考えてみれば実に奇妙な現象だが、ドイツで話を聞くとそれは戦後の欧州でも見られたらしい。やはり保身のために男の顔色をうかがう女が多かったのか。
それが 60 年代以降の民主化に関しては、日本には真似できない規模・速度での展開となったが、その理由や背景については社会学の範疇になるのでここでは省く。
ドイツで暮らすようになって実感するのは、日本では現時点においてさえも、女性の社会進出や男女平等を本気で支持する女性が決して多くはないという事実である。これは女性の側の怠惰や同性への嫉妬もあろうし、あるいは「別にそんなもの無くても」というところなのかもしれない。
例えば自分の親族の女たちを見ていても、この人達はもし平等に教育を受け、その代わりに自力で生きることを迫られていたら、能力や資質からして決して今のような気楽な暮らしはできなかっただろう、と思うことがよくあった。
つまり18 歳なり 20 歳なりで親が決めた相応の家に嫁げば、その後は安定した暮らしが約束されているという社会慣習のおかげで、実力を試されずに済んだわけである。男の「甲斐性」とやらに自分の人生を委ね、それで結構うまくいったので、娘たちにも同じ生き方を強要したのだ。
そしてこういう女たちの特徴は、自分がラッキーであることがあたかも自分の功労か天与の権利であるかのようにふるまう点にあった。要するに彼女らの多くは、「無知で驕慢」(丸谷才一が小林秀雄の同棲相手だった長谷川泰子を評していった言葉)だったのである。
戦後の男女差別の顕著な環境で遭遇した不快な事件は枚挙にいとまがないが、差別する人間たちが自分の身内であること、それも母親が同性である娘を軽視することは、私の怒りを倍増させた。
そしてその実話を語ることは、血を分けた人間を悪しざまにいうことになるけれど、それをあいまいにしては今回の論旨がぼやけるので、多少の聞き苦しさはご容赦いただきたい。
父が不治の病を得て余命数か月と診断されたとき、母と弟は早くも遺産の話を始めた。私はそれをこの上なく不快に感じたが、口には出さずただ自分の取る行動は決めていた。まともな教育を受けさせてくれただけで十分と思っていたので、相続に係わるつもりはなかった。
ただしこの教育という点に関しては、父母共に「箔をつけてそれなりの家に嫁がせる」という目論見があってのことで、自分の意思と能力で自由に生きよ、などという願いはなかった。女に志(こころざし)などないのである。
それでも感謝の念は変わらなかったので、父が逝ってすぐに遺産放棄を申し出た。その条件として、私の分は長男がもらって構わないから、嫁いだ妹には法律通り六分の一を渡すこと、とした。(母が二分の一で、残りを子供たちで分けるとそれぞれ全体の六分の一になる。)
一旦はそれで落ちついたかに見えたが、そのあと妹が半泣きで言うには「未婚のままで実家の姓を名乗っている姉が遺産を放棄しているのに、他家に嫁いだお前が財産をもらうのはおかしい」と母と弟から責められ、同じく相続放棄を迫られたというのである。
さあ、私は怒った。結論から言うと、そのあと私の「ならばすべて法律に従う」という主張が通り(裁判沙汰になったら勝ち目はないから)、弟の相続分は結局六分の一ということになった。
(ここで一言付け加えると、私の言動は無私無欲の手本のように見えるかもしれないが、自分には子もなく老後は何とかなりそうだったので、不要な財産を持つことに執着がなかったのである。やはり家族があるとそうもいかないことは分かっていた。しかし「子供のため」を口実に人生に躓く人の何と多いことだろう。)
相続に関する口論の中で、私は言った。「そもそも男とか女とか、どういう根拠で差別をするの。女であることのどこが問題なの。男女の差は自分では決められない。A子(妹)だって自分が女に生まれたいと言って生まれてきたわけじゃない。そんなのただの偶然なのに、それで彼女を冷遇するなんて。(論理的には、たとえ自分が望んで女に生まれていたところで、それは差別の理由にはなり得ないが。)」
それに対して弟がどう答えたか。
「それは女に生まれたのが不運と諦めてもらうほかない。」
これを聞いて、自分の頭から血の気が引くのを感じた。
私はこれとそっくり同じ言葉を若いときに聞いて戦慄したことがあった。それを口にしたのは、誰あろう、アドルフ・アイヒマンである。
アイヒマンという名に覚えがない若い人々も今は多いかもしれない。二十代でナチス親衛隊に入隊し、順調に昇進を遂げて終戦までに何百万人ものユダヤ人をアウシュヴィッツの強制収容所に送り込んだ、いわば間接的な殺人鬼である。戦後は南米に逃亡して妻子も呼び寄せアルゼンチンで暮らしていたが、やがてイスラエルの諜報機関モサドの知るところとなり、1960 年に捕まってイスラエルに「拉致」される(当時の国際関係から、アルゼンチンは正式な引き渡しを拒んだ)。
裁判が始まったのはその翌年の春で、逮捕までの経緯や裁判の進行は当時の新聞でも大きく報道され、当時中学生の私も興味を持って関連記事を追っていた。彼の死刑が執行されたのは1962 年の六月初めで、私がそのことを鮮明に記憶しているのはそのとき修学旅行中だったからだ。京都駅前で観光バスを降りて駅に入る前に階段でふと振り返ると、通りの向こうの電光掲示板に「アイヒマンが処刑された」というニュースが流れた。
イスラエルでは建国以来死刑は禁止されていたけれど、アイヒマンだけは死刑しかない、というのがイスラエルの世論で、世界のどの国もそれに異議をさしはさむことはなかった。
その後もこの人物への関心はあって新聞雑誌のいろんな記事を読んだ中に、彼が逮捕されてイスラエルに移送される際にモサドの質問に比較的冷静に答えていたアイヒマンが、息子のことを訊かれたときには顔色を変えて「あの子には手を出さないでくれ」と懇願したという話があった。ああ、彼もわが子には普通の愛情を持つ人間なのだと、そのことさえ気味悪く感じたのを覚えている。
そして取り調べのとき、ユダヤ人を次々とガス室に送り込んだことに何ら良心の呵責など感じていないアイヒマンに、取調官が「彼らは何の罪も犯していないのに、ただユダヤ人というだけで殺戮されるなど、理不尽とは思わないのか」と言うと、彼は平然として、「それはユダヤ人に生まれたことが不運と諦めてもらうほかない」と答えたというのである。
まさかそのアイヒマンとそっくり同じ台詞を自分の弟から聞こうとは。
アイヒマンは見たところ平凡な普通の男で、何百万人もの人間を死に追いやるような怪物には見えなかった、と多くの人間が証言している。
それについて、裁判を傍聴したドイツ出身のユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ(Banalität-des-Bösen)」という表現を用い、当時この言葉は知識人の間で一種センセーションを巻き起こしたらしい。
正直なところ私はこのハンナ・アーレントという人を好きではないが、しかし悪というものがさほど特異なものではなく、むしろ往々にして凡庸さの中にある、ということには自身の経験から同意する。
それにしても、「そう生まれたのが不運と諦めてもらうほかない」と言い放つとは何という不遜・傲慢であろう。
女に生まれたことが、ユダヤ人に生まれたのが、黒人であることが、自分とは関係ない不幸であって、彼らはその悲運を甘受するほかない、という考えは一体どこから生じるのであろうか。
そういう台詞を口にする人間の胸に、自分もまたユダヤ人に生まれていたかもしれない、自分もまた被差別部落で生を受けたかもしれない、自分もアフリカから売られてきた黒人の子孫だったかもしれない、という思いが、一瞬でもよぎることはないのだろうか。
男それも長男に生まれたことを特権とするなら、その特権を持たない人間の方が世の中には遥かに多い、という事実に違和感を持たないのはなぜだろう。王権神授説ならぬ長子神授説を彼らは信じているのか。女に生まれたのは天罰か。
この世の多くのことは、人間の力ではどうにもならない偶然で決まる。富も教育も力及ばないことは真砂の数ほどある。家族のために苦闘する女たちを別世界の人間と見なしている母や叔母たちに、私は言いたかった。あなたの夫が健康で長生きし、未亡人として日々過酷な労働を強いられずに済んだのも、息子がテロリストと化して「世間を騒がせる」ことがなかったのも、あなたが妻・母として優れていたからではありません。
思い出すのはあさま山荘事件で、このとき坂東国男の父は息子が逮捕される前に首を吊った。この時期、私の父が知人に「親としてはただもう、どうかわが子が道を誤ることがないようにと祈るしかない」と言っているのを耳にしたが、実際、祈るしかないことがこの世には溢れている。
しかし私の知る恵まれた男女の多くは、たまたまの幸運を当然の特権と思っていた。無知に基づく驕慢に生涯気づかず、またアイヒマンやわが弟のような恐ろしい尊大さを胸に「穏やかな人生」を送っている人間はそこここにいるのである。
英語で compassion という言葉があって「同情」と訳される。この場合のパッションは「情熱」ではなく「受難・受苦」を意味する。それに相当するドイツ語の Mitleid (ミットライト) も言葉の拠って来るところは同一で、Mit は「共に」という意味、Leid は苦しみのことである。だから英語でもドイツ語でも、「共に苦しむ」ことなのだ。
不幸な人々と苦しみを共有し、自分の順調な人生に奢らず、運命に対し謙虚であること。別に特別なことではない。しかし私の経験では、学校教育でも家庭のしつけでも、この謙虚さやミットライトを教えることはできない。それこそがこの世の悲惨の根源なのかもしれない。
写真は私が高校時代に見て感銘を受けた映画「わかれ道(1964年、原題:One Potato, Two Potato)」から。カンヌ映画祭で何か賞をもらったことが報道され、それで観に行ったのだった。
人種問題を扱ったこの映画のあらすじを簡単に紹介すると、一旗あげようと南米に行った夫からいつしか音信が途絶え、生死も分からないので主人公の女性は離婚手続きを取り、娘と共に別の町に移って働き始める。そこで真面目な黒人男性と愛し合うようになり、まわりの反対にもめげず結婚する。
(そもそもこの事態が当時はかなり常軌を逸していた。白人男性と黒人女性というならまだ許せる、だが黒人男性と白人女性のカップルは容認できない、というアメリカ人の声を私は中学生の頃、わが家に転がっていた A ジャーナルか何かで読んだことがあり、どうやらそれは米国の大多数を代弁しているようだった。)
やがて二人の間に息子も生まれ、当初この結婚を狂気の沙汰とみなして冷たかった舅・姑との関係も好転して平和な生活が続く。ところがようやく幸せを手にした彼女のもとに前夫が突然姿を現す。彼は元の妻の配偶者が黒人と知って衝撃を受け、黒人の家族のもとで自分の娘が育つことに危惧の念を抱き、親権を主張して譲らず裁判で争う。
この男の主張は裁判で認められ、母親は「私を手元において! いい子になるから」という娘の必死の懇願にもかかわらず彼女を手放さざるを得なくなる。原告の父親を支持した裁判所の判決は、「この国に人種差別が存在する以上、黒人の家庭で育つ白人の子供がさまざまな社会的不利を被ることは否定できない」というものだった。この映画が製作された1963年のアメリカの世情はかくの如くであった。
One Potato, Two Potatoというのは子供の数え歌で、主人公の娘が黒人の継父との新しい家庭でこれを歌いながら遊ぶシーンがあった。優れた映画だった。
びすこさんの勇気ある発言に敬意を表します。僕の場合女性の立場について考え始めるのは、やはり、女性の側からの発言ですね。男性には気がつきにくい問題を含むと思うからです。 風習、慣習を含むある種のカースト制度、男性優位、人種優位、なんとなく出来上がる社会の風潮の恩恵を受けている自覚もないまま過ごしてしまう怠惰が、また同じような次世代を育てることになる根の深さを感じます。自分の中にもしっかり根を下ろしているかもしれないと言う用心深さが必要だと思いました。 またこんなことも考えました。図らずもゲームに勝ってしまった状況を自分の力と勘違いすることもよくあることのような気がします。自分の都合に合うように考える。これで考えたことにして次のステップを踏む。小さなことを合理化して次のステップを踏んでしまえば後は坂を転がるようにして人生経験を積む。知らない間に無批判に現状の検証をおろそかにしたまま、それがそのまま現状を固めることに加担している、なんてことを文章を追いながら考えたことでした。差別は僕のテーマでもありますので折に触れまた文章を追わせていただこうと思います。ありがとうございました。