このタイトルってえらく抽象的ですね。ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」みたいに。オースティンの場合それが原題では Pride and Prejudice とPの頭韻を踏んでいるところがミソだったのだけれど、この場合もドイツ語にすると Güte und Gier で頭韻ばっちり、日本語よりカッコいいでしょう。
いや、カッコよくするためにこういう題にしたわけではなく、先月末に少しばかり思索(というほど高尚なものでもないが)を強いられた経験について、日本語で簡単に表現する言葉が見当たらないのでこんな色も香もない題になってしまった。
先月末の経験というのは、11 月 1 日の万聖節を前に夫が少し休みたいというので出かけたスイスでのことである(またまたスイスの話で申し訳ない)。
欧州の観光シーズンはほぼ終わっており、スイスの常宿も 10 月中旬までで閉めたというので、山の方にあってハイカーや登山者の利用する宿に今回は泊まった。町の馴染みのカフェにはまだ結構活気があったし、ホテルも宿泊客は少なかったもののここは市内の人達がよく食事に来る場所なので特に週末は賑わった。
私自身はこんな時期に旅しても、と消極的で、最初はむくれていた。一方でわが家に送られてくるアッペンツェルのニューズレターに見た「ペスタロッチ子供の村」に関する記事には興味を惹かれ、それがいつも私たちの滞在する「内」アッペンツェル準州でなくそこを囲む「外」アッペンツェルにあるというので、次回に行ったときは訪ねてみたいと思っていた。
ニューズレターでは戦後間もなく 1940 年代後半に欧州各国の戦争孤児を引き取って養育し教育を施した「子供の村」が紹介されており、さらにその背景や発展の経緯を詳述した本が出版されているとのことだったので、木曜日にアッペンツェルに着いてすぐ町の書店で購入した。
私がこの子供村のことを知って少しばかり苦笑してしまったのは、これが内アッペンツェル準州ではなく外アッペンツェル準州にあるその理由であった。
KBCのブログで何度か言及したように( Correspondence(2021/8/18-9/11)参照)、アッペンツェルが内と外に分かれたのはカトリックとプロテスタントとの対立のためで、それも 15 世紀末という途方もない過去の話であるが、今でも合併は拒否されている。別居の方が仲良く暮らせるというならそれでもいいけれど、ここでは十年一昔どころか五百年でも昔にならないのである。実際、欧州における宗派の違いとそれによる対抗心とは、今でも笑って済ませられる話ではない。
それで戦争孤児のために設立された子供の村であるが、これにペスタロッチという人物名を冠したときから、内アッペンツェル準州には「関係ない」プロジェクトになってしまった。
なぜなら、世界的に知られた教育者ペスタロッチは北イタリアからスイスに亡命したプロテスタント家族の子孫で、当時プロテスタントが多数を占めていたチューリッヒが活動の場だったからである。イタリアで迫害されたペスタロッチの祖先の話も欧州の宗教史を研究する上では非常に興味深いが、今回はその話題には触れない。
さて第二次世界大戦の被害を全くと言っていいほど受けなかったスイスで、北欧から南欧までの孤児の世話をするコミュニティを作ろうという案が出たとき、そのプロジェクトにペスタロッチという名をつけたため、賛同して土地や資金の提供を申し出たのはツーク、チューリッヒ、外アッペンツェルなどプロテスタントの州ばかりとなった。
結局、一つの村を作るだけの広大な土地の提供をアッペンツェルの地主が申し出たことから、ここに子供の村を建設することが決まったのであるが、もちろん他の州も協力は惜しまず、このプロジェクトが大々的に知られるとかの UNESCO までが関与してきた。
村は今日も存続していて、現在はかつてのようにフィンランドやギリシア等の被災国からの孤児はおらず大半は紛争地域・貧困国からの子供たちで、つまり欧州外、というよりEU外からの児童である。それだけでは隔離された特殊な集団になるので、スイスを含む欧州の他の国の子供たちも研修を兼ねてやって来るし、夏の休暇中にここで暮らして「友愛」や「連帯」を学ぶ先進国の生徒たちも多いとのこと。
というわけで金曜日に夫と一緒にこの村を訪れた。内とか外とか言ってもアッペンツェル自体が小さいので、ホテルからも町からも 15 分ほどの距離である。あいにくの曇天で村の景色は寂寥としていたが、入口の辺りには世界の主要国の国旗が立てられ風に翻ってちょっとした華を添えている。(児童をここに送ったことのない日本の国旗はなかった。)
敷地はかなり広くそれもオープンなので好きなように歩きまわれたが、私はたちまちがっかりしてしまった。そこここに散在する建物はスイスならもとはきちんとして立派な造りだったはずなのに、今はいずれも外壁の板が朽ちたり塗ったペンキも半ば剥げたりで、残念な姿になっているのである。
受付に行くと、オフシーズンのせいか「○○メートル先の××という建物に行って下さい」とあったが、そこに行くと入口には鍵がかかっていて、前には空き瓶が散らかっていた。
欧州の人々はずいぶん寄付には熱心だし、ケチでは人後に落ちないスイス人とて例外ではない。さらには国連までが関与しているというではないか。それなのにこの体たらく。
失礼な言い様だが、慈善事業というものは意外と寿命が短いのかもしれないとすら思った。赤十字とか UNICEF などは知名度が極めて高く、雑誌やテレビでのアグレッシブなPR活動もあって世界各国の富裕・中流層にコンスタントに支援されているが、それらは例外で(王族・皇族が名誉総裁だったり)、普通の慈善団体を存続させるのは一般に考えられているよりもはるかにむずかしい。場合によってはカリスマ的な人物の指導力に依存しているため、その人がいなくなると形骸すら留めなくなるケースを私も日本で経験している。
さて、その日宿に帰ってレストランで食事をしていたとき、欧州でカトリックとプロテスタントが混在する例外的な国ドイツとスイスの祝日の話になり、そのほとんどが宗教がらみであるためこれら両国では州によって休日だったり普通の日だったり、これは実に不便で旧弊で不合理だと私が憤慨していると、すぐ後ろの席からくすくす笑う声が聞こえた。
振り返ると、うちとあまり違わない年代の夫婦が座っている。この時期に登山家でもなく子供を自然の中で過ごさせるわけでもないのにこのホテルに泊まっているのがちょっと不思議で、夫が「どちらからですか」と尋ねると、やや西の、我が家からも遠くないバーゼルからとのことだった。
都会のバーゼルからなぜこの時期にこんなところへ、と思ったがさすがにそういう質問は憚られる。ところが怖いもの知らずというか空気などどうでもいい我が夫は、その質問を堂々と口にした。
別にいやな顔もせず夫妻が答えてくれたところでは、ここへ来たのは現在ザンクト・ガレン州の保養地バート・ラガーツで開催されている野外彫刻展を見るためだという。バート・ラガーツはアッペンツェルから南東へ 40 分ほどの、アッペンツェルとは違って非常に高級なリゾートである。アルプスの少女ハイジの物語でも、そこからハイジの村までは 4、5 キロという近さもあって、クララとおばあさまが山小屋にハイジを訪ねていく続編ではまずこのバート・ラガーツで数日を過ごすという設定になっている。
へええ、そんな催し物があるんだ、と思ったが特に屋外に並んだ彫刻を見たいという興味はそのときは湧かなかった。奥さんによると、バート・ラガーツの町全体が展示場になっており、どの通りや小路にも面白い作品が面白いやり方で置かれているという。
翌土曜日には私たちはクール(スイスで最古の町として知られる)に行って馴染みの店でお喋りし、その日の夕食の場でまたバーゼルの夫妻と会ったので、夫が「野外展示会はいかがでしたか」と訊くと、「とても素晴らしかったですよ、是非あなた方もご覧になって下さい」と持ち帰ったパンフレットをくれた。
今年 5 月に始まった 3 年に一度の展示会(それでトリエンナーレと呼ばれる)は、何と翌日が最終日だということが分かり、それでは行ってみようということになった。
翌日曜日には晩秋のスイスの空はきれいに晴れて、これなら展示会は大したことがなくても往復のドライブだけでも外出する甲斐はあると、私も機嫌よく出発した。町に着いてから、いくら町中が展示場といってもその中心というのがあるだろうとしばらくウロウロし、途中で例によってお茶に立ち寄ったカフェで訊くと、展示はこの辺りからもう始まっているが(そう言えば、妙な木彫りの人形が銀行前のベンチに座っていた)、集中的に見られるのはここから 5 分ほどの公園とのことであった。
なるほど歩いてすぐの距離に大きな公園があって、さほど大勢ということもないが相当の数の人々が楽しげに歩きまわっている。スタンドではワインやサンドウィッチが売られ、その前の椅子やベンチに腰を下ろして飲食している人々もいた。若い 20 代から 80 代くらいまでと年齢層も幅が広い。
展示の彫刻は大半がアヴァンギャルド風でそれもなかなか面白く、フォルクスヴァーゲンの車をさかさまにしてケージに入れたオブジェなどもあれば(何を言いたいのか)、コウノトリの巨大な巣のような展示品もある。日本人の作品も、また日本語で書かれた碑のようなものもあった(一般にスイス人は親日的である)。
公園の横の住宅街には古風な家が並び、教会の尖塔が聳え、その後ろには厳かなアルプスの山々。富と歴史と自然が一体となって旅人を包む。その中で私が「たまげた」のは、公園の、私たちが入って行ったのと反対側に建つ堂々たるホテルであった。
そのホテルの屋根にすらオブジェがあって、ここもまた展示会に大いに協力しているらしい。真っ白な建物の前には最高級のベンツ車が並び、ボーイさんたちが忙しく行き来している。
私たちは公園のヒマラヤ杉の下の、ホテルのファサードが見えるところに腰を下ろした。こんな立派な公園にこんな豪華なホテルがあって、人々がのどかに逍遥していて、これがフランスや英国や、またドイツであっても、このようなイベントは「庶民」と称する人達の反発を買い、「ブルジョワを倒せ」などというアンティファ(反ファシスト)たちのデモが繰り広げられかねない。しかし私はスイスで BLM だのゲイ・レスビアン支持だの、銀行を潰せだののデモを見たことがない。
もちろんスイスにはアナーキストの若者もたくさんいるはずだが、そういう人々が「秩序」を乱すことをこの国は許さない。警察は欧州では例がないほど規律がとれていて、警官たちは治安維持のために献身的に働く。必要とあれば軍の出動も辞さない。それはそうだろう。世界中の最高富裕層をこの国に惹き付けているのは、アルプスの絶景でも超高級品でもなく、花崗岩の岩盤のように堅い治安なのである。そしてそれによって守られる辣腕の銀行。
銀行業・金融業こそはスイスの命綱である。そこで得られる富は国の隅々にまで恩恵をもたらしている。当初は外国からの政治・思想亡命者を守るために設けられた、守秘義務の堅固さで評判の銀行だったが、そのうち第三世界の独裁者や腐敗政治家の金も預かり、それがこの国の経済を潤すことが明らかになったときから、銀行業は次第に巧妙でソフィスティケートされた制度になっていく。
その秘密性や脱税幇助が欧米各国から非難されると法の網の目を巧みにくぐり抜け、預金というより今は資産管理とやらで途方もない儲けを手にしている。資産を預ける人々の中には言うまでもなく、ロシアや中東や南米の、額に汗して稼いだことのない富豪やマフィアまでも数多く含まれる。
大銀行が預かる金銀財宝(現金・宝石・金の延べ棒・美術品など)はアルプスの山深く、空から以外はアクセスできない場所に埋められているという。まさに、ヌル・ヌル・ジーベン( 007 )の世界である。かつては人々を苦しめた地形が今は宝を守る砦なのだ。
私は前日にクールで聞いた話を思い出した。そこには小さい老舗のお菓子屋さんがあり、私たちは何年か前から贔屓にしている。私がそこの紙袋を持っているのに気づいた男性が話してくれたところによると、この町に菓子職人は他にもいたがこんな山中の地で競争しても共倒れになると、南のイタリアや北西のベネルクスに移住し、苦節数年ときに数十年を経て商売に成功したケースが少なくないという。もちろん北米に渡った人も。
仏・伊・墺・独に囲まれたこの国で、うっかりイタリアと手を結ぶと仏・伊が戦争したときフランスから兵糧攻めにあい、フランスと仲良くするとドイツからのイヤガラセや「経済制裁」を受ける。これでは到底やっていけないと永世中立を宣言して、どことも組みしません、という国策を取らざるを得なかった。とにかく貧しかった。
公園の樹の下で夫と並んで宮殿のようなホテルを眺めながら私は言った。「この国は貧困から抜けだすために、死にもの狂いで頑張ったのね。」すると夫は「うん、たとえ犯罪に手を染めてでもね」と応じた。夫が言うのはもちろん、海外の犯罪者ややくざな富豪の資産隠しに協力してきたスイスの銀行の手法である。
私はふと、映画「風と共に去りぬ」の中のスカーレットの台詞を思い出した。
「神様に誓います、私は負けません、生き抜いて見せます…二度と飢えに泣きません、一族を飢えさせることもしません。嘘をつき、盗み、騙し、人を殺さねばならなくなっても、神様に誓います、二度とひもじい思いはしません。」
これは南北戦争で家も農園も焼かれてすべてを失ったスカーレットが、第一部の終わりで真っ赤な夕空を背景に拳を握りしめて言う台詞である。
スイスの人々の中には、このアイルランド人の血を引く女と同じように誓い、それこそ何でもして生抜いた人が少なくなかったであろう。
そしてもう、飢えることはなくなった。そこまではよかった。だが一旦豊かになった人間が、あるいは国家が、これで十分だと手を緩めることはあり得ない。
18 世紀の初めからこれまで 3 世紀にわたって発展し繁栄してきたスイスの銀行には、些かの衰えも後退も見られない。世界の富の増加と比例して、銀行も膨らんでいく。余談だが、私の身近にスイスの銀行の日本支店で働いている男がおり、例によって資産管理とやらに精を出しているので、一体どれくらいの額を預かるのかと尋ねると、「うちでは 2 億円以上ということになっているけどね。不動産なんかは含まないよ」とのことであった。
私のような単純至極な頭では、複雑に絡んだ銀行の仕組みや投資方法の精巧さには眩暈を覚える。その前進・発展の歩が緩むことはまずないであろう。人間の欲望とは、限界を知らぬものなのだ。あるいは「神をも知らぬ」と形容すべきか。
慈善団体などは次第に疲弊し衰退していくことが多い。それは善人であり続けることへの疲れであり、善行に飽きるためであり、そもそも善なるものへの情熱というのは世代を越えて続くほど強烈でも頑強でもないのかもしれない。よほどの名誉欲にでも支えられない限り。
だがペスタロッチの子供の村で感じた「制度疲労」とは銀行は無縁である。その存続とさらなる進展のために、有数の知能を誇る欲望むき出しの人材が次々と投入されているからだ。それによって今のスイスがある。
退職して暇を持て余している兄嫁が、亭主に電話してきて、使う予定のないお金があったら、ノルウェーのクローネを今買っておくとそのうち価値があがって儲かるわよ、スイスフランでもいいけど、と誘ったんですって。
亭主は「使う予定のない金なんかないよ、使い道はいっぱいある」と答えたそうな。それよりなにより、これって「投機」じゃないか、と呆れていました。
私の日本の友人に、1ドル=140円のときにたくさんドルを買った人がいます。「あんた、そんな高いときに買っちゃだめよ」と素人の私は言ったんだけど、玄人の「アドバイザー」を信じたんでしょう。それで??今1ドルは113,45円です。何ドル買ったか知らんが、1ドルにつき26.55円失ったわけでしょ。1万ドル買ったとしたら、26万5千円ほど損したわけね。
投機を専門にする大金持ちのための情報を握っているのがスイスの銀行。本当に価値ある情報はお金持ちにしか教えない。結果、富めるものはますます富み、小金で儲けようとする庶民は私の友人のように玄人にコケにされて、下手するとスカンピンになるんです。
小人閑居して不善為す。私は無為でいきます。為替レートをチェックするために一日中パソコン画面を見ているよりマシ。
善人であり続ける事への疲れで、その活動が續かないことが多い。。
でも、団体では続かなくても個人で一生涯を弱い人に捧げるナイチンゲールとか、一生を人の為に捧げる活動してる人もいますよね。アジアでも日本人がその地の住民の為にいろいろ働いて、その人の名前の付いた道や橋などあると聞きました。
殆どが個人の欲望に生きてる人が多い現実ではあるけど。
500年を昔とも思わない、、で思い出したことがあります。前の戦で…と京都のお年寄りが言うことに…前の戦?…いえなに応仁の乱の時です…、、と答えられて苦笑したと言う話。由緒と繋がり、アイルランド、風と共に去りぬ。また、スイスの環境と国情が既存のあるいは新興の利益共同体を、細いけれど強靭な糸で結んでいる役割を担っていることがお話から伝わってきます。
富裕なものが一族の財産を引き継ぎ次の世代に伝えるため税制の網をくぐり国境を越え命をかけるであろう事は…宗教のためには死をも辞さない宗教者に通じます、、金蔓教?は遺伝子レベルの信念のように思われます。こんなことを言うのは金持ちがスイス銀行を話題にし最低限引き継いだものを減らさずに次の世代に伝えることに血道をあげているちょっとした身近な例を思い出したものですから。国を追われたもの、一族の滅亡に瀕したもの、その中の呪文で、、短い一生をいかに楽しむか、短い一生を過ごすために金の力があれば人間の楽しめるほとんどのことが可能であることを口伝しているのでしょうか。
その一方で昨日リサイクルの品、、500円で買ってきた引き出しが10個も付いているノッポのケースを机の横に置き、それだけでもなんかうれしいぼくは幸せです、A4版が楽に入るこの引き出しに何を入れるか考えるだけで幸せな男、先天的プロレタリアートの心情は連中にはわかりにくいことの一つかもしれませんね。慈善事業と言う自覚もない…捨て石になって一向に後悔しない人たちを知っていることはぼくの巡り会えた幸運のひとつだと思っています、こんなことを考えさせてくださったびすこさん、今回も淡々としたお話の中にたくさんの奥行きと広がりに肌触りを感じることができました。
高慢と偏見…タイトルで目を引いたので高校生の時に河出書房のうぐいす色のハードカバーの本で読んだ記憶を思い出しました。今回のタイトルもその伝で成功ですね、一気に読めたのがその証拠、寝床の中で読ませていただく贅沢(失礼!)と安定した着地にほっとできます、続編もまたよろしくお願いします、ありがとうございました。
(スイス人がケチと言う噂は多分彼らが、無駄と考えるものは祖先が無駄と考えたものだからではないでしょうか、祖先に対する義理立て、あるいは礼儀として…僕がスイス人をかばう理由は何もありませんが…あえて理由を探すとすればこんなところかなぁと思いました)