このサイトにドイツから便りを送ることになったとき、マンスリー・レポートに、という話だったのに、この 2月はこれで 3度目の報告書である。それというのも、ドイツ特派員という身に過ぎた肩書をもらってウキウキして周囲を見ると、まあ、あるわあるわ、話の種は尽きない。こう次々ではうんざりという向きもあろうが、今日は先回話題にしたワクチン接種の現場に行って来たので、そのニュースの新しいうちに報告しておこう。
先日来、接種申し込みの電話が繋がらなくてイラついていた夫だが、近所の同い年の婦人が「一回目を済ませました」というので一層腹を立てていた。その人は息子さんにインターネットで申し込んでもらったらしい。
そもそも、こちらでネットを見ると「電話をして来る人が多すぎて対応しきれない」という苦情が保健所からあったので、ネットを使えばと思っていたが夫はパソコン音痴である。それで事務所のヴィクトール・Bさんに頼みなさいよ、と私は言った。
Bさんは2年余り前から夫の会社で働いていて、大変有能である。そのことは私も日本に13か月滞在していた間に実感した。私宛のメールの転送や、両国間の小荷物の確認・追跡など手際よくやってくれた。それはほぼ同時に夫も認識したようで、やる気のない営業マンが辞めたあと受注の仕事を彼に任せたら、顧客会社から高い評価が寄せられたという。
ここでちょっと話が逸れるが、Bさんに関連して1989年以降ロシアからドイツに戻った人々について説明しておきたい。ご存じの通り、1989年といえばベルリンの壁が崩壊した年である。東西ドイツ再統一はその翌年で、ソ連の解体はさらにそのあとと記憶している。
しかし89年の時点で既に、ソ連の衛星国であった東欧諸国で共産主義政権が次々に倒れた。それを機にドイツはゴルバチョフと交渉し、かつてロシアに移住して特に戦後冷遇されていたドイツ人の子孫を送り返してもらうことにした。
この話をすぐ理解できる日本人は稀だろう。私もこちらで「ドイツ系ロシア人」とか「ロシア系ドイツ人」という言葉を聞いて当初はわけが分からなかった。
1989年までソビエト連邦にいたドイツ系の人達の祖先は、なんと、かのエカテリーナⅡ世の時代に彼女に請われてロシアに移ったのだそうだ。北ドイツの貴族の家に生まれたエカテリーナは14歳で皇后候補としてロシアに赴き、16歳でピョートル大帝の后となる。別にホームシック防止のためでもなかろうが、その際に多くのドイツ人を伴った。官僚や学者などエリートが多かったが、同時に少なからぬ庶民がロシアに新天地を求めた。
Bさんはその子孫である。最初彼の先祖が植民したのはヴォルガ流域だったが、スターリンによってカザフスタンに強制移住させられた。ソ連の崩壊でカザフスタンが独立して共和国になる前に、就学前のBさんは両親に連れられ、2百年後に幸せな帰郷を果たした2百万人の一人としてドイツに移った。ドイツで義務教育を受けているので言葉には何の問題もない。しかし両親はロシア語の方が母語だから、ロシア語も流暢に話す。
またまた話がそれるが、夫の会社の製品を取りにくるトラックの運転手たちの多くはブルガリア人やルーマニア人である。人件費節約のために運送会社はドイツ人は雇わない。それで東欧人が事務所に来て、自分はスイスなりオーストリアなりのどこそこの会社に製品を運ぶことになっている、という。まともなドイツ語ができる人はまずいないが、顧客の会社の名前を言えば用件はすぐ分かる。
しかし話がややこしくなることも時にはあって、その際はBさんがロシア語で話をつけてくれる。ブルガリアはスラブ系言語を話すし、ルーマニアにもロシア語なら分かるという人がだいぶ残っている。
実はBさんを雇うに当たっては、夫を悩ませた女性事務員の問題があった。ベテラン事務員二人が退職して、新たに入社した女性たちがどうも互いにうまくいかない。年長のおとなしい事務員が若い新参者に虐められる事件も起きた。
現場は100%男なのでそれを補うように事務員は女性だったが、夫はとうとう「男でもいい、いや、男の方がいい」と募集広告を出した。応募した中にBさんがいて、電電公社の支部で働いていたが広告を見てやって来たと言う。聞けばその数年前に定年で退職した元社員の息子だった。父親が勤勉だったので、彼の子なら、と即時に採用したら、大当たりだった。事務職で雇ったが、身長195センチのがっちりした体格(ハンマー投げの選手並み)なので、片づけでも何でもアッという間に終え、倉庫からの書類の出し入れも女性なら1時間要するところを2,30分で済ませる。
彼を見ていて、同じ仕事なら男女間の給与差をなくすべきだというが、これで女子事務員と同じ給料なら逆に不公平だと思った。それから間もなく営業マンが辞めて受注処理をする人が必要になったので、Bさんに頼んでみたら楽々とこなし、それで給料を上げる名目もたったというわけである。
さて、そういうわけでBさんにワクチン接種の申し込みを頼むと、すぐにアポが取れてそれが2月13日の土曜日だという。土曜日に仕事、というのはドイツの勤め人の世界ではありえないが、医師も保健婦もこのコロナ渦中で労働者の「権利」など振りかざしてはいられない。
接種の場所は保健所が割り当て、夫の場合はわが家から車で45分の町の見本市会場だった。一緒に行くか、と訊かれて「うん」と答えたのは、その町からの帰途に大きなスーパーがあるのでそこで買い物をしたかったからだ。
さて、早めに着いたら、約束の時間の15分前までは入れないとのことで、それまで外で待たされた。空は晴れわたっているがマイナス4度である。自宅の辺りはマイナス8度だったので、その倍の暖かさだぞ、と夫はジョークを言う。みんなドイツの高齢者だけあって、きちんとルールを守り1.5メートルの距離を置いて並ぶ。
しかし接種を受けるのは80歳以上の人ばかりだから、一人で来ている高齢者はいない。みんな娘・息子かヘルパーかに付き添われている。そして車椅子の人も多く、また押し車を使っている人、杖をついている人が大半で、一人でスイスイと歩いているのはわが夫くらいのものだ。
それでも入口で「付き添いです」というと、一緒に入れてくれた。そのとき気づいたが、入り口の案内役は難民申請して許可されたと思われる若者が多かった。移民ならドイツ生まれか、またはこの国での生活が長いので、もっと流暢なドイツ語を話す。しかし褐色の肌の若者たちは「予約はしましたか」「何時ですか」「もう少し待って下さい」など初歩のドイツ語しかできない。それでも働いてくれるだけで、今回のように人海戦術が求められるときには大助かりである。
中は見本市会場とあって、空港並みに大きくゆったりしている。これなら十分な距離が取れる。ずらりとボックスが並び、何番に入って下さい、と案内係がいう。パソコンから印字した予約書や身分証明書などを見せて、そこを出ると目の前にまたもボックスの列。今度の担当者は医師で、既往症や飲んでいる薬を尋ねる。ワクチン接種パスポートは持っていますか、との質問に何のことかと思っていると、夫は黄色い保険証のようなものを取りだした。前回彼がそれを使ったのは90年代で、ジフテリアが流行した時期だという。一説には、ソ連から帰還した人達がこの疫病を持ち込んだと言われる。
私が夫に同伴したのは、一つにはいずれ自分の番が来るのでその流れを知っておきたかったからである。そんなパスポート、私もってないわ、と言ったら、それはそれで事情を説明するさ、とのことだった。
そこを出るとまたもやボックス。今度こそ接種を受けられるらしい。一緒に入るべきかどうか迷っていると、助手らしき女性が「お若いご婦人もどうぞ」と言った。英語で言うならヤングレディである。これを男が言ったら完全に嫌味で差別とも取られかねないが、相手は同性だし、第一こっちはマスクをして帽子被って眼鏡をかけて、ヤングもオールドもない。
左腕に注射するのに、セーターもシャツも脱いで下着一枚にならねばならない。これも今回来ておいてよかった。自分のときには洒落た下着でこよう。
終わるとすぐ帰れるわけでなく、30分待つように言われた。その間にショックや副作用が出ないことを確認するのだそうだ。二回目は3週間後だという。
帰途は、あまりに天気がよくて景色も美しいので、ドイツ版「道の駅」のような所によってパンとケーキを買い、カフェは閉鎖だが飲み物のテイクアウトならあったので車の中で菓子パンを食べながらカプチーノを飲んだ。前には冬枯れの葡萄畑の丘、後ろには雪の残る森が広がって、「ドイツに戻って初めてのイベントだわ」と笑った。
へーそうなんだ、あー面白かった、ありがとうございました 現場にいる臨場感までつたわってきましたよ、楽しかった…ていうかお疲れ様でした。ご報告楽しみです。