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執筆者の写真クレマチス

ミニジョッブ(小さな仕事)――ドイツの黒い森から 22(びすこ)

今回の話は、潜在的な誤解を解く目的もある。私のブログにはマリアさんともう一人「管理人(ドイツ語でハウスマイスター)」のことが出てくるので、知らない人は自宅の家事にそういう人達を使っているなんて、ブルジョワっぽいと思われるかもしれない。実際、それを誤解して自慢げに話した馬鹿な母に嫉妬した叔母から、「結構なご身分でございますこと」としっかり嫌味を言われた。


ドイツ人と結婚することになったとき、私はそれまで猛烈社員並みに働き 2DK のマンション暮らしで掃除も料理も手抜きの生活だったので、家事はロクにできないことを正直に(だが偉そうに)告げた。すると、自宅にはもう 20 年近く掃除・洗濯に通ってくれている女性がいるから大丈夫だという。料理はときどき外食すればいいとのことだった。

掃除に関しては、欧州では家に土足で入るため床をモップか何かで拭かねばならないことは知っていて、これは大変だなと思っていたからほっとした。夫と同い年のこの婦人は当初階下の事務所の掃除に来てくれていたのだが、彼女が働き者かつ正直で良心的なので、夫が独りになる前から下の掃除には別の女性を雇い、このマリアさんには主に家政婦のような仕事を頼むようになった。

もう一つ、洗濯に関しては機械があるからと私は深く考えていなかったのだが、夫は事務所でワイシャツ・スーツを着て働く人でなくかなりの時間を工場で過ごすため、衣服の汚れがひどくてシャツは毎日、ズボンも数日に一度は洗わねばならない。しかも大男なので下着だけでも相当の量になる。それはいいとしてシャツとズボンのアイロン掛けが大仕事である。

マリアさんのアイロン掛けの腕はプロ並みで、この人が長患いをしたらどうしようと私は心配することがあるが(クリーニング屋は少し遠く、毎日着る物を全部頼むわけにはいかない)、幸い 81 歳の今まで病気というものをほとんどしたことがない。


今もすこぶる健康だがやはり年齢のことはあって、掃除・洗濯の他に屋上の庭の手入れなども喜んでしてくれていたのがちょっと厳しくなったようだ。一日の仕事は、手際がいいこともあり 2,3 時間で終えられるが、いや、それよりもお孫さんの世話にもっと時間を割きたいらしい。

娘さんの方の孫は今ではもう成人して働いているが、息子さんは結婚が遅く、やっと生まれた男の子は障害を抱えていた。いわゆるダウン症のその子がとても愛くるしく、マリアさんは赤ん坊のときから暇さえあれば面倒を見ていて、息子夫婦が共働きのためもありマルセル君は「オマ(おばあちゃん)」なしでは暮らせない。

庭の方はガーデンセンターの人に時々来てもらえばいいので、週に 3 日、場合によっては 4日通ってもらうことにして、彼女の自由時間はぐっと増えた。

就労時間を減らしたのはもう一つの理由があって、65 歳を越えて年金受給者になったのだが、今まで通りの賃金をもらうと年金が減らされるのである。それまでは一部事務所の整理・清掃なども手伝っていたので「給料」という名目だったが、配偶者の年金(数年後には遺族年金)もあるから長時間働く必要はなく、孫たちのためにちょっと余裕が欲しい程度らしかった。


それでドイツ独特のミニジョッブ制度を利用することにした。これによると税引き後の 450 ユーロ( 55,000~60,000 円)を限度として、年金生活者が働いても受給額が減らされることはない。マリアさんの就労時間は月に 30 時間程度になったので、時給は 15 ユーロ、約1,900 円と悪くはない。

さてこれで、私が最も苦手とするアイロン掛けはずっと続けてもらうことができ、もう一つの難題であるモップでの床掃除も洗濯機・乾燥機が回っている間に済ませてくれて、私の半人前主婦の暮らしに支障はなかった。

ということは料理を別にすれば、夫は私なしでも普通に暮らせるということである。だからこれまで自分の病気や母親の入院・施設入りなどで一か月以上ドイツを留守にすることがあっても、あまり不自由はなかった。顧客や同業者の訪問も多く接待で食事をすることもあり、黒パンとチーズと果物でしのぐ夕食、いわゆるサパーは、むしろ体に良いなどと言う。

ところが一昨年の暮れに私が日本で手術を受け、それは 2 泊 3 日で痛みも不便もなかったのだけれど、術後の治療でしばらく夫を独りにしなければならなくなった際には事情が違った。医師からもうこれからは薬があればいいので通院はしなくていいと言われたとき、さっさとドイツに戻っていればよかったものを、せっかくだからと久しぶりの日本の暮らしを楽しんでいるうちにコロナ騒ぎで航空便すらなくなってしまった。


しかし夫は、そのことには失望しつつも、私がいなくてちょうどいい機会だと居間の床を張り替えさせることにした。寄木の床はさほど古いわけではないが窓際・壁際に設置してある暖房装置のため、その湿気と温度で周囲の木が腐りかけている。居間はかなり広く(何しろ元は倉庫だったから)誰も弾かないピアノなどもあり、家具調度類を運びだすのが大変だろうと訊くと「なに、マリオと他の社員も手伝ってくれるから問題ないよ」と言う。まあ私がいたところで、テーブルの上を整理するくらいが関の山ではあるが。

それで夫はしばらくの間は普段あまり使ってない屋上のサンルームを居間代わりにして電話もラジオもそこに設置し、春から夏にかけて快適に暮らしていたようである。そして、ほらサンルームもこんなにきれいになったよ、と送ってきた写真を見ると、壁の一部を薄緑に塗り替えたりして結構お洒落になっている。その外の庭にも、それまでにはなかったプランターが並んで赤やオレンジの花が咲いているではないか。

マリアさんにはそこまで時間はないし、壁を塗り替えることも無理なので、訝しく思っていると、全部マリオ・Mがやってくれたというので驚いた。


ここでマリオさんの話に移ると、彼はもともと旧東独の人だったが、ベルリンの壁が崩壊して数年後、そこでは将来が不安だというので新婚の奥さんと一緒にシュバルツバルトにやってきた。夫の会社で働き始めたのは、私が結婚する 10 年も前のことでまだ 20 代半ばだった。

旧東独とそこの出身者の話をすると別のブログが必要になるくらい話題はあるのだが、それはまたの機会に譲って、とにかく東独出身者としてはかなり順調に「西側」の働き方に馴染み、そこで二人の子供も生まれた。

東独の家庭のあり方や働き方は当時の西ドイツとは大きく違っていて、労働力不足もあり女性が働くのは当たり前、専業主婦など 1 %にも満たなかったそうで、そのため子供は生まれるとすぐ朝から晩まで託児所に預けられる。

幼い頃からの集団での画一的な養育・教育のせいか、大人になった彼らには一般に情緒が不足しているようで、また家庭での躾けなどというとこれも「ブルジョワジーの悪しき幻想」とされ、東から西にやって来た人達はどうも礼儀知らずに見えることが多かった。

このマリオさんも、私が会った当初は(といっても西に来て 10 年近くたっていたが)かなり不愛想だった。しかしそのうち社員の中に東独出身者が増えていき、それも今はかなり重要な任務を任されている。コロナの最中に勤務 37 年の工場長が定年で辞めたとき、その後継者となったのは現在のケムニッツ、ドイツ再統一まではカール・マルクス市と呼ばれていた町の出身者だし、品質管理の責任者は、これも東部ザクセンにあって鉱業分野ではドイツ最古の名門大学の卒業生である。

そして私がドイツに来た当時はまだこの地でも見られた、西側の人々の旧東独出身者への差別めいたものも現在はほとんどない。


さてそれでマリオさんの件だが、彼は機械工として工場の設備の維持管理を担当し、同じ部署の仲間ともうまく付き合っていたのだが、10 年近く前に心臓に欠陥があることが判明した。心臓に穴があいているというのである。当初シュバルツバルトの総合病院で診てもらったのだが、どうも問題も治療法もはっきりしない。

心臓の病気なら夫も(その姉・兄も)40 代後半から抱えていて、幸い郷里の医師が非常に優秀で D 家の一族は全員が 80 を越えるまで元気でいる。それで夫は「そんな社会主義の典型みたいな病院に行ったってロクなことはない」とマリオさんに自分の主治医を紹介し、一般の労働者が加入する保険制度では高度の医療は受けられないことから、治療費は会社が全額負担することにした。

幸い病は全快とはいかぬまでもかなり軽度になり、以前と同様にしっかり働いていた。ところがしばらくしてまた具合が悪くなった彼が病院に行ったところ、MS (多発性硬化症 multiple sclerosis ) と診断された。さあ、これには夫も頭を抱えた。

聞くところによると、MSは欧州の、それもなぜか緯度の高い地域に多く、日本を含むアジアやアフリカには少ない。ドイツと日本では 10:1 くらいの差がある。効果的な治療法というのは見つかっておらず、再発と緩解を繰り返すそうで、とにかく難病なのだ。

夫は医師である姉や自分の主治医などに問い合わせ、現時点で可能な治療を全て受けさせることにした。だがマリオさんはこれまでのようには働けなくなった。それでも軽い業務ならということでパートのようにして出勤していたのだが、次に病気が悪化するフェーズに入ったとき、もはやこれまでと思ったのか退職を申し出た。半病人で給料をもらうことに遠慮があったのかもしれない。


そのときには彼も 50 歳を過ぎていて、病気での退職となると早期に年金ももらえ、また奥さんも働いているので、生活に困ることはない。何よりも中途半端に仕事をしているとストレスも貯まるようなので夫も承諾し、その代わりといっては何だが、他所で安く使われていた奥さんを品質管理室のアシスタントに雇うことにした。自宅で過ごすマリオさんのために、彼女が長く家を空けることがないよう勤務は 7 時半から 13 時半とした。

そうしてしばらくの間は落ちついていたのであるが、マリオさんもずっと自宅で療養というのは退屈で仕方がなくなったらしい。調子の悪いときはいいが(いや、よくないが、自宅にいるのも仕方ないと思える)、元気になると時間を持て余す。もともと働き者だからそれには耐えられないようで、無報酬でいいから手伝えることはないかと訊いてきた。

そこへコロナ蔓延と私の留守と居間の改修が重なり、ならば週に何度か来て家のことをやってくれないかと夫は頼んだ。マリオさんは喜んで飛んできて、それからは家中を点検してまわり、我が家に放置されている絵や写真を掛ける場所を選んでくれたり、調子の悪いシャワーを直してくれたり、新しく棚を取り付けたりしてくれた。

サンルームに電話の設置をしてくれたのも彼である。花を植えるのは最初不慣れだったが、それもだんだん面白くなってきたらしい。それだけ仕事をしているのに無報酬というわけにはいかないので、これも年金との兼ね合いで「ミニジョッブ」ということにした。だから彼も月 450 ユーロで毎日 2,3 時間仕事をしてくれる。

もっと短時間でもいいし、毎日でなくても、と言うのだが、定期的に治療を受けていてそれが透析並みにきついので前後の日も休むため、できる日には頑張ろう、という意向のようである。今どきのドイツ人には珍しい律儀さといえる。


ところで私もミニジョッブの報酬をもらっていて、それがなぜか 400 ユーロなので私はずっと文句を言っている。以前には給料だったが、これは私の健康保険と年金保険を考えて夫が私を社員にしていたためで、年金をもらっている今は(こちらでは 5 年以上掛けるともらえる)別に給料でなくていい。

ただ健康保険は治療レベルが低い一般のですら現在のドイツ年金の半分以上を請求されるので、夫が「ちょっとは足しになるだろう」とミニジョブ就労者にしてくれたが、いえ、実際日本・台湾の同業者との情報交換には貢献しているので、賃金泥棒ではございません。

だけど、私だけなぜ 450 ユーロでなく 400 ユーロなのか納得できず、時々賃上げを要求するのだが、いつも笑って取りあってくれないので腹を立てている。



添付の絵は、年金受給者向けのミニジョッブ広告。

こんな仕事がありますよ、ということで、1. 料理などの家事、2. 子供の世話、3. 老人の話し相手や朗読、4. 動物の世話、5. 庭の手入れ

これらは年金受給者でなくても、収入が低くて副業が欲しい人も従事できます。

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