今回のブログはドイツ東部への旅行記なのでこういう題になった。ドイツ東部というのは旧東独、かつての正式名はドイツ民主主義人民共和国(Deutsche Demokratische Republik-通称DDR)で、1990 年の東西ドイツ再統一によりこのソ連の衛星国は西ドイツに吸収され、自治体再編成で首都ベルリンを含む 6 つの州から構成されることになった。
この 9 月の第 2 の週末に夫と従業員のM氏と私の 3 人で出かけたのは、その中で地理的にも西側に近く統一後に経済・産業がもっとも早く発展したザクセン州である。ザクセンは戦前に既にドイツ有数の豊かな地域で、現在経済力ナンバーワンのバイエルン州なども当時はザクセンを手本として若者を修業に出すことが多かった。エルベ河畔の州都のドレスデンは観光地としても知られ、日本人にも人気がある。
しかし私たち 3 人の行き先はドレスデンではなく、それよりもやや手前のケムニッツという町であった。ケムニッツは旧東独時代にはカール・マルクス市と呼ばれただけあって、華やかさや潤いとは無縁の町である。それだけに昔から製造業は盛んでDDRの経済を大きく支えてきた。
その産業も統一後の資本主義化に馴染めず、ここ 20 年ほどの間に企業の倒産や閉鎖が相次いだ。夫が 2012 年頃からこのケムニッツに年に 1, 2 回の割合でしばらく通うようになったのは、ここの同業者の業績が甚だしく悪化して、知り合いを通じ、再建の可能性と必要な施策について同じ業界の人間として助言してほしいと頼まれたからだった。
再建も何もそこの経営陣が考えていたのは政府からの助成金・救済金のことのみで、それも救済になるならいいが実際は破産した後の経営陣の身の保障にできるだけ多くの税金を使わせることが狙いだった。といって彼らも黙って倒産を待つわけにはいかず、一応再建の努力はしています、というアリバイ造りの一環としてウチの人好し亭主が使われたわけだ。そのことは単純な亭主にもすぐ分かったが、東独の人達のけったいな経営手法や企業精神(の欠如)について知ることは面白かったらしく、自費で何年か通い続けた。
結局そこが潰れるべくして潰れてしまった後もケムニッツに旅することが何度かあったのは、それまでの出張で仕事のあとよく訪ねたエルツ山地への愛着の所以である。チェコに接したこの地方ではかつて銀の採掘が盛んであったが、それが工業の近代化で衰退していったとき、人々は木材を使った玩具の生産に取り組んだ。そしていくつかの村で作られる木製の装飾品やおもちゃはその丁寧な仕事ぶりと創造性が評価されるようになって、戦前のドイツのクリスマスシーズンには欠かせない贈答品になっていた。
ドイツ東部がソ連の支配下に置かれて後もこの地の手工業は政府に守られたが、それはザイフェンやグリューネハイニヘンなどの村の愛らしい人形、ピラミーデと呼ばれるクリスマス飾り、その他の木工品がドイツのみならず欧州各国で人気を博したためで、魅力ある輸出品に乏しいDDRでは貴重だったからだ。この辺の事情は、昨年 6 月にKBCのブログ(コロナでスター誕生―ドイツの黒い森から 13 )に書いた通りである。
夫はケムニッツのホテルに飾られた玩具を見て、幼い頃は母子家庭の貧しさから到底叶わなかった夢の品が目前にあり、それらの産地が遠くないことに興奮してすぐエルツ山地に車を走らせた。
以来この地の職人や業者と懇意になって、年末に自ら訪ねる時間がないときには電話やメールで小さな人形なら数十個を注文し、これらは親戚・友人のみならず社員の一部にもプレゼントされる。
それが今年、クリスマスには早すぎる時期にザクセン州に赴いたのは、ドイツでは名を知られた会社の「ハンス・クンターブント」の人形(写真 1 )を買うためだった。1926 年の童話に因むというこの人形ハンスは御覧のようにフルート吹きである。
私の住む町では毎年 9 月の後半にウィーン・シンフォニカのバロック・アンサンブル・グループによるコンサートが町の教会で催される。昨年・一昨年はコロナで中止となり、3 年ぶりに開かれる今年のコンサートは団員の中で夫が特に親しくしていた女性のフルート奏者にとって最後になるという。今後も音楽アカデミーで教鞭はとるが聴衆を前にした演奏はもうやらない、というので、夫は彼女への記念品としてハンス・クンターブントの人形の最大版を贈ることにした。小さなものなら既に何個か買っているが、このたびは幅 75 センチのを選んだ。
それで早速注文したところ、この人形はその造りから扱いに注意を要し、ドイツ郵便に輸送を頼むと到着までに破損する可能性が大だから、いや、壊れなかったら不思議だから、取りに来てもらうしかないという。ドイツ郵便がほぼあらゆる点で当てにならないことは今や周知の事実なのでこれには驚かなかったが、さて、それなら夫は片道 6 時間かけて出かけねばならない。
以前はさほど気にしなかったが、彼が四捨五入して 80 歳になる頃から私は 1 日に 3 時間を越える運転を禁じている。耳も遠くなっているし白内障気味で道路標識も私が読まねばならないことがある。何より加齢で集中力が衰え、3 時間以上運転するとその夜は疲労困憊なのだ。
そこで夫はわが家と工場周辺の庭で「管理人」として働いているMさんに代わりに行ってくれないかと頼んだ。マリオ・Mさんについては、これもKBCブログで昨年 9 月に述べたごとくで(ミニジョッブ〈小さな仕事〉―ドイツの黒い森から22)、病持ちだが普段は元気にしており未だ 56 歳だから 1 日 6 時間の運転は無理ではない。現にこの夏も、片道 6 時間を要する南チロルで休暇を過ごした(一部奥さんに運転を代わってもらったらしいが)。
しかし一人で行かせることには私は反対だった。夫は彼にケムニッツのホテルに二泊してもらうから行きの運転の疲れは翌日にはとれると考えていて、帰宅した翌日はわが家での仕事はしなくてもいいという。それに夫をいつも丁寧に遇してくれるホテルは 4 つ星で部屋も広くてきれいだし、食事も良いから、人形を引き取る以外はのんびり過ごせばよい、との意見である。
これが南チロルかスイスの湖水地方であれば確かにそうかもしれないが、行先は旧カール・マルクス市である。そんなところへ長時間運転して注文の品を取りに行って楽しいはずがない。それで夫が奥さんにも 1 日休暇をあげるから一緒にいけば、と勧めたら、いや、彼女は行きたくないそうです、というので、ほら、やっぱり、と私は反応した。
Mさん夫妻は旧東独の出身である。抑圧と閉塞感に耐えて青春を過ごし、独身者には住む場所も与えられないので 22 歳で早々に結婚して狭い 1 Kのアパートで暮らし、89 年にベルリンの壁が崩壊するやいなやまず 1 人で東を脱出した。翌年の正式な東西ドイツ統一まで待てなかったという。そして夫の会社への就職を決めて自宅に戻り、今度は妻子(すでに長男が生まれていた)を連れて西に移ってきた。
夫妻にとって東独は懐かしい故郷などではなく、その中でかなり出来のよいザクセン州と雖も「できればもう見たくない」場所なのである。ましてカール・マルクス市など。そのことを私はMさん夫婦との世間話の中で感じ取っていた。だからそこへ一人で行くというのは、いくらホテルが高級でも食事が贅沢でも、できれば断りたかったろう。
しかしMさんはこれまでの病気の治療や奥さんの仕事のことで夫に恩義を感じていて、ノーとは言えない。民主主義とは真逆の独裁「ドイツ民主主義共和国」の出身なのに、日本人並みに義理堅いのである。私は鈍感な夫に腹を立て「そういう人であればなおのこと、ものを頼む時にはよく考えないと」と説教した。
故郷を忌むMさん夫妻は決して例外ではない。夫の会社で働く旧東独出身者は 10 人ほどいるが、休暇を故郷で過ごす人などおらず、みんな南のイタリアやスイス、近年はアドリア海沿岸のクロアチアの町でバカンスを楽しむ。家族がほとんど西に来てしまっている人もいるし、残った兄弟の葬式などに出かけても一泊がよいところだ。一般に家族同士疎遠なのも、親の情など知らずに育った人が多いせいではないか。
結局私の主張が通って、土曜日出発でMさんと夫が交代で運転し、翌日は近辺を観光して三日目の朝に人形を引き取り午後帰途につく、ということになった。観光と聞いて夫は「どこへ行くつもりだ」と呆れた口調だったが、私はMさんをマイセンに案内したかったのである。ここもケムニッツから 30 分と離れていない。
東独の人が東独の名所や名産品を知らないのは残念なことだ。東西ドイツ再統一の前には、マイセンにせよエルツ山地にせよ政府にとっては外貨稼ぎの品を製造する場所で、庶民の見学などあり得なかった。国民には他の町や村を見る機会など与えられず、そもそも移動自体が厳しく制限されていた。
Mさんが奥さんのマルティナと結婚したとき新婚旅行が許されたが、行先がアルメニアだったと聞いて私はびっくりし、なんでまたアルメニアなの、と訊くと、とにかく当時のソ連の支配下にある国でなければ旅行はできなかったのだという。まさかカザフスタンやベラルーシに新婚旅行というのも、とマルティナが言うのに笑ったが、DDRはそういう国だったのだ。
自由になった今、かつて東から来た人に今の東を知ってほしいと思う。私は日本人だが、夫の出張に同行するからバルト海沿岸の町にもドイツの臍と言われる真ん中のエアフルトにも旅したことがあり、上記の新 6 州のうち泊ったことのないのはブランデンブルク州だけである。だけどこの際、私の経験なんか意味がない。ドイツ人であるあなた方が行かなくちゃ、と私はMさんに言いたかった。
マイセンには現在、日本人や特に中国人をターゲットにした巨大なショップ兼ミュージアムがあり(写真 2 )、そこで陶磁器の製造工程を見せてくれるし、絵付けの作業も面白い。この絵付け師さんたちが描いた絵のカレンダーも店で売られていて、それを数年ぶりに入手することも今回の私のマイセン行きの予定に入っていた。
三百年余りの伝統を誇る世界第一級の陶磁器の並んだショップを出るときMさんは、いやあ、すごいね、楽しかったよ!と上気した顔で言い、それは決して社交辞令ではなかった。そのあと車でマイセンの丘にあるアルブレヒト城に上って重厚な中世の世界の再現を満喫し、エルベ川を見下ろす城のそばのカフェテラ・テラス(写真 3 )でコーヒーを飲みながらMさんは言った。「来年春にきっとまた来る、マルティナを連れて。」それで私の今回の旅の目的は果たされたわけである。
オルゴール。あの儚くも人恋しげな音が、耳の奥に響いています。日本の人にとって、庶民のレベルでもマイセンの人形はいつしか憧れになりましたが、マイセンにとって日本はもっと切実な存在で、伊万里や有田、なかでも柿右衛門は王の命令でそれと同等のものを西方の国で作らねばならなくなりました。インテ―ネットの記事に
「オランダが先鞭をつけた東インド会社設立に習い、西洋列強はこぞって東洋から香辛料、お茶といった新しい文化をヨーロッパへと持ち帰ります。もたらされた文化の中には中国・日本からの磁器もあり、とくに日本で作られた柿右衛門の白磁は美しさのあまり王侯貴族たちを虜にしたほどです。 ザクセン州を支配していた「強王」アウグスト2世はどうにか東洋白磁を再現せよと命を下し、錬金術士ベトガーにより1709年、ついに白く輝く「ヨーロッパ磁器の礎」が世に誕生したのでした。」
とあります。ベトガーは王の夢を実現するまでマイセンのアルブレヒト城を出ることを許されず、人との交流もなく、酒におぼれて37才で世を去りました。それを思うと、70歳を過ぎて子供の頃の夢を手にした夫は何と幸運な人でしょう。
マイセンではもう一つ感慨がありました。マルティナのためにちょっとしたおみやげを買ったのですが、大したものではなく、また形からして面倒なのに熟年の売り子さんがそれはそれは丁寧に包んでくれて、その手際に感激し、思わず「こういうことにかけては日本が世界一だと思っていたけど負けそう」と言ってその女性を笑わせてしまいました。何より、客を喜ばせるサービス精神とそのための訓練・努力など、現在のドイツでも珍しいのです。DDRが消えて32年後の新しい文化に乾杯したくなりました。
気持ちを合わせて引き継いでいく…日本のお株をとられたような感じですね、街も人形もその風景から伝統が醸す心地よさ、安心感が伝わって参りました、一緒に旅行した気分…なんか得した気分。 大開脚してフルートを吹く伸びやかな余裕の少年のパフォーマンス、照れながらも誇らしげな表情も好い。それをプレゼントに選んだ方のお気持ちは確実にお相手の方に届くでしょう。かつて自分が望んで得られなかったものを吟味して気持ちを届けるその行為に投影される心そのものが人形に乗り移って欲しい位です。 東独時代の苦い思い出を紡ぎ出して行く新しい思い出で上書きしていく…、、そしてそのお話はMさんのお連れあいも引き続き体験することになるのでしょ、、人に寄り添って丁寧に描いた絵は心の奥に響いてそれこそ本当のプレゼント🎁消える事はありませんね…とてもいい気持ちですありがとうございました。
写真は一昨日立石図書館リサイクルコーナーで500円で買った高さ30センチに満たない小箱です。上の小さなケースに納まったマイセン人形に似た男女がケースの後ろにあるオルゴールのネジを回すと、青きドナウの曲に合わせてくるくる踊ります、メイドインジャパンと書いてありました、おそらく輸出用にも作られただろうと思います。こんな小さな小箱にもきっとたくさんの物語が詰まっていると思うとこれまた愉快です😌