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執筆者の写真クレマチス

ドイツの政治家・今昔――ドイツの黒い森から 37(びすこ)

題だけでも分かるように、今回のブログ、おそらくいつもにまして面白くありません。そもそも主題がドイツの政治家なんですから。ドイツという、経済力では世界 4 位ではあるが楽しさや面白さ(英語でいう fun )とは余り縁が無さそうな国、生真面目でユーモアに乏しく、物質的にこと足りていても気持ちに余裕が見られない社会、洗練を欠く国民―それらを統治する政治家となれば、傍から見ても心弾まぬ存在なのは当然。

そういうドイツ人の特性に私が気づいたのは結婚直前だった。婚約中だったから、60 代のオジンと 50 代のオバンでも若い人並みに頻繁に電話で雑談する。そのとき相手は、今日はどんな天気かね、と訊く代わりに、今日の温度は何度かと尋ねる。体調はどうだい、と質問する代わりに、体重の増減を問う。

相手が技術畑の人ということもあるが、さすが製造業の国、数値でいろんなことを判断するらしいと察した。だから精度に優れた機械や頑丈な車が造れるのだろう。となると機能は抜群だが、ドイツの三大だか四大だかの自動車メーカーがその外観のために雇っているのはほとんどがイタリアのデザイナーである。つまりドイツ人自身が美的センスの不足を自ら認めており、理屈抜きの「印象」や何となくの「塩梅」「加減」となるとお手上げらしい。ドイツのファッション・デザイナーもいないではないけれど、日本人から見ると(多分ドイツ人から見ても)冴えないし、インテリアなども「住」を重視する国だから結構凝るものの、凝った結果はコスパが低い。


だいぶ前に田舎の家の台所を改装することになり、今住んでいる地域で評判の厨房専門の大工に来てもらった。最後の方で調理台に石を敷くとき(うちの頑固親父はホンマもんの石でないと承知しない)、自分の工房で実物を見てくれと言い、そこを訪ねると実際の石のほかに分厚い見本を何冊か持ってきて、この中から選んでほしいという。それで足りないなら、別の見本も採り寄せる、とのことだった。

私は工房に並ぶ石板をさっと見て、「これ」と示した。大工さんは驚いて、いや、もっと時間をかけてゆっくり選んでいいんですよ、今日でなくても、と言う。時間をかける必要なんかない、これだとニュートラル(中立的)で目立たず、といって地味過ぎず、十分です、と答えたら、長く仕事をしているがこんなに早く決めてもらったのは初めてだと呆れた口調である。ウチのちょっと前に注文があった家では奥さんが 4, 5 日通ってきて、ああでもない、こうでもない、これにしようか、いや、やっぱりやめた、と繰り返して漸く決まったという。

ではさぞ素晴らしいキッチンが、と訊いたら笑って、いや、そこまで時間をかける必要があったのかなあ、と思うような・・・とのことであった。ボスニアからの移民であるこの職人さんは、「それより何より、料理するとせっかくの台所が汚れると言って、使っているのは電子レンジとコーヒーメーカーだけなんです」と肩をすくめた。この「台所が汚れる」というのも、ドイツ人らしい。整理整頓は大好き、掃除も熱心、でも料理は嫌い。いやケーキ作りならわりと熱心。というのは、小麦粉○○グラム、卵何個、ミルク△△cc、とレシピの数字を忠実に守って捏ねてオーブンに放り込めば、1 時間~ 1 時間半でケーキが焼ける。工業生産に近い。その一方でお惣菜なんてものを作るのは、もう大変な苦痛らしい。

こんな調子だからインテリアも冴えない。我が家も同様である(ちょうど言い訳の機会ができてよかった)。というのは、買うのは亭主が金を出し、堅牢を旨とするのはいいとして、新たに購入したものがそれまでの家具に合わず色調もチグハグになる。絨毯とも調和しない。ヘンに持ちのいい物ばかりだから買い替えるのはもったいない。加えて、ここ 3 年ほど家の管理人を引き受けてくれている男性がドイツ人なので、「風雅」からは遠い。私はこの二人と争っても無意味と判断して彼らのやりたいようにやらせている。(その代わりと言っては何だが、日本の家はチープでも何でも 100 % 自分の好きなようにして、それがまあ憂さ晴らしである。)


あれ、政治家の話をするつもりが冒頭からすっかり脱線してしまった。

要するに、こういう国の政治家なので当然面白くないのだが、一方でその妙な真面目さやゆとりの無さは格好のジョークの種になる。日本の苔むした政界の巣にいる古狸と違い、立派に聞こえるがどこか的外れの理論をこねくり回すのもおかしい。本人たちは笑わないが、国民は彼らを笑うことができる。

ところで私は今回ドイツの政治家について語るにあたって、まず何と言っても歴代首相を血祭りに上げようと思い、戦後の、ドイツでいうところの「宰相」の数を確認した。いや、確認するまでもない。たった 7 人なのだから。

このブログの題には「今昔」とあるが、昔といっても百年や二百年前の政治家では私自身がその実像をまるで知らないので話にならない。戦後であれば最初の首相から耳に馴染んでいる。1949 年にドイツ連邦共和国が誕生してから 73 年になるが(その前は連合軍の占領下)、10 年一昔というなら七昔以上だから、現首相ショルツやこの間まで政府の首長であったメルケルおばさんなどに比べれば、初代のアデナウアーなど昔々の人である。

これでようやく政治家の話ができるが、その前に添付の図をとくとご覧いただきたい。

( 2017 年のもので少し古い。)

黒はキリスト教民主連合(以下 CDU )、中道右派とされるこの党は終戦後間もなく 1945年に誕生した。赤は中道左派の社会民主党( SPD )でその歴史はライバルの CDU など足元に及ばぬほど古く発足は 1863 年、しかし古いだけに何度もオーバーホールや再建を余儀なくされ、今の姿になったのは戦後である。

黄色は自由民主党( FDP )、中道右派を自認しているが、そしてかつては企業家やブルジョワ層の支持を得ていたが、近年は君子でもないくせに与党の仲間入りのためならいつでも豹変という無節操があらわである。緑は言わずとしれた緑の党、1980 年の創立で革新・進歩を旨とし、若者受けのする青臭い (緑の) 主張をしてきたものの、この党も地方・中央で連立相手になったとたんに意外に現実重視に転じている。

黄色のFDPも緑の党も、単独与党となるのはもちろん、与党第一党というのもこれまでのところは不可能で、赤または黒にくっついて連立政権の片割れとなるのが常であった。だから主役はいつも赤または黒である。ただ、票数の関係で(近年はどちらの票も減っているので)この二つが連立を組まねばならないことも過去には何度かあり、その場合は大連立と呼ばれたりした。

赤・黒・黄・緑の説明はこれだけにして、一目で分かるように黒の時代の方が赤のそれよりもだいぶ長い。これまでの政治においては、最初のアデナウアー内閣以降、黒が与党の場合にはいずれも 16 年~ 20 年という長期政権になった。

アデナウアーという名を子供の頃に既に知っていたのは、当時はテレビもなく新聞をまともに読むには幼過ぎたが、映画を見にいくと(よく父親に付いて行った)最初に世界のニュースが上映されてそのときにアイゼンハワーやフルシチョフと並んでこの人の名が出てきたからである。

1876 年生まれのアデナウアーが戦後最初の首相になったのは彼が 73 歳のときで、その頃の 70 代はふつうヨボヨボ老人だったが、当時のドイツはいわば異常事態下にあって、若者の青雲の志で何とかなるような状況ではなかった。アデナウアーは戦前に既に政治家としての経験があったのみか、大戦中はヒトラーに抵抗して収容所にも入っているから、新生ドイツを率いる資格は十分だった。

しかしこの人が今日でも多くのドイツ国民から尊敬されているのは、戦後処理の中でソ連軍に抑留されたドイツ人捕虜を全員連れ帰った功績による。ソ連での戦争捕虜は日本と同様 1950 年頃には大部分が帰国を許されていたが、最後の千人ほどがまだシベリアに留まっていた。アデナウアーは彼らを取り戻すためにロシアに向かい、最後の一人が帰国するまでは自分もドイツに戻らないと宣言し、粘り強く交渉を重ねて約束通り全ての生存者を帰還させた。写真は帰国が叶った兵士の母親に感謝の接吻をされているアデナウアーであるが、もともと不愛想な人なので当惑している表情が今日から見るとむしろ新鮮である。今どきの政治家なら喜色満面でカメラに向かい「どんなもんだ」とアピールしたであろう。

こうして広く国民の信頼を勝ち得た戦後最初の首相ではあったが、政権が長引くにつれてご多聞に漏れず様々の弊害が表面化し、これだけ聡明に思えた人物でさえ権力への執着を絶てず、最後の 2, 3 年には党内からの非難もあって別の人間を首相の座に据えざるを得なかった。(上にドイツの戦後の首相は 7 人と言ったが、実はアデナウアー政権末期のリリーフとその後の一人とを加えると 9 人になる。)それでも党首の座は譲らず妄執に憑りつかれたごとき最晩年で、90 歳でようやく引退し、そこで力尽きたかのように翌年に亡くなった。まさにダイ・ハードの政治家であった。


戦後の首相の数が 9 人というのが世界でどれほど珍しいかは、まず日本と比較すれば明らかである。1949 年といえば日本では吉田茂の時代だったが、それから今日の岸田文雄氏まで 33, 4 人もの政治家が首相職に就いている。ドイツと日本は両極端でアメリカや英国はその中間だが、アメリカでは大統領の任期は 8 年を超えることはできないので 70 余年間に8, 9 人ということはあり得ない。

ドイツ連邦共和国の創設以来 20 年に及ぶ CDU 政権支配の後、1969 年にようやくドイツ最古の政党 SPD が政権を握った。選ばれた首相はヴィリー・ブラント、この人なら私より一回り以上若い世代も知っているだろう。東方外交の推進で知られ、東独及び東欧諸国との「雪解け」を実現したというのでノーベル平和賞を受賞しており、多分それだけで、外交の内容はどうでもいい日本のマスコミからも大いに称賛された。

当時新聞の紙面を飾ったニュースに、ワルシャワのゲットーの跡地を訪れた彼が跪いて献花しナチス・ドイツの罪を懺悔する姿があって、これは国外で特にセンセーションとなり、それが翌年のノーベル賞にもつながったのだろうが、ドイツ内では当初このブラントのジェスチャーは批判的に受け取られた。私などでも当時は(今も)どうしてこんな芝居がかった真似を、と不快に思ったのだから、ドイツ人の多くが否定的に捉えたのは無理もない。

ブラントはある意味悲劇の政治家だった。私生児であったことは彼の少年時代には大変なスキャンダルで、政敵アデナウアーがそれを攻撃材料にしたというのはひどい話だが、これも当時の風潮を考慮すると今の人道主義や平等主義をそのまま当てはめることはできない。不幸だったのは、その生まれ・育ちのせいもあろうが内向的で精神的に脆かったことで、そういう性格の人が政治家になること自体に無理があった。

学業は優秀だったというし、若い頃には理想に燃えていたのだろうが、困ったことに彼には酒と女という大敵がいた。三度の結婚のあとも愛人問題を抱え、苦しくなると酒に手を出す。1974 年、2 期目を終える前に、彼の私設秘書が東独から送られてきたスパイであると判明して辞職を迫られる。このギヨームという男とその妻については、それまでにも脱北ならぬ脱東を装って西独でスパイとして暗躍する連中がいたので周りも警告したが、耳を貸さなかったのだから責任は重い。しかし実は当時のブラントはアル中と女性問題とで疲労困憊しており、退陣の口実ができてほっとしていたと言われる。


ブラントに代わって首相に指名され、その次の総選挙にも勝ったヘルムート・シュミットは先任者とは対照的に極めて良識的な人物だった。知性に優れ英語も流暢で交友関係にも恵まれたし、何と言っても時代がよかった。三木・福田・大平と例によって総理大臣がくるくる変わっても日本の政権は安定しており、英国ではサッチャーが、そしてやがてアメリカではレーガンが登場して、西側陣営は盤石のように見えた。

ドイツの政治家としては理想的に思えたのに、それが 1982 年の国政選挙ではヘルムート・コールに敗れて野に下り、キリスト教民主連合の時代が再来する。このコール内閣がまた長かった。熊のごとくに体もでかくて重厚というより鈍重という印象で、同じヘルムートでもスマートなシュミットに比べると才知もないというのが一般評で、それをからかういろんなジョークが残っている。だが政治家としての才覚なしに 16 年も居座ることはできない。

また幸運にもこの人のソ連の相方がゴルバチョフだったために、東西ドイツ再統一という歴史に残る出来事の主役になることができた。当時のドイツ政権の連立相手は自由民主党で、外務大臣だったゲンシャーも名を売った。

コールの栄光


しかし東西ドイツ再統一で東独を吸収したことはドイツ経済にとって予想もしなかった大負担となり、90 年代のドイツは不況と高失業に喘ぐことになる。そこに登場したのがゲアハルト・シュレーダーで「変革」を掲げて 1998 年の選挙に勝利した。大体長期政権の末期はそうなのだが、新しい風を望むというよりは、今の政権はもうたくさん、という「うんざり気分」が世論を支配する。

このシュレーダーは目下のロシア軍によるウクライナ侵攻で時の人となっており、SPD からも党の恥だから離党してくれという声が高まっているが、蛙の面に何とかのていである。問題は極端なロシアびいき( SPD の連中は大半がそうである)でロシアのガスに全面依存する政策を強行したばかりか、その見返りに大富豪並みの暮らしを手にした点が国民から嫌悪されている。この件については、先月ニューヨーク・タイムズに掲載された記事と、それに対するアメリカ人の反応が非常に面白いのだが、それに触れると長くなるので、この話題は次回にまわす。乞うご期待。

生まれ育ちを云々するのはとっくに時代遅れになっているし、何と言っても本人のせいではないことを責めるのはアンフェアというもの。しかしこの人も結局は私生児として辛酸をなめたその幼年期・少年期から自由になれず、その点では同情を誘いつつも、あまりの品格の無さに常識人からは総スカンである。

大先輩のブラントは酒と女で晩節を汚したが、シュレーダーの場合には女と金という大きなvice (悪習・悪癖) を抱えていて、女に関しては若い頃から折り紙付きの「不良」であった。(それがモダンだという支持者もいたが。)1998 年に首相となって SPD 重鎮のヘルムート・シュミットのところに挨拶に行ったとき、彼は 4 度目の結婚をしたばかりだった。シュミットは彼に「もっと嫁さんを大事にして安定した家庭を築かないとダメだよ。うちなんか結婚して 56 年、知り合ったときからだと 70 年になる」と説教したそうである。

その教えに従ったわけでもあるまいが、しばらくはおとなしくしていた。しかし政界引退から 13 年後の 2018 年、次は 25 歳下の韓国人と結婚してタブロイド紙を賑わした。彼女は韓国語・ドイツ語の通訳で既婚者だったのだが、立腹した当時の亭主に「シュレーダーと再婚するのでなければ離婚してやってもよい」と言われ、守るつもりのない約束をして後にソウルで訴えられた。

そのあたりの事情は当方の知ったこっちゃないが、カチンとくるのはこのキム女史と結婚したシュレーダーがその後さかんに日本と日本人の悪口を言い始めたことで、「亭主の好きな赤烏帽子」ならぬ「女房の嫌いな日本人」になってしまったのだった。


最後は 2005 年以降またしても 16 年の長期政権を維持したメルケルに触れるべきであろうが、あまり面白い話題のない人なので(自分で「石橋をたたいて渡らない性格」と言っている)、今回は一つだけ。

金や女や酒をも凌ぐ政治家の最大の悪癖は名誉欲であろう。しかしこれはアスリートがより早くより高くを目指すのに似て、名誉など要らないという政治家は見たことがない。だから必ずしも非難するには当たらないが、ものには限度があり、やり方にもルールがある。

名誉欲・自己顕示欲にかけてはメルケル女史は男顔負け(という言い方も男女差別になるが)で、難民問題に足を引っ張られ 16 年で終わった政権(本人は 20 年という記録を望んでいたもよう)では、とにかく世界に称賛されることが彼女の自己評価基準だった。CDU創始者のアデナウアーは戦争捕虜の救出でドイツのレジェンドとなり、同じ党でメルケルの育ての親とされたコールは東西ドイツ再統一の実現で歴史に名を残す人物となった。SPD のブラントなどはノーベル平和賞をもらっているではないか。米国のカーターだって、近年はオバマだって。私にも賞をもらう資格は十分にある。

2015 年の夏に彼女が中東からの難民を全員引き受けると言い出して、ドイツ中が、さらには欧州全体が、騒然となった時、これはノーベル賞狙いだと人々は噂した。その年の 10 月の発表の中に彼女の名前はなかった。

だけどそれで諦めるような人じゃない。見ていてごらん、自作自演で英雄になろうと画策している最中で、きっとまた何かとんでもないことをやらかすから。

閲覧数:50回8件のコメント

8 Comments


karen1434
karen1434
May 18, 2022

歴代の首相のこぼれ話大変面白く拝見しました。でも、なんで日本はドイツの4、5倍も早く首相が入れ替わるのでしょう?その程度の小粒な首相だったのでしょうか?外国から見て当てにならない国と写ってると思います。

酒や女に弱いとか悪いと悪い点はあっても、肝心の国を統率する仕事に関してしっかり出来てればいいのでは?と思いました。アメリカのクリントン大統領の女性スキャンダルの時もそう思いました。

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繁 大村
繁 大村
May 20, 2022
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あはは、ありがとうございます😊土俵は広い方が面白いですもんね😅

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hmdhonau
May 14, 2022

ノーベル平和賞って、初期はまともだったと思うのですよ。第一回のアンリ・デュナン(赤十字設立)とか、1926年のシュトレーゼマン(日本ではほとんど知られてないドイツ政治家〉など。それが1974年の佐藤栄作あたりから、なんや、あれ、という声が出るようになって…一番おかしいのは中東の政治家たちじゃないかと思う。1978年のメナハム・ベギンとサダト、1994年のアラファートとペレスともう一人など。この人達って、紛争を起こしたり煽ったりしておいて、それを鎮めたから平和賞って感じ。火をつけてから、それを消したら功労者になるんですか。第一、その平和とやらはいずれも4、5年しか持たない。すぐ元の木阿弥になって、争いが再発して、それを一時的に収めて、それでまた平和賞?


私、今のドイツ政治家の誰かが「ウクライナ戦争の鎮静化に貢献した」という理由で平和賞なんかもらったら、一人ででもベルリンでデモしたい。だってその紛争の種をしっかり蒔いたのは、党派を問わずドイツ政治家たち(ほぼ全員)ではありませんか。特に東西ドイツ再統一後の対ロシア策が火種になっている。


ノーベル賞って、死後の受賞はないのですね。だから誰かの行為が数十年後に実を結んでも、賞の対象にはならない。典型が欧州連合の母体である欧州石炭鉄鋼共同体を設立したロベール・シューマン。家系はドイツ領ロレーヌからで、生まれはルクセンブルク、ドイツ語で育ったので(だからドイツ読みでロベルト・シューマンが正しい)フランス語は苦手だったのを猛勉強して1940年代後半にフランスの首相兼外務大臣になり、国会で恐ろしく癖のある、多分へたっぴいな、演説でフランス人を説得し、熱意と迫力とで仏独の和解に始まる欧州の経済連合を創始した。で、その奮闘・献身が花開くころにはこの世にいませんでした。この人は生涯独身だったので(聖職者になりたかったとか)、今欧州で大流行の公私混同もネポティズムもなく、こういう人が無冠なのはおかしい、チョーおかしい。お侘びのしるしに、彼の名を冠した通りや公共設備はあちこちにあるようですが。

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繁 大村
繁 大村
May 19, 2022
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埋もれている話を…こうして全世界に表明してもらい、草葉の陰から感謝している人も必ずいると思います😢🙂

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繁 大村
繁 大村
May 13, 2022

資金力、知名度、後援会(鞄、看板、地盤)が日本の政治家に求められるとつい最近まで耳にしていた。そもそも政治家を志すとき、志や如何?権力を得て何をするか…メルケルさんが最終的に得たいものが功績と一般に見られますものね。名誉。マックス・ウェーバーの有名な著作ともなっている、学生たち向けの講演録、政治家と公務員というか官僚のスタートの志と妥協?について読むとどちらの場合も…経験を重ね自分が身を置いた環境の理解とともに初心に変更を迫られる事の次第がわかりやすく書かれていたように記憶しています。ぶっちゃけた話、夢も希望もそれぞれの環境の「圧力」による変形を受けるということらしい。現状認識の変更。 周りの評価はともかく本人の評価はどうだったのだろうと気になります。とりあえずは叩けば出るほこりを得られる何らかの名誉でカバーしたいのが人情? ノーベル平和賞は誰が見ても大きな勲章ですね。政治家を志した目標がそれで象徴されることがあってもおかしくない…か。ちょっと情けないような気もいたします、偉そう。 目をつぶっていきなり歴代のドイツの首相の名を挙げてみろと言われたら赤面するしかないぼく、もしくは、世間に迂闊な僕の仲間の評判なんか気にせず己の信じるところを大衆に問い支持を得て志を推進する、これが基本と思う僕はやっぱりあまちゃんです。 びすこさんの今回の記事、酒と女と名誉がらみでドイツのキモ鷲掴みですよ、おかげさまでドイツが少しだけ身近になります、日本人ならずとも読みたいだろうなぁと思います。続編楽しみですよろしくお願いします、ありがとうございます😊

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