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執筆者の写真クレマチス

コロナの柱――ドイツの黒い森から 28(びすこ)

ウィキを探しても国語辞典をめくっても、「コロナの柱」という言葉は見当たりません。これは「ペストの柱」からの私の造語なので、そのペストの柱なるものについてまず説明せねばならない。

こちらの柱はドイツ語(及びオランダ語やポーランド語)のウィキにはあり、ところが英語やフランス語はないことから分かるように、欧州でも一般に知られているわけではない。その理由は後述するとして、「ペストの柱」とは、簡単に言うと「猖獗を極めたペストが去ったのちに、そのことを神に感謝するために建立された記念碑」なのだそうだ。

ペストの歴史を調べればすぐ分かるが、紀元 6 世紀に始まり数百年続いた第一回のパンデミック以来中世・近世と、大規模な流行ならば三度経験しており、これらは近代のスペイン風邪などと違って 2 ,3 年で収まるような規模ではなかった。


中国、インド、および新大陸で広がった 19 世紀のペストは別として、欧州で猛威を振るった第二回のパンデミックなど 1331~ 1855 年までとあるから、500 年余りに渡って人々は切実な死の恐怖のもと息をこらして暮らさねばならなかったわけである。

その間に、人々はこれを人間の原罪やら悪業やらに対する天罰と見なしたり、ユダヤ人(ペスト罹患者が相対的に少なかった)の陰謀説を唱えたり、とにかく原因不明の大災禍であるから今日から見るととんでもない言説が流布し、迷信の類もそれで力を得て魔女狩りなどが頻繁になった。

ユダヤ人や魔女の濡れ衣を来せられた女には気の毒としかいいようがないが、それだけに、ペストが終息したときには罪ある人々が消えたためとみなされ、ただし 500 年の間には何度も波があって再三再四凝りもせず同じ愚行が繰り返されたわけである。


さてそのペストの終息を祝い神に感謝して町の真ん中に建立された「ペストの柱」であるが、私は欧州にいてこれを何度か見ているのに、当初は町の飾り程度にしか思わなかった。

初めてこの柱を見たのはリンツで、もう 14,5 年も前である。リンツの近くに夫の顧客企業があるので同行して、彼が仕事をしている間に町を歩いてまわった。ここは今では産業都市の色合いが濃く観光地としてはあまり知られていないが、ドナウ川沿いでオーストリアでも比較的暖かいせいか、ローマ時代の遺跡も残っている。(ドイツから出発するドナウ川の船旅ではここにも停泊する。)

以前「かちねっと」に参加して間もなくのころ、リンツに行ったことをブログに書いたら、クレマチスさんが「モーツァルトがリンツ交響曲を作曲した所ですね」とコメントを下さったので、へええ、ここにもかの天才との縁が、と意外だった。

調べたらモーツァルトがフランスかどこか西方に出張(?)した帰りに立ち寄って、そこで領主さまに演奏会を依頼されるが、手元に交響曲の譜面をもっていなかったので大慌てで数日のうちに新しい交響曲を作曲し、それがリンツ交響曲と呼ばれるようになったのだそうだ。


交響曲の件はさておき、今でも仔細に観れば城を改造した丘の上の博物館や旧市街の小路などそれなりの趣きのある町である。それで初めての旅で市中を散策していたとき、そこの広場の真ん中でソフトクリームのお化けのような物体に出くわし、何だろう、これは、と思ったが特に調べることはしなかった。

夫の顧客はオーストリアに多いので、リンツのみでなくウィーンも、そして Baden bei Wien と呼ばれるウィーン郊外のバーデンに宿泊することもある。オーストリア内ならバーデンで通用するが、一般に鉱泉のある保養地を意味する「バーデン」という地名はドイツにもスイスにもあるので、それらと区別する必要があるときには「ウィーンのそばのバーデン」と呼ばれるわけである。


さてそのバーデンをある年のカーニバルの時期に訪れた。例によって、夫と連れの社員とが仕事をしている間に私は旧市街にでかけ、そこでまずカフェに入った。広場を挟んで向こう側には立派な市庁舎があるが、ちょうどそこへの視線をさえぎるような形で例のソフトクリームの化け物が突っ立っている。

とにかく奇妙奇天烈なオブジェなのである。もくもくと白く高く盛り上がって白煙のようでもあるが、金色の飾りがそこここにくっついており、それがバナナかパイナップルを添えたようでアイスパフェと見えなくもない。

眼を凝らしてよく見ると、全体が白なので目立たないが聖人らしき像があちこちに配置され、聖書の物語に因むと思しき群像もあるし、ラテン語・ローマ数字を刻んだプレートが下の方に嵌められている。という事は、何か宗教的な意味を持つのだろう。

それも気になったが、カーニバルのちょうど「マルディグラ(太った火曜日)」に当たる日で派手に仮装して広場を歩きまわっている人が多く、早春の風が強いこともあって中空にカラフルな風船が浮遊しているのが愉快だ。私は「マルディグラ 強風に飛ぶ山高帽」などとつまらぬ句を作って時間をつぶした。

バーデン・バイ・ウィーンのコロナの柱


その日の夜には夫と仲の良い地元の同業者と食事したので、その機会にこの巨大なアイスパフェの正体について尋ねてみた。彼らは私の拙い描写を聞いて、ああ、それはペストゾイレだろう、と言う。ゾイレが柱を意味することぐらいは知っていたので、「ペストの柱って、誰が何のためにそんなものを建てたの」と訊くと、ペストが終息したことを祝うためで、建てられたのはハプスブルク帝国が最盛期を過ぎた頃だという。

それより、ペストの柱なら君はウィーンで見てるだろ、と彼らに言われて、初めて、そうだ似たような物がウィーンにもあったと思い出した。それに注意を払わなかったのは、ウィーンなら見る所が山ほどあって忙しく、しかもそれが立っているのは東京で言えば銀座四丁目交差点の真ん中みたいな場所なので、目印にはなるが由緒などどうでもよかったのである。

ウィーンのコロナの柱


そのあと人に訊いたり自分で調べたりして分かったのは、この柱はオーストリアのみでなく南ドイツのバイエルン州にもあるし、また 20 世紀初めまでハプスブルク家を戴くオーストリア=ハンガリー二重帝国の領土だった現在のチェコやスロヴァキアにも、さらに帝国の片割れだったハンガリーの首都にも見られるということだった。

ただ、バイエルン州のはいずれも地味で目立たず(私は小さなオベリスクかと思った)、また現在の東欧にあった柱はこの地域が第一次大戦後にハプスブルク家の支配から離れた時、二重帝国からの独立を祝ってほとんどが打ち壊されたという。

前世紀末に冷戦時代が終わって東欧諸国がソ連から解放されても、これらの国にはドイツとその前の支配者だったオーストリアへの恨みつらみは残っていたが、そののち人の往来が自由になって旅行者が急増したとき、チェコなどでは観光客がいくつか残っているペストの柱をめずらしがって名所扱いするので、今は大切に保存されているそうな。


オーストリアの肩を持つわけではないが、言わせてもらうと東欧諸国の都市で現在貴重な観光資源となっているのは、その多くが神聖ローマ帝国、すなわちオーストリア/ドイツの残した文化遺産である。有名なチェコのカレル橋は名前自体が皇帝カール 4 世に因むし、欧州で最古の大学の一つプラハ大学を創立したのもこのカールだった。この人はプラハ生まれではあるが、その先祖はルクセンブルク出身でドイツ系である。東欧諸国の人たち、そろそろ狭量な民族主義と決別するときが来ているのではないかしらん。

それにしてもなんでまたこんな珍奇で仰々しい物体を、と私が感じるのは趣味嗜好の問題かもしれないけれど、南欧にも西欧にも、もちろん北欧にもないからやはりオーストリア独特のセンスらしい。実はこれらが建立されたのは 18 世紀前半のバロック芸術の末期だったので、派手好きなハプスブルク家はそのバロックの最後の輝きをとどめておきたかったものと見える。

宗教の衣を借りてペストからの解放の感謝という名目で、最盛期をとうに過ぎたハプスブルク帝国の威光を誇示したともいえるが、それが 300 年近く残っているとなると、少なくともオーストリアの人々には支持されているわけである。無論二つの世界大戦による損害は被ったものの、ほどなくして元の姿に修復され今日に至る。打ちひしがれた敗戦国の民にとって、これはお守りのような意味を持っていたのかもしれない。


ところで、この「ペストの柱」に類する記念碑が日本にはあるだろうか、と考えて、おそらく今も全国のあちこちに残る大仏などは、国と民の安寧を祈願して制作されたものだろうと思い当った。

日本にももちろん疫病はあり、ただペストは稀だったし記録によればコレラも最初の発症は1822 年だったそうで、古代より民をもっとも苦しめ恐怖に陥れたのは麻疹と天然痘だったという。だがそれらはいきなり日本列島を襲って何百万人もの命を奪ってのちに去っていく、という種類の疫病ではなく、歴史上何度も多くの地域で繰り返されてきたので、終結を喜び仏を称える記念碑を立てることなどは思いつかなかったのだろう。その代わりに、大小の仏像や地蔵などを設けて自分や家族や村人の無事を祈ったと思われる。


さてこのペストの柱、現在はそれより新型コロナの拡散を気にかけるべきだろうが、感染者が非常に多いオーストリア(および東欧)ではひょっとしてコロナが去った暁に似たようなものがまたニョキニョキ建つのかもしれない。コロナの柱のデザインが公募されたりして。

と思っていると、収束の見通しが立たない今、ウィーンなどではペストの柱をコロナからの護りとも見なし、その周りに蝋燭を置いたり花を飾ったりする人が絶えないというニュースがあった。この際あるもので間に合わせようなんて、仇敵のスイス人と違って見栄っ張りで「無い袖振り」のオーストリア人らしくないが、この国も目下いろいろ取り込み中で背に腹は代えられぬようだ。


と、ここまで書いたとき、東京は中央区に住む幼馴染みからメールが来て、日本のコロナが急減したことに感謝して伊勢神宮にお参りしたとあった。そうだ、日本にはお礼参りという慣習があったっけ。ついでに「もうこれくらいで勘弁してください」と祈ったのだろう。彼女のように考える人は多いらしく、また三重県ではここしばらく感染者がゼロということもあって、伊勢は大変な賑わいだったそうだ。


そのお礼参りで思い出した話がある。ある時代小説を読んでいたら、「誰(た)が願ぞ 地蔵縛りし藤の花」という句があった。最初は何のことやらさっぱり分からなかったが、これは縛り地蔵あるいは縛られ地蔵という風習から来ているという。

何か願い事があると地蔵尊をぐるぐる縛って簀巻きみたいにして、「願いが叶ったら縄を解いてあげます」というのだそうだ。これにはびっくり仰天だった。一種恫喝ではないか。それも尊いお地蔵さま相手に。和と穏便を旨とする日本人にしてはまことに奇想天外な発想だ。(これも調べると大岡裁きに関係しているとの説明があった。)

「---地蔵縛りし藤の花」というのは高井几董という江戸時代中期の俳諧師の句で、藤の蔓が(もちろん偶然に)地蔵に巻きついているさまを詠んだのだという。ふーむ、なかなか美しい情景ではありますが、縛られ心地はどうでせうか。

縛られ地蔵

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2 commentaires


hmdhonau
21 déc. 2021

そうなんですよね、私も柱と聞いて「人柱」という言葉を思い浮かべました。昔(ほとんど太古)の人は、何かを願うなら、それに対する対価を払う必要があると考え、それで人間を捧げたのでしょう。捧げられるのは美しい女や頑強な男だったといいます。よかったわ、価値のない女で。


もしかしたらエジプトのピラミッドもファラオが何かを祈願して建てられたのかもしれません。あまり知られていない現イラクのジグラートなども。そのためにどれだけ多くの奴隷が酷使され命を落としたことか。ハプスブルク家のペストの柱はそれに比べると血なまぐさいところがないのが救いです。いわばちょこちょこと工作して飾ってそれで終わり。王朝も傾きかけていたので、適当なお礼で済ませた?


日本の願掛けとお礼参り、願掛けには○○絶ちが多く(酒タバコを止めるとか、砂糖や塩を一切とらないとか)、またその熱意を示すために百度足を運ぶなど、どちらかといえば安上がりで、日本人ってどこまでも慎ましい民族なんですね。

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繁 大村
繁 大村
20 déc. 2021

拝見して妙なことを考えた…残すと残る。塔と言わずに柱と言う、人柱からの連想で人間の死にまつわるものなので柱が似つかわしいように思いました。いやー勉強になりました。残っていさえすればびすこさんが、歴史をひもときわかりやすく話題にしてくださるチャンスもあると言うもの、地元にあるしばられ地蔵のオチに至ってはあちらの聖人も世界は広いと思ったことでしょうし、お地蔵さんも縄を解いてもらって聖人たちとエールを交わしたいとも思ったでしょう、たまには僕もこういう役に立ち、頭をめぐらせること言ってみたいものですが、人には分(ぶん)と言うものがあり、それを持って自分の「縛り」としたいと思いました、ペストの歴史、残った柱から解きおこしていただいて大変勉強になりました、それにしても「コロナの柱」を一瞬といえども頭の中に立てることの意味は大ありで、大いに慎みたいと思いました、たくさんのヒント、ありがとうございました。

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