top of page
執筆者の写真クレマチス

カーニバルが近づいて――ドイツの黒い森から(びすこ)

日本では二月・八月はシケた月とされていて、私も毎年つまらないと感じていたが、ドイツの方はもっとつまらない。梅や桃の蕾がふくらんで小鳥がやってきて、というような春の兆しはまだまだ遠く、あいも変わらず寒くて暗い。

多分そのためだろう、西洋人はこの時期大々的に鬱屈を晴らす方法を考え出した。カーニバルである。このイベントは復活祭の40日前(土日を除く)に催され、復活祭がキリスト教の太陰暦にしたがって毎年変わることからカーニバルも移動祭日となっているが、たいていは2月のどこかに納まる。

気晴らしになるはずのカーニバルが私は大嫌いで、ドイツの二月は日本のそれよりも早く逃げてほしいと毎年思う。田舎町でも住民が派手に仮装して街を練り歩き、その喧噪と参加者の狼藉にはほとほとまいる。(さすがに今年ばかりは静かだけれど。)

カーニバルといえば大概の人はリオやニューオーリンズ、ベニスなど南国のお祭りを連想するようだが、ドイツ人のこのイベントへの思い入れも相当のものである。特にライン河畔地方にはかつて司教座として栄えたケルンとマインツがあり、現在でもカトリックが優勢なこれらの町では、正月が終わった途端準備が始まる。

司教座と聞いても日本人にはピンと来ないだろうが、その昔数世紀にわたり、神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権利を有する七人の選帝侯のうち三人までがドイツ西部の司教だったといえば、その権力のほども想像がつくのではないか。

何でも宗教の衣を被れば容認されることから、冬のこの乱痴気騒ぎもキリスト教の行事となっているが、どうみてもイエスの教えとは無関係で、早い話これはローマ時代の「パンとサーカス」のサーカスの部分に等しい。

数十年前のこと、知人がリオでカーニバルを見たというので、「やっぱり陽気で楽しいお祭りなの」と尋ねると、むしろ悲しくて哀れだった、という。もともとブラジルでは、主に黒人の奴隷たちのために一夜の慈悲として始まったのだそうだ。

イベリア半島の人間が南米を征服してのち彼らの下で酷使されてきた奴隷たちは、年に一度のこのお祭りで歌えや踊れのいわゆるオージーを繰り広げ、この日だけは身分に捉われない言動すなわち無礼講が許されていた。

だからそれゆえにのみ、この日があることだけを救いとして、奴隷たちは後の364日の過酷な労働にも非情な扱いにも耐えた。カーニバルの夜には、よそから来た観光客にさえもその哀れな歴史が伝わってくると知人は語った。

ドイツの場合も、中世以降に奴隷と呼ばれる層は消えたものの身分・階級の差は甚だしく、民は地にへばりつくようにして生きていたので、選帝侯をトップとするドイツの王国・公国・侯爵領等の首長は、何らかの形で領民に息抜きの時と場を与える必要を認めていたろう。

世襲の貴族の家では、代々戦争も反乱も暴動も経験して粗暴で反抗的な民衆の性向は掌握していたから、年に一度の祭りや放恣・耽溺でその不満が抑えられるなら安いものだと考えたはずで、だから上を下へのどんちゃん騒ぎに禁止令を出すこともなかった。

それにつけて思い出されるのは、わが日本の、それもわが郷里土佐の、一人の偉人である。野中兼山と聞いても大半の日本人には馴染みがないであろうが、儒学者でもあったこの政治家は土佐藩の家老として辣腕をふるい、とくに土木工事いわゆるインフラの拡充に大きな功績を残した。彼の下で整備された灌漑用水や漁港がもたらした恩恵は、今も県民の語り草になっている。

ただ、極端なまでに朱子学の教えに忠実な生き方とその謹厳な施政が災いし、重い課税や苛酷な労役、贅沢禁止令等で庶民を苦しめたことを口実に、その成功を妬む同僚たちに謀られて非業の最後を遂げる。

私はその名前と主な業績を知っている程度であったが、実は彼への関心は、当文芸クラブで誰もが知る人物とこの私との共通の高校教師が数少ない兼山の研究者であったことに拠る。その同級生から研究書のことを聞いたのは比較的最近で、それを機に兼山について少しく調べるようになったのだった。

兼山の偉さに疑いの余地はなく、それは彼の施政に苦しんだ農民の子孫すら死後に祠を建てて彼を神と崇めたという事実からも明らかである。そして彼の才知・犀利を妬み嫉む周囲の人々の悪意には憤りを禁じ得ず、また、彼を父としたばかりにこの世で考えうる最も残忍な刑を偲ばねばならなかった子女を悼む思いは深い。

けれどもその中でただ一つ、いかに神格化されようとも、「これは」と思わずにいられない点がある。それは彼が、さなきだに貧しく慎ましい農民・町民に、ほんのわずかな贅沢のみならず、ありとあらゆる娯楽を禁じたということである。

祭りは言うに及ばす、団欒や歓談など憩いの一切が禁止され、村人たちが何より楽しみにしていた相撲の競技なども許されなかったという。

そこまでされては、人民はなにをよすがに命を繋いでいくのか。ブラジルの奴隷のように彼らもまた、秋には祭がある、相撲が見られる、というこの上なくささやかな希望のために、雨風も瓦礫も泥も厭わず働き続けられたはずなのに、それさえ奪われてはもはや生きる甲斐がない。

兼山ほどの人物がかくも人心に盲目であったことに驚かされる。いや優れて徳の高い禁欲的な資質こそが、彼を普通の人間の敵にしたのであろう。

朱子学の代わりに彼に人間を教える師がいなかったことが、この偉人に大きな悲劇をもたらしたように思えてならない。


閲覧数:45回4件のコメント

4 Comments


h.kinoshita
Feb 05, 2021

黒い森って、もしかしてShuwarz-waldのことですか?とても素敵な所だと聞いています。ロイ・ブラックの映画で黒い森を背景にしたラブストーリーがありますが、私は残念ながら行ったことがありません。ドイツ人ってカーニヴァルとかお祭りが好きなのでしょうか?私は、浅草に住んでいて、三社祭りの時、家の前から御神輿が出て、それはそれは、大騒ぎ。私はよそ者なので、冷めています。どこの国でもお祭りは賑やかなんですね。三社祭もそうだけど、日々地味に暮らしている、庶民のささやかな息抜きなのでしょうか?兼山さんのことは、初めて知りました。また一つ勉強させていただきました。ありがとうございます。

Like

繁 大村
繁 大村
Feb 03, 2021

あ、あ、よけいなことを書いてしまいました、、、びすこさんだけに白状します、、、ってのは、、、ないか。ぼくの小説の中で、アメリカ留学中に知り合った黒人青年との会話に奴隷制度に言及するところがありまして…その関係で仕方なく読み始めた本です、、、あ、あ、ますますどつぼにはまってしまいます、えへん、、あー著者はそういう方なんですか、そうなんだ…ありがとうございました。 当時の肖像画のそういう画風は定着していたと思います、古いお宅にお邪魔した時、他でも見たことがあります。 この本に出会ったのは…多分どっかの本に紹介されていたんだと思いますが…思い出そうとして思い出せません…クレマチスさんはぼくの泥縄式読書を、、、芋づる式読書だと上品に言い換えてくださいました、そういうわけでございます。訳本あったら読みたいです。今朝35ページまで読んで…アメリカの南北戦争直前までの奴隷制度の状況仕入れたとこです(まぁ家畜扱いですが、めはしの利くものをプランター(農園所有者)の監視役ぽく使ってた人も多いらしいです。女の人はまかない婦、子供も働き手、題名になってる「変な決まり事」なんて名前の翻訳本がありましたら教えてくださいませ。すぐ本を投げ出してそちらを読みたいです。ちなみにびすこさんは音声入力は使ってらっしゃいますか、悪魔的に便利で気分が悪くなることがあります😑単語も…発音入力すれば即座に訳が出ます だから本が読めるのです、あはは、話が長くなってすいません、今兄と会ってきて青戸のシンフォニーヒルズ音楽堂の近くの公園のベンチでこれを書いています。素晴らしい立春です。ではまたなんか思い出したら、、、書きます。

Like

hatsu.morisawa
Feb 02, 2021

兼山は17世紀の人ですが、この肖像画は写実的ですね。当時既にこういう画風があったのでしょうか。いちまるさんの曽祖父に当たる方の肖像画に似ているとのこと、そういえば私の曽祖父もこんな風に描かれていました。祖父の代になると写真でしたけど、曽祖父が亡くなった1931年にはまだ遺影に写真を使うことはなかったようですね。


Kenneth M.Stampp、この人の名前は初めて聞きました。ウィキによるとドイツから米国に移民したプロテスタントの家系とのことで、こちらの「名前の起原とその分布」というサイトで調べると、ドイツの中では私が住む州に最も多く、というよりこの州でのみ、見られる名前でした。The peculiar institution、日本で訳は出ていますか。ウィキの英語版にしかないところを見ると、訳本はないようですが。

Like

繁 大村
繁 大村
Feb 02, 2021

カーニバルの記事楽しく拝見しました。奴隷制度についても今、The peculiar institutionというケネス・M・スタンプの本を読み始めましたので目を引きました。 兼山さん、すごい人だったんでしょうね。ストイックな兼山さん、しびれますね。団欒や歓談まで禁じたというところが引っかかりますが…兼山さんの緊張感がこっちまで伝わってきますね。おそらくはコントロールをちょっと間違えれば一気にまつりごとに破綻をきたす状況の継続の中の非業の死は、落ち着いて考えてみれば兼山さんの殿様同僚配下と村民全体の悔やみきれない後の祭りだったろう。賢かるべき組織や総意はそんな間違いをするという僕の思いこみかもしれませんが、そんな総意が、、、団欒や歓談まで禁じた人、というとってつけたような看板を後から兼山さんに負わせてかろうじて心のバランスをとったというか、中央の指弾を躱した、としないと、頭の悪い僕には全体図が見えてこない。ごめんねびすこさん、兼山さんの肖像画がこの間捨てた僕のおじいちゃんのお父さんの顔とそっくりで、ギョッとしたもんで…愚にもつかないの想像の酔多話聞かせてしまいました。とんちんかんな話だとしたら無視してくださいませ😑

Like
bottom of page