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執筆者の写真クレマチス

カッコウ時計の故里――ドイツの黒い森から 24(びすこ)

今の世には「都市伝説」なるものがあるそうで、聞いてみれば、流言飛語とは言わぬまでも根拠の薄い、ロジックですぐ論駁できるような、しかし面白がり屋には捨てがたい説を指すらしい(あくまでも私個人の印象ですが)。

そういう都市伝説の範疇には入らないかもしれないが、論破がいとも簡単な説、早く言えばウソッパチも世の中には出回っていて、どうして誰もそれを葬り去ろうとしないのか不思議だが、やはり「面白いじゃないの」と言うのが生き残りの大きな理由であろう。


その中の一つに「カッコウ時計はスイスで生まれた」という説がある。これはもう、完全な嘘・間違いなのだが、これを広めたのがかの大物俳優オーソン・ウェルズとあっては映画界の人間ならずとも畏れ多くて口をつぐんでいるようだ。

よく知られているように、これの原典は第二次大戦の戦勝四か国の占領下のウィーンを舞台とした往年の名画「第三の男」で、ウェルズ扮する悪党のハリー・ライムが、彼を慕う素朴な主人公ホリー・マーチンズを相手にプラター公園の観覧車の中で言い放った台詞から世界中に広まった。一方でこれがグレアム・グリーンの原作にはないことも、知る人ぞ知るというところである。


私はグリーンの作品はかなり読んでいて、この「第三の男」は英文科で取り挙げるような文学作品ではなく作家自身の分類では「娯楽作品」に属するのだそうだが、別に文学に執着はないのであるとき紀伊国屋で 1900 円位で買った(ポンドが円に対して恐ろしく高かった時期だ)。約 120 頁と比較的短く文章が簡潔なので(グリーンは記者・通信員として活動した時期がある)、英語の勉強にも有用だと思う。

私が持っているのは映画が大ヒットしてから 20 年余りのちの 1970 年代の版で、グリーンはその序で制作のアレキサンダー・コルダや監督のキャロル・リードとのやり取り、さらに原作に変更が加えられた箇所とその理由などについて「そして名作が生まれた」風に秘話を語っている。もちろん、リードがウィーンの酒場で偶然チター弾きのアントン・カラスを発見したことの幸運についても。


変更はいくつかあって、まず原作では主要な登場人物が英国人だったのが映画ではアメリカ人に変わったため、そして何より重要な点として第三の男であるハリーを演じるのがハリウッド俳優になったことで、やむを得ない変更が加えられたというのだが、傍若無人なオーソン・ウェルズの我儘に引きずられた部分もあったらしい。

カッコウ時計の一件がウェルズの無知・無学から出たものであることをグリーンは意識してか、あるいはこういう向こう受けのする台詞は俺の好みじゃないよ、ということを言いたかったのか、同氏は序文の中で「因みに有名なカッコウ時計に関する会話は、ウェルズ自身が脚本に書き込んだものである」と記している。

ここでハリー・ライムの台詞を再現してみよう。

「イタリアではボルジア家の 30 年間に恐怖政治があり殺人があり流血が続いたが、その中からミケランジェロが、ダヴィンチが、そしてルネサンスが生まれた。スイスには友愛があり 500 年間にわたる民主主義と平和があった。で、それがもたらしたものは?カッコウ時計さ!」

写真 1. カッコウ時計


今改めてこの台詞を読んで怒りが込み上げるのは、この台詞が 200 % 間違っているからである。第一に、スイスは平和や博愛や民主主義に浸っていた長閑な国家ではない。断じてない。500 年間のスイスの歴史の大部分はイタリアに劣らぬ悲惨に彩られている。ただしイタリアとは異なり、王侯貴族や教皇の欲望・野望のためでなく、山の男たちが自力で独立を守り貧困から抜けだすために血みどろの戦いを続けてきたのである。

皮肉なことに、今ではそのスイスの銀行がかつてのメディチを凌ぐ威力を発揮している。

現在の大学でも史学科でスイス史を選ぶ学生など稀だろうから、ウェルズの大いなる誤謬に反駁する人も特に日本にはいないと思うが、西洋史を少し学んだ人ならスイス人傭兵について聞いたことがあるはずだ。

まず 14 世紀に山奥の三州によってスイスを発祥地とするハプスブルク朝からの独立を成し遂げるが(この独立戦争からヴィルヘルム・テルの伝説が生まれた)、地形・地質からして酪農以外の農業はほぼ不可能、山間地での興産もむずかしい。そのためこの国が輸出できるのは勇猛な兵士のみで、ヨーロッパ各地に戦争や内紛が頻発した 15 世紀から 18 世紀までは堅忍不抜で知られるスイス人傭兵への需要は大きく、これは「血の輸出」と呼ばれた。ウェルズのごとき物知らずのアメリカ人に、平和ボケ呼ばわりされ嘲笑されるいわれはない。

(むろん今日では傭兵業は廃止されているが、バチカンの教皇を守る衛兵が現在まで 500 年余りにわたり、1)カトリック教徒で、2)ドイツ語/イタリア語を話す、3)身長 174 センチ以上のスイス人、とされていることにその名残が見られる。)


今は尾羽打ち枯らした南の隣国イタリアの存在もあって、EU 集団の一員などまっぴらという国民も少なくないスイスの出世物語を語り始めるとこのブログの紙幅をはみ出してしまうので、ここでウェルズの台詞の第二の嘘に移る。

カッコウ時計がスイスで生みだされた、などという間違った知識をウェルズは一体どこから仕入れてきたのだろう。

ホトトギス、いや、カッコウの時計の故里は、何を隠そう、この私が今住んでいるシュヴァルツヴァルトなんである。これもハリウッド辺りの軽佻浮薄な連中は馬鹿にするだろうが、カッコウ時計がシュヴァルツヴァルトの特産品となるまでには、聞くも涙・語るも涙の物語があった。

かつて寒村が散在していた雪深いこの地で時計が作られるようになったのは、1750 年頃だという。それも最初は凝った木彫りの品ではなく、写真 2 のように木板に花の絵などを描いて後ろに歯車の機構を隠し、下に吊るした重りの動きで時間を刻むものだった。

写真 2. シンプルな掛け時計


木を時計に使うようになったのは、金属を材料にするなら同業者組合に加入する必要があり、排他的な組合に入るのはむずかしかったのでそれを諦めて、制約のない木材を使うことにしたのだそうだ。何しろ木材ならシュヴァルツヴァルト(黒い森)には至る所にたんとあって、その使用を規制する木材製造業者組合などというものは存在しなかった。

この素朴な時計はかなり人気を博し、時計売りの商人が製品を背負って各地を回るようになった。後にはドイツ中・北部のみならず、英国にまで足を延ばして行商に精だしたという(写真 3 )。やがてそのデザインでは飽き足らなくなって動植物を掘った枠が使われるようになり、加えて森の特産品という特徴を出すのに上部の穴から正時にカッコウが飛びだして鳴くという趣向が凝らされた。


写真 3. わが町にある時計行商人の像


ウェルズを庇うつもりは全くないが実はカッコウ時計とスイスとは完全に無関係とはいえず、というのも時計のメカニズムには最初スイスの技術を導入したらしい。当時のスイスにはフランスの弾圧を逃れてきたユグノー(カルヴィン派のプロテスタント)が多くいて、彼らの多くは職人・商人であったため、スイスの時計産業の繁栄の礎は彼らによって築かれた。

ただしこの人たちはカッコウ時計なんて庶民的な土産物より遥かに実入りの多い精巧な時計作りに丹精し、それが今日のローレックスだのパテック・フィリップ、タグ・ホイヤーなどの超高級品へと発展していったわけである。数千万円の品も珍しくないパテック・フィリップの本社はジュネーブで、ここにはナントの勅令の廃止後にルイ 14 世のフランスを脱出した人々が集まっていた。

合理主義的な(ということは実利優先でもある)ユグノーは当時の産業・商業の担い手だったため、彼らを失ったフランスの経済はその後没落の途を辿る。ユダヤ人を迫害し追放したドイツの前途に、学術界の衰退が待っていたのと同様である。疑うなら、戦前と戦後のドイツのノーベル賞の数を比較してみるとよい。*


* 戦前・戦後の主要国のノーベル賞受賞者(文学・平和賞を含む)の数を比較するとドイツの場合は 1901 年から 1944 年までの 44 年間に 44 人(仏 27 人、英国 30 人)、1945 年から 2021 年の 77 年間には 40 人(仏 33 人、英国 96 人)となっている。ドイツでは戦前には年に 1 人の割合(しかも共同受賞という形はなかった)、戦後は 2 年に 1 人程度で、半減したことになる。 大戦中に海峡を渡って英国に亡命したユダヤ人・反戦主義者も多かったが、とにかく圧倒的な変化を示すのは米国で、戦前は 28 人だった受賞者が、戦後は 10 数倍の 350 人となった。そのリストを見ると、名前だけでユダヤ系ドイツ人と察しが付く科学者がかなりいる。 迫害や追放が、迫害される人々よりも迫害する側にどれほど大きな打撃を与え、追われた人々を受け入れる国にいかなる恩恵をもたらすかをこれらの数字は明示している。


シュヴァルツヴァルトの住民は素朴で生真面目な人達なので、富豪相手の大それた高級品など思いもよらず、せっせと木を掘ってカッコウ時計を作り PR も怠らなかった。

この手仕事はかなりの期間に渡ってシュヴァルツヴァルトの人々の生活を支えた。ドイツ人の間では田舎の土産物として以外あまり顧みられることがなくなっていた戦後の数十年間、カッコウ時計産業の維持に寄与したのは、皮肉なことに敗戦国ドイツを占領しその後も駐屯していたアメリカの兵士たちであった。

シュヴァルツヴァルトを出て北に向かうとハイデルベルクがあり、そのさらに北方にフランクフルトがあるが、この辺りには 1980 年代まで大規模なアメリカ軍基地があり、そこで数年間働いた兵士たちが母国に帰るとき、ほとんど必ずと言っていいほどドイツ土産にするのがこのカッコウ時計だった。従って、アメリカ軍の撤退と共にカッコウ時計の需要が激減したことは言うまでもない。

スイスはシュヴァルツヴァルトから南へ 1 時間とかからないし、地名も似ているから(スイスはドイツ語で「シュヴァイツ」と言う)、世界地理なんぞに知識も関心もないアメリカ人兵がカッコウ時計を家族に見せて「スイスで買って来た」などといい加減なことをいうケースもあっただろう。


というわけで、カッコウ時計の衰退はシュヴァルツヴァルトの産業にも少なからぬ影響を与えたのだが、しかしこの地の人もまた忍耐と適応力を発揮して、時計の技術から派生した精密産業、さらに目下は IT 技術を中心に地域経済は堅調である。

そしてこの興亡に私が無関心ではいられないのは、夫の会社の歴史にもこのカッコウ時計が関わっているためだ。

それまでドイツ北西部の企業でサラリーマンだった夫が独立を決意したのは 1981 年、今からちょうど 40 年前のことで、さっそくどこかに安く買える鋳造所はないかとドイツ中を探し始めた。自己資金は微々たるものだし銀行からの借り入れにも限界があって、ようやく何とか手に届きそうな価格で売りだされている工場を見つけたら、それがシュヴァルツヴァルトにあったというわけである。


ここはもともと 1873 年から農機具などに使う鎖の鍛造を手掛けていたが、すぐにそれよりも需要の多い時計の部品の製造に切り替え、製法も鍛造でなく鋳造となった。作られる部品の大半はシンプル型の時計の振り子で、これはただ円筒の重りを作ればよかったが、その後カッコウ時計の重り(写真 1 )のようにトウヒの毬果を模したものに変わった。

やがて時計の部品作りだけでは稼げなくなっていろんな製品に手を出したものの、どれもパッとせず会社は結局 1981 年に倒産宣告し、半ば廃墟のようになっていたその工場を夫が買い取ったのだった。新たな企業として出発したのは翌年の 1 月のことである。

そんな経緯があるので私たちもゆかりのカッコウ時計の存続を願っているが、今世紀の初めから急増した中国人・インド人の観光客もコロナで姿をくらまし、仮にパンデミックの嵐が去ってももう大勢の観光客は望めないであろう。

夫の会社の顧客は時計とは関係のない機械製造業者ばかりだが、それが南ドイツとスイスとオーストリアに集中していることで、このちっぽけな企業もまた歴史の荒波に乗って進んできたという感慨がある。

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