毎週土曜日はわたしたち夫婦の買い出しの日である。普段は亭主が仕事をしていて、それもフルタイムの現役なので、車の運転ができない私は土曜日を待つほかない。その土曜日も、午前中は機械のメンテナンスやペンキ塗りや窓・屋根のガラス磨きに必ず何人かが来るので、彼らが帰る午後1時を過ぎて初めて出かけられる。
この買い出し、以前は地元の町のスーパーで済ませていて、たまにちょっと遠出するくらいだったが、今年初めに従業員の一人から、隣町のスーパーが断トツにサービスがよく品揃えも優れていると聞いたので試しに行ってみたら、評判通り店員さんがドイツにはあるまじき(?)礼儀正しさ・優しさだった。
地元のスーパーと同じチェーン店なのだが、このチェーンはフランチャイズ方式なので、経営する人の方針や社員研修がもろに販売員の態度や売り上げに反映される。多分この隣町のフランチャイジー(契約加盟店)は、きちんと従業員教育をしてインセンティブなどもしっかりあるのだろう。
それでもうここ半年余りは、わが家から 8 キロほど離れた町で買い物をするようになっているが、以前から買い物の前にカフェでコーヒーを飲むのが私たちの習慣になっていた。我が家ではもっぱら紅茶だから、来客があると事務員にカプチーノを頼む夫と違って私がコーヒーを飲むのは土曜日だけである。
隣町の名前はホーンベルクという。ここにはレストランならなかなか良いのがいくつかあるのに、カフェとなるとインターネットで探しても、もともと一つ二つしかないのが最初はコロナで閉まっていた。それが、2 月末頃から町役場のはす向かいにあるカフェがオープンになり、以来ショッピングの前には必ず立ち寄ってコーヒー・タイムにする。
ホーンベルクの町の全景を以下の写真にお見せしている。ここは私たちがスーパーを贔屓にする前から、北のフランクフルト、デュッセルドルフや夫の郷里に行く際の通り道で、ただ何も用事はなかったので本当に通過するだけであった。町の名物、というほどのものでもないが、この辺りでよく知られているのは山上のブルク(砦)である。
ドイツに来た最初の年の暮れに夜ここを通ると、ブルクには樅の木が立ちクリスマスの照明が輝いていて、ああ、自分は今遠い異国にいるのだという思いが胸に迫った。そのときの感慨はずっと心に残っており、だいぶ後に葛飾のSNS「かちねっと]で俳句や短歌で遊ぼうということになった時、当時の心境を思い出して初心者ならではの(?)幼稚な歌を作ったことがある。
・つわものの願いし和(なぎ)の世となりて 砦に灯る聖夜の明かり
ホーンベルクで私たちが毎週行くカフェはこの写真ではぐーっと右下の広場のようなところにあって、カフェからちょっと向こうの右手の、三角の波風の建物が町役場である。広場の名はドイツ語で Am Bären Platz、「熊の広場(で)」という意味で、広場の一角にサーカスの動物みたいにボールに乗った熊の像があるためにそう呼ばれている。カフェの名前も同じく「熊の広場」である。
上記の通り、このカフェは今年の晩冬にやっと再開したが、おそらく人手不足のせいもあって数人しかいない給仕が一人を除き外国人だった。例外の一人というのは多分オーナーか雇われ支配人で、彼女だけが普通のドイツ語を話す。後の数人はトルコ人かバルカンの人に見えるが、中で場慣れた感じの細身の男性はドイツ人女性の配偶者らしかった。
今年の春、店が広場にテーブルを出して屋外でもコーヒーを飲めるようにした時分から、カフェの従業員に若い女性が加わった。ドイツ人にしては小柄で、色白の顔に小さなニキビがあり少女と言ってもいい年ごろ、金髪を後ろでまとめて三つ編みにしている。ニコニコして愛想はいいのだが、ときどきこちらの注文が分からないようで、ラズベリーとブルーベリーとチェリーを間違えたりするので夫が一緒にケーキのガラスケースに行って「これ」と示すこともあった。容貌体格からして、アイルランド人かなあ、と夫と話したりした。
さて、7 月 2 の土曜日のこと、これから出かけようというときにその日の新チューリッヒ新聞(以下NZZ)をちらと見たら、第一面の見出しが「ドイツが見つけた西の国」となっている。最初の数行に目を走らせて、前回のブログで私が言及したドイツの親露・反米政策に関連した記事と分かったので、ホーンベルクの「熊の広場」で読もうとバッグに入れた。
カフェでは外のテーブルが埋まっていたため入口に近い席に腰を下ろすと例の娘さんがテーブルにやって来て、私たちはそれぞれの飲み物とケーキを注文し、夫は経済欄を、私は第一面の記事を読み始めた。
この新聞は名称から分かるようにスイスのチューリッヒで発行されているが、最古のドイツ語新聞でドイツ人の読者数の方が勝りまた国際版には別途ドイツ欄があるほどだから、それに応じて編集員や記者にもドイツ人が多いのは当然で、私の読んだ記事を書いたのもベルリン駐在のドイツ人だった。
その記者オリバー・マクサンは、これまでドイツが西側諸国から距離を置いて彼らに馴染もうとしなかった背景と動機とを分析している。無論今日のドイツは世界から西側の重要な一員と見なされており、特に近年はEUのリーダーとして英・仏その他の欧州各国からはもちろん、米国からも一目も二目も置かれる存在である。
そんな中で、32 年前に東西ドイツ再統一の悲願を達成したあともなお、ドイツ国民の多くは英・仏に代表される西欧と大西洋の向こうの米国とを懐疑の目で見ることを止めない。そしてその国民感情にへつらうかのように、保守派のキリスト教連合が与党の時代ですら、政府は時にはあからさまに東に秋波を送り続けた。無論、左派の多いマスコミの影響もある。
はっきりとロシアを拒否したのは戦後の最初の首相アデナウアーくらいのもので、筆者のマクサンは、「ソ連と仲良くしてくれるなら、非同盟ドイツ(つまり西欧・米国と一線を画したドイツ)に東独を返してやってもいいよ」というスターリンの甘いささやきに耳を貸さなかったのは歴史的に見て正しい判断だった、と述べている。スターリンと組んでいれば、安全保障はともかく、今日の自由も繁栄もなかったであろう。
欧州にありながら、米国を含む西側の国々からできるだけ距離を置こうとするドイツの姿勢は、それが旧東独の市民であればソ連の衛星国だった 40 数年間のプロパガンダのせいと言えるが、一般ドイツ人の西側諸国への反感はそれ以前のドイツの伝統・文化に起因するところが大きいとマクサンは言う。
その論証のために挙げられた例として、19 世紀初めナポレオンに降伏したプロイセンが一旦フランスに協力を誓っておきながら、そのナポレオンの軍隊が冬将軍に敗れるとロシアに寝返ってフランス軍追討に手を貸したタウロッゲン協定事件がある。また、第一次世界大戦の直後、ベルサイユ体制から除け者にされたドイツとソ連がイタリアのラッパロで締結したラッパロ協定も、国際舞台の主役だった英・米・仏への面当て外交として知られる。
歴史的に見て、ドイツ人の心理には欧州の西端の国への不信感のようなものが根強く残っているらしい。大西洋から離れた東寄りの「中欧」であることのコンプレックスのせいだろうか。英国やフランスから常に「欧州の田舎者」と呼ばれてきたことへの恨みに似た感情もあるのかもしれない。また、前回のブログで触れたように、大戦中の国内の反ナチ運動に英・仏・米が支援を拒んだことをドイツのインテリ層は忘れていない。
英国人のユーモアもフランス人のエスプリも持ち合わせない生真面目で堅苦しい国民性は、確かに西欧ではジョークの種にされることが多かった。それでも欧州の一員として、特に戦後は経済面での成功で西側諸国の中でも重きを成すようになるが、フランスや英国を凌ぐ実力をつけるにつれて、大国アメリカへの反抗が顕著になった。
ベトナム戦争における米国の事実上の敗北は「東向き」のドイツ戦後世代を大いに力づけたし、最近のアメリカ軍のアフガニスタン撤退に際しても、ドイツ連立政府の特に社会民主党などは、これでアメリカの時代は終わったと嬉しさを隠せない様子だった。それと並んで右派の方でも、ドイツは米国の属国のような扱いを受けているという鬱憤が積もっていく。(この辺りは日本の右翼の反応に似ているかもしれない。)
その態度には拗ねた子が抗うようなところがあり、記事にあるように、ブッシュのイラク進攻に手を貸さなかったことや、リビアへの NATO 軍動員の拒否は正しかった一方で、ロシアへの接近、特にエネルギー依存度増大へのワシントンの忠告をせせら笑っていたのは大きな過ちだった。ドイツを自国に頼らせ味方につけたと信じるロシアに、ウクライナ侵攻をためらう理由はなかったのだ。戦争の遠因の一端はドイツにあるとも言え、その過失を悟ったときには、既に遅かった。
NZZの記事によれば「ドイツが西側に向かって歩んだ道において、前進は容易ではなかった。20 世紀の初めにおいてすら、トーマス・マンなどの知識人は 1789 年(引用者注:フランス革命)の思想や西欧という概念に対峙していた・・・純粋で堅固なドイツ文化に対するに、実態のない柔弱な西欧文明という比較は、今日のロシアが西側諸国をデカダンスと呼ぶ誹謗に似ていなくもない。」
少しばかりおちょくった言い方をすると、ドイツとロシアとは昔から「野暮ったい田舎者同士で仲良くやろうぜ」と意気投合するところがあったらしい。
だがロシアのウクライナ侵攻に対する先進諸国のごうごうたる非難から、このままでは国際社会で再び孤立するという危機感に加え、今度はもうロシアとは組めないという認識もあって、ショルツ首相はドイツが目下重要な転機にあると宣言した。その「反省」の例証として、この10年余りほったらかしにしていた軍備の近代化に大規模な予算の投入を発表し、また国の経済力に比して少なすぎるとトランプが憤慨するのをメルケルが無視していたNATO の GDP 比の軍事費負担率を他の国とほぼ同じ 2 %に増やすことも約束した。
それに対して、親露(乃至どちらかといえば親露)だったはずの国民からほとんど異論がないのは、遅ればせながらプーチンの正体に驚いたせいもある。しかし彼らの意識を変える上で何よりも効果があったのは、ロシアが核兵器の使用も辞さないとほのめかしたことだった。それにはドイツ人の多くが震えあがり、私も自分の周りの人達の余りに幼稚な反応に笑ってしまったほどだ。
ドイツには米軍基地がいくつかあるが、それらの基地ではなくドイツの空軍基地にアメリカの核爆弾が 20 個保管されている(上の写真はそのビュヘル空軍基地)。1 個の威力は広島に落とされた水爆の 13 倍に相当するという。左派はもちろんこのことに抗議し続け、右派も米国に牛耳られることを侮辱と感じ、メディアがそれらの怒りをさらに煽る。当然国民の大多数はこれまで一貫してこの核兵器の保管に反対し、基地のあるドイツ南西部のビュへルでは頻繁にデモが繰り広げられて来た。
世論調査の結果を見ると、昨年の時点でも核兵器保管反対派は 84 %にのぼっていた。にも拘らずドイツ政府がアメリカに撤去してくれと要求しなかったのは理由があるのだろうが、それが残る 16 %の人々の洞察に基づく賢い戦略だったかどうかは分からない。国際社会における力関係は、(沖縄の例に見る如く)一国民の大多数の要望や主張をもってしても動かせないものであり、その事実がまた国民を一層の反米に走らせているとも言える。
ところが最近の世論調査では、56 %の国民がドイツに核兵器があることを歓迎しているという。奇妙なことに緑の党の支持者の間では 64 %が核兵器保持に賛成で、全体の 15 %がもっと増やすべきとさえ言っている。ロシアの核に対抗するには、こちらも核で応じるほかないという認識が広まっているのである。ビュヘル基地にある核兵器 1 個でモスクワは消えると嬉しそうに話す人たちまで現れた。
灰燼に帰したウクライナの都市の光景を連日見せられているドイツ人の間で、余りに非合理な反米感情と英・仏に代表される「西欧」へのルサンチモンとが次第に弱まっていくことを歓迎しつつも、筆者のマクサン氏は「ドイツ人のこの変化がどれほど確かなものか、それは今後の展開に待たねばならない」と結んでいる。
新聞記事を読み終えて、カウンターの娘さんに勘定を頼んだ。代金の 14.5 ユーロにチップとして 2.5 ユーロをプラスして、17 ユーロ取ってくれと 20 ユーロ札を差し出した夫に彼女が首をかしげるので、似たような経験のある私が分かりやすいように「 3 ユーロお釣りをお願い」と言ったら、「ああ」と頷いた。
釣銭を渡す彼女に私は「どちらのお国から?」と尋ねた。こういうとき白人のヨーロッパ人でないことは強みである。国籍や出身地を問うことは、何やら複雑怪奇なアイデンティティ論議とやらで昨今はご法度とされているらしいが、私自身が有色の外国人でいわば「差別される側」(実に馬鹿げた分別)だから、ときには「私は日本人ですけど、あなたは」と質問しても、笑顔で答えてくれこそすれ、誰も不快感は見せない。
金髪を三つ編みにした娘さんは恥ずかしそうに、「ウクライナから」と答えた。え、と私たちは少し驚き、「ウクライナのどこから」と夫が訊くと「リヴィウです」と言う。この町については、ブログ 「君よ知るやウクライナ―ドイツの黒い森から34 」で触れたことがある。ポーランドとウクライナにまたがるガリツィア地方のウクライナ側の最大都市で、かつてはユダヤ人が多かったこと、現首相がこの町の出身であることなども記した。
夫が「西ウクライナだね」と言い、私が「ポーランドに近いんですよね」と確認すると、彼女は大きく目を開いて、まあ、ご存じですか、と嬉しそうに笑った。
これからスーパーに行こうとカフェを出て、私は眉に迫るブルクを見上げた。今年の暮れにはまた、砦にはクリスマスツリーが立って華やかな明かりが灯されるであろう。しかし私はもはや、平和な世に生きている、という感懐を抱くことはできない。思うはただ、再び穏やかな時代が来ますように、という希求である。そして、どうかそのために多くの兵士の命が犠牲にされることがないように、という祈り・・・
あの娘さんがドイツ語をマスターしてこの国の暮らしにすっかり慣れるのと、戦争が終わって安全な故国に帰るのと、どちらが先であろうか。
写真はウクライナのリヴィウの町で、これを見た時、私はここがドイツ東北のロストックの街並みに酷似していることに驚いた。ケーニヒスベルクのロシア人もそうだが、このような環境にあるため住民は何のためらいもなく自分はヨーロッパ人と感じているという。彼らの目は西に向けられ、西に憧れているのだ。
それにはこれらの地を支配してきたドイツの影響が大きい。傍若無人の振舞もあったろうが、町の佇まいや建築物を見ればドイツ人はこれらの地に学芸・文化も遺したことが伺える。悪いことばかりではなかった。ドイツ人はもっと自信を持ってよい。ただし、決して奢り高ぶることなしに。
傲慢と卑屈の間を揺れ動く傾向は敗戦の屈辱を経験したドイツ人と日本人との共通点とも言えるが、どちらももっと自然にゆったりと生きることを学ぶ時が来ている。
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