これは 1970 年代半ばに朝日新聞に掲載された有吉佐和子の連載小説の題である。題名通り、そこで扱われているのは当時の日本の環境汚染問題で、果たしてこれが「小説」というジャンルに属するのかという議論は最初からあったようだが、その点は文学批評家や社会問題評論家、その他識者・知識層のみなさんにお任せして、50 年近くも昔の著作を今頃になって読んだのは、はい、ご推察通り、一昨年末に日本人の友人を介してドカッと数百冊を頂戴することになった「孝子蔵書」の中にこの本が入っていたためです。
有吉佐和子の作品は「恍惚の人」を若い頃に読んだことがあり、また新聞連載小説と言うならそれよりも前、学生時代だったと思うが、戦後アメリカ人と結婚して失敗した日本人女性を主人公とした話があった。国際結婚についてかなり詳しい人だなと思い、ずいぶん啓けたというか進んだ女性というイメージを抱いた。さらに、不明な理由で「中断」となった「油屋おこん」という新聞小説も楽しみに読んでいた記憶がある。そうそう「和宮様御留」も読んだっけ。これはちょっと奇想天外なストーリーで、感動とか感銘を受けたわけではないけれど、お話としては面白かった(なのに今では筋をほとんど思い出せない)。
という程度で積極的に読もうという気は私にはなく、孝子蔵書に何冊かある中で悪女ナンタラというのを題名に惹かれて読み、やはりストーリー・テラーとしての腕は凄いな、と思っただけでその他の数冊は「いずれ気が向いたら」と打っちゃっておいた。
だのに今年それも二月になってから「複合汚染」を手に取ったのは、同じく孝子蔵書の中にあった井上ひさしのエッセイのせいである。この作家も、奇才というかユニークな人だとは思っていたが特にファンだったわけではない。たまたまエッセイ集を見つけてこれなら肩も凝らず気楽に読めそうと思い、ほぼ最後まで読み進んだとき「ゴルフ」と題した章にこの「複合汚染」への言及があった。
井上ひさしはゴルフが嫌いである。だろうな、それは分かる。この人、ずっと以前に堺屋太一と日本の米作に関して公開議論を戦わしたことがあり、東大卒で元通産相官僚の堺屋氏がもっぱら経済的観点からコメは輸入すればよいのだから、田圃など無くてもいいという功利的かつ(百姓以外には)受けそうな説をトクトクと述べたとき、農業特に稲作の意義を経済という視点からのみ論じるのは間違いだと反駁していて、それには私も全く同感だった。農村出身者として感謝の念すら抱いた。
そのひさしさん、日本で 70 年代に女性の間でもさかんになったゴルフとの関連で、次のように述べている。
<わたしは有吉佐和子さんの『複合汚染』を愛読した。もっとも愛読という表現は当たらないかもしれない。畏読、すなわち「おそれいりました」と呟きながら読んだ。なぜおそれいるのか。有吉さんはひとりの「母」として、「母なる大地」が人間たちから虐待され、踏みつけにされ、冷たく扱われ、切りきざまれ、ないがしろにされているのを悲しんでいる。その同じ母としての悲しみがわれわれの心を惻々として打つのだ。『複合汚染』はその意味で男には書けない作物であり、だからおそれいり、一読三拝したのである。>
農民・農村の味方である彼がそこまで褒めるなら、きっと優れた作品に違いない。そういえば本棚のどこかにあるはずだ、とすぐに探し出して読んだのだった。
それにしても題名からしていかにも難しく、何となく怖そうではないか。複雑で面倒でどう考えてもスラスラと楽に読み進める書とは思えない。それで途中で投げ出さないためにも予めおおよその内容をつかんでおこうと、これはおそらく邪道であろうが、最後の「あとがき」から読むことにした。
いやあ、びっくりした。「あとがき」の書き出しは普通の読者を対象としているので柔らかく馴染みやすい文なのだが、これを書くに当たって「お力添えをいただいた」専門家の紹介の箇所に、私が個人的に知っている(今は故人なので「知っていた」というべきだが)人物の名前があったからである。
<約十年前から読んだ書物の数は三百冊を越えていますし、お目にかかった専門家もこの十年を考えると何十年になります。そのすべての書名人名を記すのは容易なことではありませんので、『複合汚染』の筆を執ってからの私に全面的な協力をして下さった方のお名前を記させて頂きます。それは東京都立大学の磯野直秀先生と、有機農業研究会の築地文太郎氏、それから NET のプロデュ―サー小田久栄門氏でした。>
私が社会人としての一歩を踏み出した 1970 年代前半の職場は開発途上国援助の財団法人で、そこでは海外から研修に招かれた途上国の若者たちへの日本紹介プログラムがあり、私は当時拙い英語で企業訪問や講義の通訳のような仕事をしていた。講義のテーマの一つに日本の環境問題があって、1960 年代から浮上した企業による環境汚染や公害病を説明するために招かれていたのが東京都立大学助教授の磯野直秀先生であった。
私は英語圏で長く暮らしたことがないので未だに普通の日常英語のニュアンスなどはよく分からず、ぼかしたり行間を読ませたりするような表現は苦手なのだが、語彙を覚え英語の文法に従って文章を組み立てていくことなら少し勉強すれば何とかなる。環境問題の講義には洗練された言い回しや文学的表現などは不要で、専門用語をしっかり覚えてロジカルな英語表現をすれば要旨は伝わる。
当時はまだ今より記憶力もあって、磯野先生の論理を英語で追うことにさほどの苦労はなかった。それを気に入って下さったのかどうか、通訳者はあてがいぶちで他に選択肢はないので我慢しておられたのかもしれないが、講義のあともしばらく談笑したり著書をいただいたりして結構な「仲良し」であった。
70 年代の終わりに私はその財団法人を退職したのだが、ちょうどその頃は磯野先生も私の元の職場に出入りすることは稀になっていた。私がお手伝いしていた当時から既に専門家としてあちこちに呼ばれて相談を受けることが増えていたので、売れっ子として時間が取れなくなったのかと思っていたが、今回調べると「1977年慶應義塾大学理工学部助教授、81年教授」とあり、大学を変わっていっそう多忙になられたらしい。
それよりも、ああ、そうだったのか、と驚いたのは専門が「博物学史」とあったことだ。取り挙げる問題が PCB やカネミ油事故や水俣の有機水銀に関連していたので、私は化学の専門家だと思い込んでいた。
今自分が 20 代・30 代に戻れたら学び直したいと思う分野の一つが博物学史である。ドイツで暮らすようになって、西洋史が好きだった高校時代からの延長線でヨーロッパの文芸や科学の発達の流れを辿ることに関心を持ち、また夫の仕事の関係でドイツの産業・企業史を専門とする教授とも知り合えたのだが、日本で聞くと何とも古い響きの「博物学」という分野には特に心を惹かれるようになった。
近年、私の記憶では 80 年代頃から盛んに聞かれ始めた「学際(interdiciplinary)」というのは、少なくとも部分的にはこの博物学を指すのではないか。例えていえば、化学とか植物学、地学などの専門分野に橋を架けて森羅万象を考える分野。さらに化学物質とコミュニティ崩壊と人間心理などの関係も。人はよく、「私は日本と米国の架け橋になりたい」などと言うが、「私は自然科学と人文科学の架け橋になりたい」という人がいてもいいはずなのに。いや、今にして思うと、磯野直秀氏はそれを目指しておられたような気がする。
今回のブログは磯野先生の追悼ではないから(それにしても 10 年余り前に物故されていたとは)、その人となりや活動はご縁があれば取り挙げることにして、さて、長い前置きのあと漸く「複合汚染」の内容に入ろう。
読み始めていきなり「あれ?」と思ったのは、それが 1974 年の参院選運動で始まっていることだった。有吉女史が応援していたのは市川房枝の秘書の紀平てい子で、市川房枝も出馬していて有吉氏も彼女の支持者だったが、そちらは当選の確率が高いので知名度の低い紀平てい子の応援に連日奔走していた。結局この選挙で紀平氏は落選するが、選挙演説で有吉氏と一緒に同氏を応援していた吉武輝子という評論家が、当の紀平氏と共に街頭演説のつど大気汚染や海洋汚染の深刻さを訴えるのである。
「複合汚染」はそこから公害の話になって、すると選挙の件はいつか背後に押しやられ,米の防虫剤や DDT、水銀農薬などによる汚染が取り上げられることになり、「沈黙の春」で脚光を浴びたレイチェル・カーソンなども登場する。農林省・厚生省の無策あるいは企業との癒着が弾劾され、「一大圧力団体」である農協の功罪についてもかなり詳しく記述されている。
それで選挙の話にいつ戻るかと思っていると、結局最後まで戻ることなく、要するに選挙の件はこの長編小説(実際かなり長い)の導入部として使われただけだったらしい。
私は選挙には関心がなく、率直に言うと、作家連中いや作家の皆様、それも女流作家の方々が特に首都圏で応援演説に走り回るのを苦々しく感じることがある。市川房枝さんは立派だと思う。彼女が生涯独身で女性の自由や権利の確保に尽力したことには同性として深い敬意を抱いているし、彼女をオールドミスの運動家などと馬鹿にする男がいるとぶん殴りたくなる。いや、男ならまだ無神経の言い訳も立つが、同じ女性が「私どもとは違う世界の方ざますわねえ」と馬鹿にしたような態度なのがもっと許せない。そして 70 年代半ばには、私の親の世代にこういう女が非常に多くて不愉快極まりなかった。
一方で私が女流作家の政治への肩入れを快く思わないのは、だいたい誰もが「政治オンチ」のくせして分かったようなことを言うからである。最近では、といっても 2016 年だから 7年近くも前になるが、何とかいう胡乱なジャーナリストが都知事選に立候補し、その応援に並ぶ女性たちの中に澤地久枝や瀬戸内寂聴の姿を見たときにはギョッとした。
彼女たちの作家としての技量は別として、その無邪気ともオッチョコチョイとも見える姿勢には、例えば雲上人のごとき暮らしのハリウッドの大スターたちが民主党候補者を応援するときのような場違いなものを感じてしまう。(クリント・イーストウッドなどは例外的に共和党贔屓で、ハリウッドではかなり蔑視されているらしい。この人が少数派であることを恐れないのは偉いとも思うが、そもそも俳優や作家は住む世界が違うのだから、政治に口出ししない方が賢いのではないか。)もちろんこれは私の個人的嗜好ですけどね。
それで選挙の話題がいつの間にか立ち消えになったことは私としてはむしろ歓迎なのだが、小説の手法としてこれはどうよ、という声もかなりあったらしい。しかしジャンルや手法についての議論はさておき、これが天下(当時)の朝日新聞に連日掲載されたことで全国的に大きな反響を呼び、国民の環境問題への関心を喚起したのは、有吉佐和子と新聞社とのコラボによる大成功の例と言えるだろう。
作者のアプローチを扇情的と批判する声もあって、なるほど大袈裟すぎると思われる記述もあるし、ためにする議論めいた箇所もないではないが、本来こういうテーマで何かを書くときに全てを考慮して「公平な」文など書いていたらパンチの効かないつまらぬ表現ばかりになる。読む側がそのことを承知していれば別に害はないと思う。とはいうものの、ぼろくそに貶されたお役人たちやダークな面だけ強調された企業のお腹立ちのほどは察してあまりある。
扇情的といえば、この作品で当然のように取り挙げられたレイチェル・カーソンの研究とその発表も、ヒステリックだというので米国では称賛・絶賛と並んで企業・体制側から批判が殺到したという。そもそも「沈黙の春」という表題そのものが極めてセンセーショナルで、これは出版社側の戦略が功を奏したともいえようが、日本でもやはり一時は蛍が激減し小川に蜆がいなくなり秋の虫の音もあまり聞かれなくなっていたから、「沈黙」とまではいかずとも農薬で田舎の自然が悪影響を受けていたことは確かである。
農薬や合成肥料のメーカーの言い分としては、カーソン女史の警告を真に受けて DDT の生産・使用を禁止したことで、マラリア菌を媒介する蚊が急増して数百万単位の子供たちが死亡したという統計(らしきもの)があり、それに対してカーソン女史は「全面的に禁止せよとは言っていない」と反論したが、当時のアメリカ政府としては、ではどの程度なら利点を生かしつつ被害を防げるか、と訊かれれば確信のある答えは出せないから、ええい、全面禁止で行こう、となったのだろう。その方が一見カッコいいしね。(特に作家や記者連中からは喝采を浴びる。)
DDT の例に見るように今日ではほとんどのケースが「程度の問題」である。とはいえ、兼ね合いとかバランスいうのは常に難しく、規制する側にもされる側にも高度な理性が求められる。均衡のとれた判断に必要なのは常識・良識・見識だろうが、こうした地味な徳目にほとんど価値が置かれなくなっている今日、細則や規律はどうしてもゼロか百かになってしまう。
またカーソン女史が「沈黙の春」を執筆中に癌を患っていて余命が限られるのを知っていたことも、彼女の書くものを過度に悲観的にしたという指摘もあった。その時期に関してはちょっと記憶が確かではないのだが、だいぶ前に彼女の生誕だか死去だかから何十年、あるいは「沈黙の春」の出版から 50 年とかの記念の年というので、欧米の新聞が一斉に掲載した記事の中に見られた所見である。
いや、こんな風に「複合汚染」を読んだ感想を思いつくままに書いていると脈絡をなくして読む人も訳が分からなくなるから、この著書の要点だけでも整理したいのだがそれが結構大変な作業で困ってしまった。それでひょいと思いついてウィキを見ると、そこに要旨が簡潔に記されていたので、ここにそれを引用して、各カテゴリーについて自分の経験も含めて述べてみたい。(既にだいぶ長くなっているので、かなり省略せねばならないが。)
<本作品は環境汚染問題について社会に警鐘を鳴らすことを目的として書かれた。主な指摘は、
農薬と化学肥料使用が農製品と生態系に与える悪影響、及び有機農業、共栄作物利用の試みの紹介。
界面活性剤を含む洗剤使用の人体及び生態系への悪影響。石鹸がより安全であること。
合成保存料、合成着色料など食品添加物使用の危険性。
自動車エンジンの排気ガスに含まれる窒素酸化物の危険性。
上記の化学物質が生体濃縮で蓄積されていく過程。
化学肥料開発と火薬開発の並行性。化学合成技術の発達と戦争、軍需産業との連関。
である。>
まず、農薬/化学肥料/生態系/有機農業がキーワードになっている件では、特に異を唱えたくなるような説はなく、減反政策の愚かさについては全く同感である。金をやるから何もしないでいてくれ、なんていうのはまるで夜店の屋台のオッサンとヤクザの取引みたいではないか。こういうとき、論理だの倫理だのにやけに拘るドイツ人やフランス人なら「それでは人間としての威厳に欠ける」なんていうはずだが、実際は「何もしないでカネをもらえる!」と喜ぶのは独仏でも同様、いやさらに顕著で、遊んでいる土地はゴマンとある。またこれらの国ではバイオ燃料とかでトウモロコシの栽培を奨励し助成金をはずんでいるため、昔はキャベツや甜菜が植わっていたところが全てキビ畑に変わり、モノカルチャーの弊害を声高に叫んでいた農業学者は今いずこというところだ。
ついでに有吉佐和子さんの書かれた内容で一つ全く気に入らないのは、欧米を手本、とまではいわずとも、日本よりはずっとマシあるいは優良としている点で、私は 70 年代の欧州を知らないから彼女の言う通りかもしれんが、今は全く違いますよ、本当に。
ヨーロッパの野菜が自然の味なんてのも、ちょっと黄泉の国から戻ってきていただいて、普通のスーパーで売られているものを召しあがってほしい。有機農業の野菜の Bio コーナーもあるけどそこの品は 3 ~ 5 割高で、日常の食品を買うときにすら「階層差」を感じさせる国って、それで社会主義先進国といえるのだろうか。
また些細なことだが、有吉女史がホウレン草をサラダにしたエピソードで「日本人はホウレン草は茹でるものだと思いこんでいる」と批判がましい口調なのも気にくわない。ホウレン草のサラダは私も昔ロンドンで初めて食べた。若い葉ばかりなのでマイルドでえぐみがまるでなかった。今でも日欧のホウレン草に含まれるシュウ酸の量には土壌による差があるはずだが、特に 4 ,50 年前の日本のホウレン草にはシュウ酸が多く、少し尿酸値の高い人には生はもちろん茹でたものも禁じられていた(父親がそうだった)。かように、作家という人種の多くは、やはり普通の世間には疎いらしい。
生態系に関しては、青春期からはその自然にあまり注意を払わなくなっていたので自信をもって言えることは少ないものの、面白いことに昆虫の中でも蝉の喧しさときたら、多分西洋人にとっては常軌を逸していて、沈黙を恐れたレイチェルさんに聞かせたかったと思う。普段は東京にいた私も 2000 年まで毎年夏には帰省して実家で過ごしたから、これは証人台で誓うことができる。
庭中に響くその凄まじい声で毎朝眠りを破られ、ほぼ一日中静かな時がない。蝉が不活発だった年も一度もない。(甥がガキの頃に何十匹も捕まえて来て並べるので、「あんた蝉の佃煮にでもするつもり?」と言ったくらいだが、昆虫食の出現でそれはジョークではなくなってしまった。)レイチェルさんと佐和子さんの説を聞いてふと思ったのだが、DDT を使い過ぎるとその毒に耐性のある蚊が新たに発生して以前より多くの殺虫剤を使わねばならなくなる、というなら、蝉なども少々の化学成分などすぐ慣れてしまい、一向に声も体力も衰えないのかもしれない。
それから、わが陋屋では蜘蛛がすごい。私は子供の頃から見慣れているが、都会の親戚や友人が来るとしばらく大騒ぎになる。蜘蛛がいる場所は清潔、と昔から大人に聞かされていて、それについて科学的な根拠は聞いたことがないけれど、要するに蚊や蠅やゴキブリの子供を食べてくれるということらしく、「複合汚染」の中でブヨだかウンカだかを退治するには農薬を使わず畑に蜘蛛(地面を這う小さめの)を増やすと良い、とあるのは納得である。
有機農業の緑肥や、ここには言及されてない刈敷農法といわれる古い農耕については見聞きしていて私なりの意見があるが、長くなるから省略する。
次は界面活性剤と石鹸の話。これは任せてください。石鹸の活用はもう 50 年近く前から実行しております。
怠け者でだらしなくて掃除が嫌いな私でも、一人暮らしとなれば洗面所や風呂場の掃除は自分でせざるを得ない。それでトイレ用の洗剤を買いにいくと主に塩素系を売っており、使用前の注意というのが煩雑で、また使用中は塩素を吸わないようにとか何とか脅しみたいな指示ばかりである。
こんなものは御免だと買わずに帰って石鹸を使うことにした。それも浴用石鹸なので害はない。汚れも十分に落ちる。洗面台の、何かがこびりついたような箇所は練り歯磨きを使ってこする。市販の合成洗剤を使う必要は全くなくて、なんであんなものを売っているのかと不思議に思ったほどだ。「複合汚染」には洗濯石鹸の粉をお湯で溶かして、とあるが、私は小さくなった固形石鹸を濡らしてそれを擦り付けるだけ。
しかし洗濯はスーパーで売っている洗剤だったから、もしかしたら界面活性剤のお世話になっていたのかもしれない。これもまあ、程度問題であろう。
合成(つまり原料に石油を使った)保存料、着色料などの食品添加物については、通常は一定期間の保存のきく漬物やハム・ソーセージ・練り物にはほぼ必ず使われていて、それが全く使われない漬物が欲しければ、有吉女史が見つけた京都の特別なすぐき屋などで取り寄せるか、自分で漬け込むより他はない。日本人は漬物が大好きで、それもかなりたくさん食べるので自宅で漬けるのが最も望ましいが、昨今は田舎にもそんな主婦はいない。
わが自衛策は要するに、たくさん食べないこと、である。ドイツに来てうんざりしたのがハム・ソーセージの類の多さで、スイスでも肉の燻製など一見おいしそうな品をいろいろ売っている。有り難いことに夫はそういう加工品を好まないので(その代わり柴漬けやべったら漬けが好き)、滅多に食卓には載せない。ただ、ドイツでは病人でも妊婦でもせっせとソーセージを食べるのに、だからといってその被害を耳にすることはないし、平均寿命も日本とあまり変わらないし、アトピーその他のアレルギー体質の子も日本に比べて特に多いわけではない。ちょっと問題だな、と思うのは ADHD(注意欠陥・多動性障害)の子が日本に比してかなり目に付く点で、これは食品添加物ではなく食生活そのものに原因があるように思われるが、素人の分際であれこれ言うことは控えよう。
それより、余りに神経質になって食品を制限し過ぎる方が遥かに有害であると私は見ている。私の妹は主婦の鑑たらんと頑張って自然食品に凝り、ちょっとした持病を抱えていたので合成着色・保存料には異常に厳しく、そして菜食主義に傾倒して、亭主と子供にやかましく言うことはなかったものの、自らはしばしば肉・魚類を断っていた。私は彼女の体力減退を恐れて、ある程度は動物性蛋白も必要だと注意したのだが。結局、一度は脳内出血、そして二度目は脳幹出血で、その二度目の発作からは回復しなかった。血管が弱かったらしい。
また昨年の秋に 74 歳で逝った 40 年来の友人はわが妹の 5 倍くらい神経質で、最後( 50 代から)は外食を一切しなくなっていた。何が入っているか分からないというのである。そして野菜や味噌・醬油の類もどこかの組織から「有機」の品を取り寄せ、ご飯は玄米のみ、一度泊めてもらった友人が食事のあまりの不味さに閉口したそうな。同時に、痩せこけて 10 歳は老けて見える、というのが友人たちの評であった。
古希を過ぎて股関節炎で足が不自由になったのに、西洋医学は信用しないと病院にも断固として行かず、結局ある日突然に大動脈乖離とやらで亡くなってしまった。これは恐ろしい苦痛を伴うそうだが、足が悪かったので電話を架けに行くこともできなかったのだろうと仲間うちで話した(携帯も PC も持っていなかった)。この場合も血管の脆さが原因らしい。
ここで添付のグラフを見ていただきたい。5 ,6 年前のもので、1970 年代から 2000 年代にかけての主要先進国(米国、ドイツ、日本、韓国だったと思う)における4大病(心臓循環器系、癌、糖尿病、脳血管系疾患)の推移を示している。多少古くても、問題は全体の傾向だから支障はないだろう。赤茶色の線が日本である。この中で注目すべきは 4 つ目の脳血管系疾患のグラフで、ここに見るように 1970 年には世界で断トツに多かったのに、3 ,40年で他の先進国と同じレベルにまで下がった。
このグラフを示した新聞記事は保存していないのでどこの国の報告だったか記憶にないのだが、強調されたのは「 70 年代以降に動物性蛋白質を多く摂るようになって、日本人の間では脳梗塞や脳溢血などが激減した」という点だった。普段私が考えていたこととぴたり一致したので、このグラフだけ取っておいたのである。私の子供の頃は、「中風」の片麻痺で寝た切りというお婆さんが村に多かったもの。
いやあ、こんなに長くなっちゃって申し訳ない。それも聴いていただくだけの中身もない、個人的な感想ばかりで。でももう始めちゃったのだから、大急ぎで自動車の排気ガスに含まれる通常 NOⅹと呼ばれる窒素化合物の話に移ろう。有吉先生はそれを減らす新しいエンジンの技術開発にも興味をもっておられ、特にホンダの CVCC についてはじきじきに本田宗一郎氏から講釈を聴かれた由。本田氏が触媒に懐疑的だったというのも興味深い。
私は以前にプラチナ関係の仕事をしていて、それで南アまで出かけたのだが、その途中で英国に寄って触媒用プラチナ系金属(イリジウムやパラディウムを含む)の研究所を見学した。ただしその仕事の主眼は装飾品としてのプラチナの広報宣伝だったので、日本人の女性社長が「科学的な用途というなら代替物があれば事は足りますが、宝飾品の合成・化合物というのはありえませんからね」と言うのを聞いて、なるほど、女は永遠の固定客なのだなあ、と感じ入ったものである。
窒素に関しては排気ガスだけの問題でなく、肥料としての用途も人類の存続に関わるほど重要な元素だそうで、これは有吉先生の著書からはずれて僭越だが、https://www.sankei.com/article/20230118-DKHRXENEQZN5HJZ46NME3NR4PUの「長辻象平 ハーバー・ボッシュ法 窒素と化学が人類の運命変えた」が参考になります。
最後の「化学肥料開発と火薬開発の並行性」についても、同様にリンクで済ませてしまおう。(昨今は便利なものができて誠にありがたい。)
https://diamond.jp/articles/-/264567 ドイツの「化学兵器の父」の悲惨すぎる末路
これは一部ハーバー・ボッシュ法とも重なるが、この記事が掲載されている「ライフ・社会世界史は化学でできている」シリーズには、学者にとって世界最高の栄誉とされるノーベル賞の創始者の裏話などもあって、大抵の人が無条件で信じているらしい「人類の平和」というものの脆さ・薄っぺらさを感じてしまう。
ホントにもう、いい加減にしろよ、という声が聞こえてくるほど長くなってしまったが、弁解させていただくと、私は来週には日本に帰って長いブログを書く時間もなかなかないと思うので、通常の倍の長さをご容赦下さい。
いけない、生物濃縮(bioconcentration)のことを忘れていた。その説明はウィキで読めます。この言葉で私は磯野先生の水俣病の講義を思い出すとともに、石牟礼道子さんに「苦海浄土」という有名な著作があるのに未読であることに気がついた。この機会に日本で入手して読んでみよう。石牟礼氏もまたしばらく前に泉下の客となられたのだけれど。
それにしても、有吉佐和子という人は凄い作家だと、私も井上ひさし同様に深い畏敬の念を抱いた。それで、これまた今頃になって読んだのが「華岡青洲の妻」、1966 年の作品ですって。57 年も昔の小説だが、心にずっしりと来る内容で私は夢に見てしまったほど。手術の麻酔に使われる毒草・薬草の話など実に面白い(写真は「気違い茄子」と呼ばれた毒草)。作家・演出家であり日本の伝統文化への造詣も深かった佐和子さんにはリケジョの要素も大いにあって、いわば万能人。一方で、映画で華岡青洲の母を演じた高峰秀子が語る才女有吉佐和子の素顔は子供っぽく、ペーソスが漂う。俳優も作家も、そりゃ、一筋縄ではいかないものだ。
毎回エールをありがとうございます。
以前、何の話からだったか忘れましたが、いちまるさんが食品に関しては「いろんな物を少しずつ、という方針です」とおっしゃっていたことがあり、全く同感でした。アンチ化合物派に対して、ある人が「少々添加物が入っていても、腐った豆腐を食べるよりはマシだろう」と言ったそうで知識層が怒っていたことがありますが、消費者としてはそういう心理もあるでしょう。
この本の中で、添加物は危険だというが、そういう食品を食べながら今の人達は昔よりもずっと長生きしているではないか、という議論に対し、有吉さんは「それは数字のトリックというもので、医学の進歩で乳幼児の死亡率が格段に下がったため平均寿命が延びたように見えるだけ」と言っています。そういう側面もあるけれど、それだけではありません。
このところ、大正から昭和初期に生まれた作家の小説やエッセイを読んでいると、老爺・老婆が出て来てものすごく年取った人描かれていますが、それが60歳~70歳だったりする。1970年代・80年代にも未だ60歳を過ぎた人はそういうイメージだったのが、今は本当に元気で、まだまだ「使える」人が多い。縁側で猫と一緒に居眠りしている70歳のお婆さんなんかいませんよ。
食品が人工的になって癌が増えた、と言う人もいます。確かに癌患者の割合は増えていますが、医師の説明によると、70代、80代と癌ができる確率は上がっていくので、死亡原因として癌が多くなるのは当然だそうです。
人は何らかの原因で必ず死ぬのだから、癌の新たな治療法が確立されて治癒する比率が高くると心臓病や糖尿病で死ぬ割合が増え、今度は「心臓血管系の疾患と闘おう」という声が高くなるはずです。
健康志向は結構ですけど、健康であるために生きている、となると、時にはそちらの方がよほど不自然に思えることもありますね。
いやー今回はいつもの快刀乱麻に加えた圧巻でしたね…複合汚染はトレーサビリティーが徹底されてきているとは言え、だからどうしたという一面がありますね、つまり必要悪…妥協して使う方が便利。
自然科学と人文科学の架け橋になりたかったお知り合いの学者の方、素敵ですね、人間も自然そのもの(のハズ)、なので2つの分野の乖離が不自然に見えたのだと思います、まずその方の人間への信頼性に感動いたします、そこに理解があったからこそ、びすこさんとも親和力が働いた。
クモは子供の頃小さな庭があってそこに捕まえてきたクモを飼っていましたが、咎められたので庭に放したら、翌朝見事にあちこちにクモの巣が張っていました。直前に住んでいた家の中には家グモ?が室内に散見できましたが益虫なので放っておきました。クモが1度に何千匹も生まれるとは思ってもいませんでした(僕にはそう見えました、詳細略)
固形石鹸は台所に必ず置いてあります。歯磨き粉はうまい使い方ですね、僕は歯を磨くのに何も使いませんので手元にありませんけど。
ADHDはもはや人間の特質と言って良い位一般的なものだと思っていて、誰もがその成分を持っていると、僕は個人的にふんでいます。
いや〜今回も面白かったです、「今ここ」を問題にできるのは若さだと思います、まぶしいような若さ、煮えたぎるような情熱、、それらに一切無縁な僕は降ります、あはは、笑っている場合ではありませんが…今回も楽しく気楽に(問題は複雑かつ深刻ですが)とても大切な点を指摘してくださったので勉強になりました…本当にありがとうございました、、あ、びすこさんからリレーしてくださるクレマチスさんにもこの場をお借りして日頃のお礼を申し上げます…いつもありがとうございます❣️