「流離譚」を読む-序―ドイツの黒い森から 65(びすこ)
- クレマチス
- 1月2日
- 読了時間: 11分
きっかけは私が古民家、それもできるだけ身近な(高知)県内にあって保存されている、庶民の古い家をネットで探してみたことだった。これは、自身の家が 100 年以上とかなり古く、ここ 14, 5 年で屋根の葺き替えを含め何とか修理・修繕したものの、親戚を含む近隣の住まいにも同じくらい古い、というか古びた、家があって、その一部が半ば朽ちかけているのに何とかならないものかと密かに心を痛めていたせいである。
私の関心を知ったわけではないが、コロナで日本を出られなくなった 2020 年の初秋に、亡妹の連れ合いが県東部の小さな町に連れ出してくれた。いや、実際は彼が私を連れ出したのではなく、妻の急死から間もない彼の精神状態を案じてその悲嘆を何とか紛らわせようと室戸市にある魚料理で有名なレストランに誘ったとき、それならそこまでの途中にある町に寄りませんか、というので案内してもらったのだった。
この町のことは以前から耳にしており、純和風の母屋を改造して民宿を経営し敷地内の蔵はカフェになっている家もあるという話だったのだが、これが何となく時の「ハヤリ」に乗っているような印象で敢えて足を運ばずにいたのである。
別に期待もせずに行ってみると、都会的な風貌の初老の夫妻が営むその宿もすっきりしてよかったし、明治・大正時代からという郵便局や呉服屋の建物(虫籠窓とか海鼠壁とか)にも風情があったが、同時に周辺にある土塀やユニークな石垣が大いに気に入って、帰宅して調べると久しい以前から県の文化財になっており、かつて豊かな山林を背景に備長炭で栄えた町全体が国の「重要伝統的建造物群保存区」に選定されていると分かった。
それから 2 か月ほどして私は何とかドイツに戻れたが、古民家や歴史的建造物への関心は変わることなく、コロナでの外出制限が続いていたこともあって暇に飽かせてネットであれこれと検索を続けた。そんな中で見つけたのが、安岡章太郎の先祖の家である。
その家は香南市(かつての香美郡)の山北というところにあって、私の郷里と高知市の中間地点に当たり、わが家からは車で 2, 30 分の距離である(これは時速 5, 6 キロで走った場合だから、ドイツなら 15 分以下で着く)。山北という地域はミカンの産地として県内でも有名で、またこの辺りには知り合いが何人かいて夫の業界とも縁のある企業を彼と訪ねたことがある。山や森の好きな夫は緑豊かなこの辺りを大いに気に入って、是非また来ようと言う。私の郷里の村同様に、ここは三方を山に囲まれ一方が海に向かって開いた、一見長閑な土地柄である。
安岡章太郎が高知の出身であることは若いときから知っていて何冊かその作品を読んだこともあるのだが、内容は全く覚えていない。またその父祖の地がわが家からさして遠くない沿岸地帯にあるということも、初耳であった。ただ、彼の風貌は土佐人の典型の一つとも言え、その点に何となく親しみを感じていて、「第三の新人」と呼ばれるグループに属することにも多少の関心はあった。(ついでに、このグループのメンバーではないが彼と親交のあった三浦朱門も、その父親の代までは高知の人である。)
写真ではその家は長い塀に囲まれた大きなお屋敷のように見えて「古民家」などという風情からは程遠く(写真 1 )、説明に番屋とか御成門とかあるので、はて、これは武家屋敷なのかと思ったが、それは当たらずとも遠からず、先祖は郷士だったそうである。郷士については後で触れるが、その家の佇まいには威厳があり、といってよそよそしくはなく、土佐ならではの風土のせいか一抹のなつかしさを感じさせる。調べると、どんな契機か 2005 年に重要文化財に指定されたという。当時は相当痛んでいたらしく、それから数年して復元工事が始まり 2019 年に工事が完成したとある。

本格的な工事の開始は 2012 年というから、あるいは章太郎の死去に促されてのことかと思ったが、彼の没年は 2013 年なので存命中に既に着工していたわけだ。2019 年に完成となると、私が日本に閉じこもっていた 20 年には今の姿になっていたはずなのに、県のニュースでもなぜかそれが話題になることはなかった。とにかくコロナ・コロナで朝から晩までテレビ番組もその報道ばかりだった時期である。
さて、ドイツに戻ってしばらくして新装なった(?)安岡家の邸宅をネットで見て、義弟に電話でその話をすると、彼は大いに興味をそそられたらしかった。というのは、彼も妹が脳梗塞を患ってからは彼女を連れて横浜から同郷の田舎に車で帰ることが増え、そしてその田舎での妹の他界を機に父親の死後荒れていた自分の実家を、一部は自ら大工仕事をして少しずつ改築し始めていたからである。
妹の没後は、1 年の大部分が留守宅になっている彼女の実家つまり私の家の管理を進んで引き受けてくれて、ちょっとした工事なら私が 14, 5 年来懇意にしている工務店を自分の判断で呼んだりしていた。
それでコロナの災厄も一段落した 2023 年に、安岡章太郎の先祖の家を 1 人で訪ねたそうである。その年の春、私も 2 年半ぶりに帰宅したのだったが、第一の目的は父の没後 30 年の集まりで、そのうえ久しぶりとあって訪ねて来る人がやたら多く、役所での手続きや細かい雑用が山のように溜っていて、章太郎の家のことはすっかり忘れていた。
義弟の方は、私が再びドイツに戻ったあとでゆっくりその家を見に行き、本来なら見学日を予約しなければならないところ、たまたま開いていた門から覗くと 70 代と思しき男性が庭掃除をしていて、あれこれ質問すると丁寧に応じてくれたという。そして章太郎の親戚筋と思われるその男性は、安岡一族の、特に幕末から明治という激動の世に命を散らした同家の若者たちを描いた小説「流離譚」に触れ、この本について自分が解説書のようなものを作成していることも口にした。そのうち彼の奥さんも出て来て、車がないので出かけるにも不便をかこっていると聞いた義弟は自分の車を出し、取りあえず夫妻が済ませたい所用の処理を手伝ったそうだ。
そのあと昨年( 2023 年なので今では一昨年になるが)の暮れだったか、またも電話での話で「『流離譚』を買いましたよ」と言うので、私の方は、おやおや、熱心だこと、程度の反応しか示さなかったが、今年(いや、昨年 2024 年)の初秋の私の帰国前にあれこれ打ち合わせをしていた中で、「今度は安岡章太郎の家を見に行きましょう」というので、それもいいわねと同意した。
さて、昨年の帰国中の 10 月初頭に自宅で転んで折ったあばら骨も 2 週間ほどでくっつき、それで遅れていた赤十字病院での 3 回にわたる健康診断もようやく終えて一息ついていたある日、午後イチで義弟が「安岡邸に行きましょう」とやってきた。彼の言う通り、車であっという間だった。
行ってみると写真の通りの立派なお屋敷が眼前に広がっている。その手前には意味のなさそうな池を囲んだ芝生があり、そこに大きな白い石が置かれて「流離譚」と彫られているのにちょっとたじろいだ。小説「流離譚」はトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」やその影響下で書かれた北杜夫の力作「楡家の人々」のように一族の歴史を語っている(らしい)から-つまり欧米でいうところの「サーガ(Saga)」なのだから―その家の前にこんな碑が鎮座ましましているのも「むべなるかな」などと思いつつ家を見やったが、どの門も閉まっていて中を覗くことはできない。
特にどうしても内部を見たかったわけではないので(それなら指定の見学日に来ればいいこと)、ざっと見渡して帰ろうとすると、義弟が「中に誰かいそうだから、ちょっと見てみよう」と塀の上から覗く。彼はわが亭主ほどではないが 6 尺余りの大男なので、背伸びをすれば漆喰の塀越しに庭が見えるのである。そして「あ、います、います、例のおじさんが」と私に小声で告げてから、「こんにちは~、○○です」と大声で挨拶した。
向うもその声で前年に遭った人だと思い出したらしく、「入って下さい」と言ってくれたので左側の正門を開け、目の前にちょっとした空き地を見ながら右手の塀重門からその男性が苔の掃除をしている庭へ入った。その前にやや意外だったのは左手にある住居らしい建物で、台所用品や洗濯物が見えるところから、ここの管理人のようなことをしているその男性の住いらしかった。別に散らかってはいないけれどいかにも普段着という感じで、屋敷全体の重厚な佇まいとは少しばかりミスマッチのような気がしたのである。(添付の家の見取り図を参照。)

今回は顔を合わせなかったが、この人の奥さんは義弟が言うには気さくで明るい婦人で、その彼女が「何しろウチの亭主は人見知りがひどくて不愛想で」とこぼしていたそうだが、自分から進んで話しかけたり話題を見つけたりする人ではない代わり、こちらの質問には一つ一つきちんと答えてくれて、得たい情報は手に入れることができた。
まず「普段こちらにお住まいですか」という問いに、いや、自宅は東京の杉並です、とのことで、定期的にこの家の手入れに帰省しているのだという。安岡章太郎とどういうご関係で、と訊くと「章太郎と私の親爺が従弟同士なんです」ということだった。つまり、章太郎とこの男性の父親とは共通の祖父母を持つわけである。そして後日「流離譚」と解説書を読み、家系図を見て確認したところでは、その祖父もだがとくに祖母に当たる人が未亡人になって後も家屋敷の維持管理に労力を費やしたという。
御親戚はほかにもいらっしゃるでしょうに、お一人でこの大きな家を守っておられるのですか、という質問にこの人は「呆れた」というニュアンスを聞き取ったのか、「そんな暇つぶしをするバカは私くらいのもので」と自嘲するようにつぶやいた。後述するように本家、お上(うえ)、お下(した)(それがこの屋敷)、お西と分かれる安岡一族の親戚の正確な数は今では不明ながら、この正俊さんの父親で章太郎の従弟にあたる壽雄さんは 6 人兄弟姉妹だったので、その人達の子供が交代で手伝えば正俊さんの労も軽くて済むだろうに、しかし彼は彼で、一人もくもくと 800 坪を越えるこの屋敷の掃除や片づけに精を出すのを生き甲斐としている風でもあった。
侍か郷士か知らぬが、こんな大邸宅を構えるほどに安岡家が栄えた理由を訊くと、「金貸しです」という。「へええ。うちの先祖も酔っ払いや女好きにお金を貸して、そういう人はたいてい返済できなくなるので、担保の田畑で土地を増やしていったらしいです」と言ったら、「それとはちょっと違って、百姓の租税の立て替えを高利で引き受けていたんですね」とのこと。旱魃や冷夏に収穫を大きく左右される気の毒な農民を食いものに・・・(このことは「流離譚」でも触れられおり、そのやり方に、古代ローマの植民地ユダヤでローマの役人に代わって同胞から税を徴収し蛇蝎の如く憎まれた「取税人」が頭に浮かんだ。)
上に章太郎・壽雄さんのお婆さんに当たる女性が「お下」の家を守ってきたと書いたが、その嫁で壽雄さんの母親である安岡佐喜さんも夫秀彦氏亡きあと孤軍奮闘し、さらに壽雄さんの妻の富美さんがそれを継いだ。その苦労のほどを近所の人たちが見かねて手を貸すようになり、今は「山北文化の会」が設立されそのメンバーが安岡家とこの地域の歴史の語り部の役割を担っているという。
章太郎たちのお婆さんは又彦という癇癪持ちの夫によく耐え(幸か不幸か彼は 40 歳前に亡くなっている)、一家が頼りにしていた息子の秀彦氏つまり章太郎の伯父さんはガンコで人づきあいのよくない性格だったよし。そしてその長男で正俊さんの父親の壽雄さんも至って口数が少なかったというから、私の質問に嫌な顔一つせず答えてくれた正俊さんは、代々の無口遺伝子に打ち克つべく彼なりの努力を重ねてきたのかもしれない。
なお、安岡章太郎には娘さんが 1 人いるだけで、ロシア文学研究者として知られる東大名誉教授のこの令嬢は独身なので、章太郎の直接の血筋はここで途絶えるわけである。
さて、義弟は前回見せてもらった蔵の中の展示物についてもあれこれ尋ねていたが、午後の陽もやや傾いて来たし、これから家の中を案内してもらうのも正俊さんの手を止めることになるので、「またゆっくりお邪魔させて下さい」と言ってその屋敷を後にした。
帰途の車の中で義弟が、「実はね、『流離譚』、とてもスラスラ読めるような本じゃなくて。歴史上の人物とか地名も面倒だけど、人間関係が複雑すぎて分かりづらくて、途中で読むのを諦めちゃったんですよ」といたずらっぽい口調で告白するがごとくだった。もともと彼は特に歴史が好きというわけではなく、彼の息子と私が世界史の話などしていても「さっぱり分からん」とこぼし、その言い訳に「大学入試のための社会科の科目は政治・経済だったから」などという人だから無理もない。若い頃に司馬遼太郎の「坂の上の雲」に入れ込んでいたことは知っているが、本来の興味は専ら古い建築物の方にあるのだった。義弟は「でも義姉さんなら読めるでしょう、貸してあげますよ」という。
それから何日かのち、11 月半ばに私が離日のための荷造りをしていると彼がやってきて、これが「流離譚」です、とケースに入ったハードカバーの本を 2 冊と、例の正俊さんの「解説書」(「流離譚を隙間から覗く」という題がついている)を差し出した。そのときは中身を覗きもせず、そのままスーツケースの隅に入れて持ち帰り、帰独後すぐ夫に風邪をうつされたためもあって、分厚い上巻をやっと開いたのは 12 月になってからであった。
びすこさんの待望のブログが再開されました。今回は、本文の補足と気になるドイツとびすこさんの近況報告にもなっているメールの一部をコメントとして以下に引用させていただきます。引用者の独断でメールに手を加えていることをご容赦ください。
Cさま
まずは明けましておめでとうございます。こちらは丘に残る雪に注ぐ日光もあって、元旦の一日がのどかに暮れようとしています。
ご無沙汰しております。お変わりありませんか、お元気でご活躍らしきご様子は大村さんのフォーラムから拝察しております。
私の方は、大村さんのフォーラムでも、春硯さんのブログへのコメントにも書きましたように、9月から 11 月まで 2 か月あまり日本に居ましたが、その前に夫の会社が不況と政府の(不)経済策の煽りを受けて、会社の資金繰りが行き詰まったため、夫が日本に同行することはもちろん私一人の帰国さえ危ぶまれる状況でした。といって、彼のそばにいてもできることはないのでとにかく帰ったのですが、数か月のフラストレーションを忘れるには良い旅でした。
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今年二月には予定外の国政選挙が実施され、今の政権が発足した時に私が夫やその仲間に断言したように「 4 年持たない」という予言が当たりましたが、それならもっと早くに潰れて欲しかったという思いです。春以降どうなるか、その点は予測がつきません。世界経済の牽引役と言われた中国も、欧州の経済の基盤と言われたドイツも、ともに疲弊していて、どうすればこの事態を打破できるのかは、予言の好きな私にも分かりません。
・・・
そんな日常の中で読書は相変わらず最大の娯楽で、最近久しぶりに「取り組み甲斐」のある書物を読んだので、記憶に留めるためにも感想文を書きました。そしてもう長いことブログとご無沙汰していることを思い出し、今年はこの「作文」から始めてみることにしました。
クリスマスを過ぎて書き始めたら、いつの間にかどんどん長くなってしまったので、序の部分も含めて三回に分けてお送りします。
今回はとりあえず「序」だけお送りして、後二回分は少しチェックしてからまず一週間後、そのまたあと一週間後にと考えております。
読んで下さる方を退屈させそうな箇所もありますが、高知をご存じのC君なら一部共感をもって下さるかもしれません。ご先祖が土佐人ではなく、他所から(兵庫県だったでしょうか)来られたと伺ったことがあり、私の方は自分は生粋の土佐の人間と思っておりましたので異国ならぬ異県の血を持つ方に「ほう」という感じでしたが、探ってみると母方も父の祖母方もどうやらもとは本州の人間のようです。
そんなルーツについても改めて考えさせられた読書体験でした。
・・・