事の始まりは、今年 6 月にドイツのゴールデンウィークをアルザスで過ごした時、ホテルの朝食の席で地方新聞の隅の小さな記事に目を留めたことだった。そのホテルは農家を改造した絵画のような宿で部屋数も少なく、従って朝食の際にも多くて 12, 3 人の同宿者に会う程度、それも圧倒的にドイツ語の話者が多い。ドイツ系名字を持つ宿の主とその家族ももちろんバイリンガルで、独仏それぞれの長所を取り入れたような経営ぶりである。インテリアや庭の佇まいにも心を洗われるが、何よりもビュッフェが素晴らしく、そして食堂の一隅にいつも DNA というアルザスの新聞が置かれている。
最初にこの名前を見たときには、DNA ってまさか遺伝子の新聞じゃないよね?と半分ジョークのように思ったのだが、Dernières Nouvelles d'Alsace(英語に訳すと latest news of Alsace)の略語と知って納得した。私のフランス語のレベルは初級者、いや多分入門者のそれであるが、古い日本人の典型として「聞く・話す」より「読む」方に重点を置いており、新聞の見出しや簡単な記事なら理解できる。
その DNA の新聞を初めて手に取ったのはもう 10 数年前に別のホテルでのことで、近年贔屓にしているこのホテルを当時は知らなかった。それもやはり朝食時に、先客が開いたまま残していった娯楽欄には派手な格好をしたジョニー・アリディの写真があり、その彼がアルザスでコンサートを開くというニュースだったから見出しだけで十分だった。ジョニー・アリディ、団塊の世代であれば、「アイドルを探せ」で大人気を博したかのシルヴィー・バルタンの元夫、程度の知識はあるだろう。
だけどシルヴィーもその数年後に亡くなったジョニーもこの際関係ないから飛ばして、さて今から 3 か月ほど前に DNA に目にしたちっぽけな記事の題は Quand Taiwan était japonaise(台湾が日本のものだった頃)とあり、それは最近フランスで出版されたばかりの、台湾人を主人公とした本の批評であった。
台湾は私の母の生まれ故郷なので一般の日本人よりも少しだけ関心が高く、また知り合いの何人かの台湾人や夫の同業者がいずれも至極まともな人たちであることもこの国への好感につながっている。しかし、私がその批評を読んだ動機は「台湾が日本のものだった頃」という表題で、フランスの新聞のことだから、自国の歴史の暗部を棚に上げて日本の植民地政策と台湾の扱いにイチャモンをつけるつもりだろう、とカチンときたためだった。つまり、こっちも相当ツッパリ気味だったわけだ。
フランス人というのは一般に、保守的な道徳観を持つ日本人から見ると「恥知らず」の傾向が強く、もう千年も昔から自由で平等で兄弟愛にあふれた人民みたいなことを言うが、内情を知れば知るほど、これほど差別意識が強く人間嫌いな人々もいない、と思えてくる。その差別意識は必ずしも黒人とか茶系とか貧乏人などに向けられるのでなく、いわばほぼ全人類を標的にしており、黄色も嫌いだし金持ちも憎悪の対象になる。つまり、どいつもこいつも嫌いなのだから「差別」には当たらない、というのがフランスでは衆目の一致するところらしい。
EU 圏内ではここ数十年ドイツの後塵を拝していた感のあるフランスだが、女帝メルケルがいなくなると自称ジュピター神のマクロンは俄然張り切って洋の東西を駆け回り欧州の指導者としてのアピールに余念がなく、手始めにアフリカの旧植民地を手懐ける策をかなり大がかりに展開した。ところがこれがことごとく裏目に出て、それでなくてもマリとかセネガルとか欧州人の常識では対処できない国に「保護者ぶった傲慢な態度」(現地人の弁)で接しているそうで、要するに植民地時代と何ら変わるところはない、と総スカンである。
であるから、日本の植民地政策を非難するなどお門違いもいいところだぞ、と思いながら読んでみたら、そういうイデオロギー的な評はなくて、米中の敵対関係の中に投げ込まれた人口 2 千 3 百万(多いなあ)の島国の運命に同情的な、まあ昨今の国際世論に沿った論調であった。
本の題名は直訳すると「台湾の息子」、つまり20 世紀前半から台湾と運命をともにしてきた実在の庶民の話で、主人公の蔡焜霖は 1930 年生まれ、1944 年に日本帝国軍に入隊したというのだが、書評では戦後の蒋介石指導下での台湾の混乱ぶりにも触れ、日本に敵対的な書きぶりではない。それより何よりユニークなのは、その一市民の伝記が漫画(最近はコミックというそうな)の形をとっていることである。私は一部を除いて漫画とか、まして劇画など大の苦手なのであるが、「悪口しか言わない」と私が信じている(偏見はあるにしても微量)フランス人が挿絵を「簡素でピュアな」と評していることから、それなら読んでみよう、と思った。
その Le Fils de Taiwan はフランスで刊行されて間もないというので、フランスの出版物ならドイツからでも注文できるだろうと帰宅してから調べると確かにそれは可能であった。しかし、まてよ、これはひょっとしてドイツ語版も出ているのではないか、と見ていくと、はい、ありました。題は少しばかり翻案されて Tsai Kun-Lin Der Junge, der gerne las(蔡焜霖-読書が好きだった少年)となっている。
さっそく取り寄せ、届いた本をぱらぱらとめくったら、漫画は優しいタッチで刺激的ではないのが気に入り、ところどころにある説明文も難しくはなさそうだったので安心したこともあって、そのうちにと積読にしてあった。ただし、積む前に作者の略歴を見ると、伝記の著者(游珮芸)は女性で台北の国立台湾大学を卒業したあとお茶の水女子大学で博士号取得とある。イラストを担当したのは今年 50 歳になる台湾南部出身の男性であった。
すぐ読めるさ、と軽く考えていたのだが、そのうち夏休みに入ってイベントが続き、また妙な推理小説のシリーズやら溜まっていた新聞記事の切り抜きやらを読むのに忙しくてそのままになっていた。それが、8 下旬 24 日か 25 日の日付だと思うが、KBC でのLINE でクレマチスさんが台湾のことに触れていたので、あ、そうだ、あのコミック(私はむしろ「絵本」と呼びたい)を読まなくちゃ、と思い出した。クレマチスさんが取り上げていた二峰圳というのも、日本人の尽力で建設された地下ダムというから日台親交のシンボルとも言うことができ、「台湾の息子」* 蔡焜霖の物語と無縁ではない。さらに、その計画立案者が台湾製糖に勤務していた人物というのが、何となく親しみを感じさせた。そうだろう、台湾の気候ならサトウキビの栽培は盛んだったはずだ。
(*仏訳と独訳では題が異なり、また後述のように日本語訳では「台湾の少年」となっているので、以下本のタイトルを「台湾の少年」とする。)
夏休みが終わってもまた外出が重なって、やっとこさ絵本を開いたのは 9 月に入ってからだったが、読み始めて間もなく、蔡焜霖の子供の頃のエピソードに甘蔗つまりサトウキビがよく出て来る。それから落花生も。我が郷里は南国だから、食糧の確保も意のままにならなかった終戦直後、私の子供時代にはこれらの作物を栽培している農家が結構あり、我が家も農地改革で残った甘蔗畑を所有していたので従姉妹たちとそこでかくれんぼをして遊んだのを覚えている。台湾の子供たち同様に、大人が茎を切って寄越してくれるのだが、その甘い汁を喜んで吸っている従姉妹たちと違って私は面倒くさがり(三つ子の魂百まで,少なくとも 75 歳までは残るとみえ、蟹の身をほじくることも面倒でエビ蟹類を断るという無精ぶりは生来のものらしい)、またその甘さも気に入らなかった。しかし、そうやって収穫した甘蔗から黒糖を作る工場も当時は村にあって、黒砂糖の味は好みではなかったものの素朴な工程を覗いて面白がった記憶も残っている。
一方、落花生の方は他の誰よりも目がなくて、豆類とナッツが好きなのも子供の頃から変わらない。社会人になって友人が「ピーナッツって枝に生るの」と訊くのに相手が引くほど大笑いしてしまった。母が「台湾では取り立ての落花生を殻ごと蒸して食べるのよ」と言って試してくれ、私はそれもおいしいと思ったのだが、他の誰も気に入らない風だったので数回で止んでしまった。
かように、沖縄や鹿児島ほどではないにせよ高知の気候・風土にもいくらか台湾と似たところがある。因みに、台中の南海電力支社の技師だった祖父の台湾勤務が終わり一家で日本に戻ったのは母が八歳の時で、蔡焜霖が生まれた年にはもう台湾にいなかった。それでも、あの頭のよくない母でさえ台湾の暮らしのことはよく覚えていて(もっともそれは「記憶力と頭の良さとは関係ない」という説を裏付けるものだが)、「南の国のふるさと」の思い出をしばしば懐かし気に語るのだった。
ただ、先天的にしょうもないお喋りだが話す価値があるほどの話題に事欠く母は、とにかく誰かに話を聞いてもらえばそれで満足だったとみえ、父親は相手にしてくれないので専ら長女の私が聞かされたそのあとは、弟妹を相手に改めて昔の記憶を繰ることはほとんどなかった。だから、母の思い出を受け継いでいるのはわが家では私だけである。
その母の死後、古い写真を整理していたときに彼女の小学校入学式のときの写真が出て来て、その学校の建物の立派なことと校長先生の威風に驚いた。生徒の数も、日本の地方は言うに及ばず大都会にだってこれほどはいなかったろう、と思わせる賑わいである。何十人もの生徒が並び、いずれも落花生粒より小さいから顔の識別も容易ではないが、私はすぐ母の顔を言い当ててそれに百パーセント自信があったのは、亡妹によく似た面差しのせいだった。(その写真をこちらに持ってきていないのが悔やまれる。)
「台湾の少年」に描かれた家の造りや寝食の情景も面白いが、校舎の絵が母の写真にあったのと一致するのに感嘆した。とにかく、東洋と西洋の差から東洋人である私が挿絵の台湾にことごとく親近感を抱いたのは当然といえるが、母親の記憶や高知の郷里との類似などプラスアルファの要素がこの本を身近なものにしてくれたのだった。
しかしながら、それではこのコミックはスラスラと難なく読めたかと言えば、それがちょっと難儀だったのである。
いや、ドイツ語の単語なら辞書を引けばいいのだけれど、内容が内容なので日本人として想像しなければ分からない箇所もあり、それがドイツ語とあっては隔靴掻痒のような気持ちになるのだ。また、当時は台湾人にも日本人名が与えられていたそうで、それが台湾人名ではこうだ・ああだと説明されているのも煩わしい。近眼になって眼鏡を誂えに行った先が「院医科眼原宮」(もちろん右から左に読む)だったり、「誠」という字が刻まれた石の脇にドイツ語の訳で Aufrichtigkeit などという文字があるのは愛嬌なのだが、魯迅の狂人日記の解説なんか不要だし、「祝皇軍大捷」(これは縦書き)の幕が下がっているのには目の前が暗くなってしまった。
私が入手したのは実は計 4 巻の最初の巻だったのだが、今のところドイツ語・フランス語では第 1 巻のみが出ており、後の巻については、手元の本を読み終わって多分日本語もあるのではないかと調べて分かった次第である(写真 1 参照)。
第 1 巻は 1935 年から始まって、終戦後に蔡焜霖が共産党主義者として逮捕される 1949 年までなのだが、日本や日本人を罵ったり恨んだりという箇所は少なくとも表面的には見当たらず、台湾の中の日本を穏やかに扱っているその筆運びには昔見た侯孝賢監督の映画「戯夢人生」を思わせるところがあって、こちらは逆に恐縮してしまった。
本の中でこれはちょっといいな、と思ったのは、少年時代から主人公が歌っていた愛唱歌が「赤とんぼ」である点で、台湾では今も、日本人が古臭いと馬鹿にしている小学唱歌や童謡が好んで歌われているというのも事実らしい。「仰げば尊し」なども人気があるそうだ。もっともそれは、日本と違って「尊い」師がまだ残っているためかもしれないが。
しかし日本語の歌に関してはドイツ語への翻訳で手こずったとみえ、「靴が鳴る」の童謡の場合もだが文字を赤くしてドイツ語訳を付している。色を付けたのは、これらの原語が台湾語ではないということを示すためである。同様に、中国から国民党が入ってきて台湾人に強制された標準中国語、つまり北京の方言をベースにした中国語の場合も赤い文字になっており、アルザスでのフランス語とドイツ語の対立に似た側面を見るようだった。
それで思い当ったのだが、韓国・朝鮮の場合と違って、下関条約とやらを盾に島をわが物として 50 年間にわたり身勝手な政策をとった日本人への憎悪が台湾人の間ではさほどでもないことの裏には、その後で大陸からやってきた乱暴な軍人や外省人と呼ばれる中国人の専横・狼藉があまりにひどかったので、それに比べれば日本人の方がマシという認識があったせいかもしれない。
興味深いことに、日本人が立ち去っても日本語を忌み嫌うということはなかったらしく、読書好きの主人公が先生から「何を読んでいるの」と訊かれて「『英雄と英雄崇拝』です」と答えるのだが、「トーマス・カーライルの? へえ、分かるのかね」と驚かれ、それに対して「日本語訳で読んでいますので」と申し訳なさそうな生徒に、「それは別に構わないさ」と鷹揚に応じる場面がある。
また、これを言うと恩着せがましくなり「盗人猛々しい」と非難されかねないので日本人としては躊躇してしまうが、特に農業政策に関して台湾に資するところがあったのは確かである。
そういう歴史は別にして、このたびは、台湾と日本の関係の変遷も、中国と台湾の対立も、比較的身近に見てきたこの老齢の日本人が、母親の思い出話を思い出しながら、またどこか台湾に似た郷里の昔に思いを馳せながら、ドイツ語に訳された台湾人の物語をドイツで読む、という一風変わった事態が今回の読書をややこしくしたのだった。
しかし今はこの本をこのタイミングで読んで正解だったと思っている。というのは、読み終わって上記の通り日本語版について調べたことから分かったのだが、この物語の主人公蔡焜霖は、何とほんの数日前、9 月 3 日に亡くなっていた。享年 93 歳(台湾では今も数え年が一般的らしい)。
第 2 巻には彼の監獄での 10 年が語られているそうで、いずれこちらで第 2 巻が発刊されたらそれを読むかどうか、余りに辛そうな歳月なので迷っているけれど、自由な身になってからは人権運動と社会正義に身を奉げたというこの台湾人の波乱万丈の人生を知ったことは有意義であったし、その伝記を手に取った時期に同氏が世を去った偶然も無駄にしたくないと思う。
ここ 10 年来、台湾の夫の友人たちから会社訪問も兼ねて是非遊びに来てほしいとせっつかれており、特に台湾には一度も行ったことのない夫のために、私たち夫婦がまだ人様の手を借りずに旅できるうちに実現したいと願っている。
(二番目の写真は「戯夢人生」<1993 年>から。日本の統治下の 50 年は、終戦後の台湾における「二つの中国」の熾烈な争いと騒乱に比べれば、比較的人間らしく暮らせた日々だったのかもしれない。)
「予定外」いうことでしたが、kbcのライントークの私の投稿に目をとめていただき、また思いがけず当の主人公蔡焜霖氏の死去のニュースによってこのブログは準備していたかのようにタイムリーなテーマとなりました。旅先で目にとめたアルザスの地方新聞の記事から説き起こし、ご自分の身内の方のエピソードをからめて、今台湾で最も注目されている人物を描いた話題の本の紹介になっているのはびすこさんの面目躍如でした。
このブログでこの本のことも、台湾の大変な文化人で日台交流にも功績のあった蔡焜霖氏のことも初めて知って大急ぎで調べてみましたので、いくつかのウェブサイトを紹介して少し補足させていただきます。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/275142
https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=148,149,150,151,152&post=241464
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5835
台湾には日本精神という言葉が大変なプラスイメージで残っていると聞きました、仕事に対する日本の職人の心構えみたいなものに対する尊敬と理解しています。 そうでしたかあ、、お母様が台湾生まれ。僕のおばあちゃんの1番下の妹、つまり僕の大伯母が台湾で暮らしていた頃…あそこはね鍵なんかかける必要は無い位安全なとこなのよと聞かされたことを覚えています。 今回の記事も息もつがさず読めました、ありがとうございます。 甥っ子に台湾に連れてってもらってた時、台北だかの街中の公園にに、タイルで作った動物がすっかり街に馴染んで設置されていました、相当な年月が経っているとすぐわかります。ホテルから近かったこともあり改めて朝そこまで行って仕事を見てきました…丁寧な仕事ぶりで、これも日本の技術のお土産だなと思ったことでした。 あと昼間、お金をおろしに銀行に行った時…台湾の人から道を聞かれました…ハハハ。 台湾の女性は姿勢も良く堂々としていましたね、食堂も朝から開いているので朝の支度をしたくする必要もなさそうだし、女性天国だなぁと思いました。