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「ブッデンブローク家の人々」感想文(1)―ドイツの黒い森から 68(びすこ)

執筆者の写真: クレマチスクレマチス

つい先月に三回に分けて「流離譚」の読書感想文を書いたばかりで、その長々としたブログのあとにまた感想文?いや~、勘弁しておくんなさい、と言う声が聞こえて来そうだが、今回は家族の歴史を取り上げた長編小説という類似点はあっても、日独の差だけでなく筋も結末も全く異なる話なので何とぞ辛抱強くお付き合いいただければと思う。


ついては前回のように話の流れに従うのではなく、興味をそそられたいくつかの領域ごとに纏めてみたい。と言っても最初はやはり「序」のようになってしまうが、なぜ今、齢 77 歳にしてブッデンブロークと取り組むことになったのかを説明する必要があるだろう。ついでに目次代わりにあらかじめ区切りを紹介させていただくと、次の通りとなる


1.    なぜ今ブッデンブロークなのか。

2.    小説の舞台リューベック

3.    北と南

4.    かくも長き物語

5.    ブッデンブローク家のバリエーション:芸術と実業

6.    愛しのトーニ


では、さっそく


  1. なぜ今ブッデンブロークなのか


今年 2025 年早々のブログ第一回で、「流離譚」という安岡章太郎の長編に関してこの「ブッデンブローク家の人々」とその影響下で書かれた北杜夫の「楡家の人々」に軽く触れた。その時点では私はブッデンブロークの方は読んでおらず(もっとも楡家の方は、読んだといっても遠い学生時代のことだからストーリーもすっかり忘れてしまっているが)、またこれから読むつもりもなくて、ただそこでも述べたように、これらはいずれも家族の歴史をテーマとしたサガという点で共通していると言いたかっただけである。

ドイツ語でいうなら Familienromane あるいは Familiensaga ということになる。サガというのはもともとは北欧の古い叙事詩を指し、ドイツ語で「話す、言う」を意味する動詞sagen(英語のsayに当たる)とその語源は同じらしい。


実を言うと「ブッデンブローク家の人々」を私はしばらく前に買ったものの、その後ずっと積読状態にしていた。ドイツ語をある程度解せるようになってから、せっかくドイツに住んでいるのだからやはりドイツ文学にも少しは馴染まなくてはと思い、昨今のベストセラーの類ならシュリンクの「朗読者」やフォン・シーラッハの「犯罪」などには目を通し、どれも結構楽しめた。しかし自分に課す宿題としてやはり一冊くらいはドイツの文豪の作品をと生真面目に考えた。文豪といえば日本人の間で知られているのは、まずゲーテ、そしてヘルマン・ヘッセ、それからトーマス・マンが頭に浮かぶ。この中でまったく縁がなかったのがマンで、ゲーテは高校時代に「若きウェルテルの悩み」を文庫本で読んで退屈し、ヘルマン・ヘッセもその頃に世界文学全集で「デミアン」を読んだような気がするけれどこちらも印象に残っていない。それでこの年で手つかずのトーマス・マンをと思ったものの、どうも食指が動かない。というのは、「ブッデンブローク」を買う以前から私はこの作家が嫌いになっていたのである。


その理由は、唐突に聞こえるかもしれないが、伝説の名指揮者フルトヴェングラーに対するマンの批判、というより的外れの非難である。音楽の素養の全くない私が巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラーについて語るなどお門違いも甚だしいことは百も承知で、この人の音楽がどうのという話ではない。そうではなくて、戦後ドイツの特に左派の間で大流行だった「ナチ政権下で亡命しなかったドイツの知識人・芸術家に対する弾劾」を私は以前から苦々しく思っており、左翼インテリたちのフルトヴェングラー評を不当と感じていた。この人はヒットラーと全くそりが合わず(合うはずがない)、抵抗もしてナチから睨まれていたのに、身の危険は察知しながらも亡命の決心はつかなかった。というより、あえてドイツにとどまることを選んだのだったが、その理由としてまずベルリン交響楽団を見捨てることはできないという思いがあり、また自分がいなくなって楽団が解散したあとの団員の生活を案じたためでもあるという。


私の勝手な推測では、フルトヴェングラーにとって母国ドイツは音楽の王国であり、そこがどれほどの狂気に蹂躙され滅亡に瀕していたとしても、国を去ることは生命を失うに等しいと感じたのではないか。そのような音楽家を生んだことをドイツは誇りとすべきであろう。しかし終戦後のドイツのメディアや知識人は、それをヒトラーへの協力と見なした。

ドイツに移り住んで間もない時期に、フルトヴェングラーがそのような中傷・非難に対し「自分はなぜドイツにとどまったか」と公式に弁明した文章をたまたま目にする機会があって、その冷静で誠実な抗弁を読んで私は自分の直感が間違ってなかったことを確信した。(そのあとインターネットでその文を探したのだが見当たらず、それを見つけたときコピーを取っておかなかったことが悔やまれる。)


私が怒りを覚えたのはマンがこの悲劇の指揮者を譴責し虐げる集団に与していたことで、マン自身は妻がユダヤ系であったためにヒットラーの台頭から間もなくドイツを去ってアメリカに亡命している。そのことは全く正当であり他人が文句をいう筋合いはない。しかし自分の都合で亡命しておいて、ドイツを離れようとしなかった人間をヒトラーの協力者として非難するというのではあまりに理不尽ではないか。戦後のドイツでは第三帝国時代の亡命者を英雄扱いする風潮があり、それはまだいいとしても、これまた独自の事情があって亡命しなかった、あるいはできなかった、人間に非を鳴らすという傾向を一種の暴力とも感じて私は憤りを禁じえなかったので、かのトーマス・マンがその種のケチな人物であったことに大いに失望させられたのだった。


そんなわけでトーマス・マンを読む気にはならなかった私が、このたび苦労して 760 頁の小説を何とか読破するに至った理由は、今年 1 月 4 日にノイエ・チュルヒャー・ツァイチトゥング(新チューリッヒ新聞)の第一面に掲載された記事がそのきっかけであった。

記事の表題は Das Buddenbrooks-Syndrom(ブッデンブローク家症候群)、リードの部分には「ますます多くのスイス人が、仕事を厭い兵役にも就かず自分の利益のみを優先するようになっているのはなぜか。オットー・ビスマルクとトーマス・マンはその答えを知っている」とある。


1901 年初刊のブッデンブローク家の物語について、1898 年に没したビスマルクが直接言及することはあり得なかった一方で、あたかもその筋書きをほんの数年前に言い当てたかのような格言を彼は残した。


「第一代が財を成す、二代目がそれを守る、三代目は芸術史を学び、四代目で滅びる」


日本で私が幼少時から見聞きした「大金持ち」の興亡にもこの惹句は当てはまり、終戦後の日本社会の変遷は時にジェットコースターを思わせる目まぐるしさで、実のところ身近で四代目まで持ちこたえた一族を私は知らない。それはゼロから再出発した日本という国のダイナミズムを示すもので、決して嘆かわしいことではないとも感じていた。(若い私の心の中に微かな嫉みがあったことも否定できない。)


本年早々のこの新聞記事に触発されるところは多く、これはとにかく「ブッデンブローク家の人々」を自分でちゃんと読んでみないことには話にならないと感じ、棚の隅で誇りをかぶっていた分厚い本をやおら取り出してきたというわけである。


昨年末に読んだ「流離譚」がいわば練習台のようになって、今回続いて長編を読むことにさほどの抵抗も不安もなかったが、それにしても字は細かいし、今度はドイツ語だし、最初はかなりとっつきにくくてどれほどの時間を要するか見当がつかなかった。しかも―と言い訳がましいことばかり連ねるが―書かれた時代は 19 世紀末、日本でいえば鴎外や漱石の時代に近く、日本の友人が言うように近代古典である。加えて舞台が北ドイツとあって出てくるドイツ語には普通の辞書にないものが多く、紙の辞書と並んで携帯を脇に置いてネットで調べる作業が重なり、それでも分からず推測するしかないこともしばしばであった。庶民や労働者の会話などはまるでチンプンカンプン、日本語を習う外国人にとっての東北弁のようなものである。それでも 1 日 20 ~ 25 頁のペースでも続ければ一か月程度で何とかなるだろうと読み始めたら、実際に 1 月中旬に始めて 2 月半ばには完読することができた。


ただし完読といっても、微に入り細にわたって風景や屋内のインテリアを叙した場面が続出し、マンの描写力には感服しつつもこれではいつまでたっても終えられないといい加減に飛ばして読んだ箇所も多いから、大きなことは言えない。以前にこのブログで同じドイツ最北のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の、こちらは北海に面した地方(リューベックはバルト海沿い)の物語を取り上げたことがあるが、あの「白馬の騎手」は難しくても短めなのが救いだった。


加齢で根気が続きにくいことは言うを待たず、何よりこの老眼では長時間の読書は無理なので遅々たる歩みではあったものの、とにかく一応は読み通したので、ブッデンブローク家について一角(ひとかど)の感想というのは到底無理でも五分の一角くらいは可能ではないかと、次に進むことにする。


  1. 小説の舞台リューベック


リューベックには一度だけ行ったことがある。2003 年のことだから二昔以上も前で、ドイツに移ってから 2 年ほど経っていた。しかしそのだいぶ以前から、この町がかつてハンザ同盟の中心として栄えたことは知っていた。


ドイツの諸都市の中で私が最初に訪れたのはハンブルクで、1980 年代の初めのことである。その時、この町があまりに立派なのに驚嘆し、それだけでドイツという国に尊敬の念すら抱いた。そのあと立ち寄ったパリの街並みが冬の景色と相まってなんとも古臭くカビが生えたような印象だったのとは対照的に、エルベ川のほとりの町は至るところ威風堂々と輝いて見えた。この対比に関しては、パリが戦災を逃れたのに対し、ハンブルクは連合軍に徹底的に破壊されて戦後焦土から立ち上がったという事実を考えれば、町の外観の新旧の差は当然である。また、ドイツのどの都市もがハンブルクのように豊かなわけではなく、ここは古くからの港湾都市、それもハンザ都市として栄えてきたという特別な歴史があることもその時に知った。


とにかく最初に受けた印象があまりに強烈だったため、私は帰国後すぐに書店で「ハンザ都市」( 1980 年刊)という本を求めた。それがとても役に立ってありがたかったので、著者である高橋理氏にケチをつけるようで憚られるが、「ハンザ同盟」という呼称は正しくないらしい。というのは、東はロシアのノブゴロドから西のロンドンまでのハンザ都市群は言葉の正しい意味での「同盟」を結んではいなかったからで、のちにドイツで調べたら、ハンザというのは一種の Schar とあった。群れとか集団というほどの意味である。しかしハンザ集団では何となく締まらないから、やはりカッコつきで「ハンザ同盟」と呼ぶことにする。


ハンザの歴史を語ることが目的ではないので、関心のある方にはまずウィキから始めていただくとして、前史を含めれば 10、11 世紀に端を発するこの貿易都市集団は、最後のハンザ総会が開かれた 1669 年まで存続した。そしてその中心として欧州の北に君臨したのがリューベックである。古リューベックが建設されたのは 1143 年、当時はハンブルクなどその足元にも及ばない田舎町だった。


(参考までに、図 1 にいにしえのハンザの版図を示す。これはオランダ語のウィキからのコピーなのでドイツ語の Hanse が Hanze になっているが、地名その他はドイツ語表記と変わらない。)


人間が築き打ち立てたどのような組織も衰退を逃れることはありえず、今はハンザ都市も消えて久しい・・・と思われるかもしれないが、ドイツ人はこのハンザに今なお強烈な愛着をもっていて、まず半国営みたいなドイツの航空会社が「ルフトハンザ」(ハンザ・エアーとでも訳すべきか)と呼ばれることがその何よりの証拠である。


そして、北ドイツのかつての主なハンザ都市は、現在もハンザシュタットという冠を手放さない。(シュタットというのは町・都市のこと。)


ドイツの自動車ナンバーはまずアルファベット文字で始まり、A はアウグスブルク、B はベルリン、C はケムニッツという具合で、一文字なのは大都市に限り、F がフランクフルトであるのに対して、人口 25 万程度のフライブルクは FB である。それで H はどこかというとこれが州都ハノーファー、観光地・大学町のハイデルベルクは HD となる。


こちらで初めて HH というナンバープレートを見てはてどこの町かと思ったら、それがハンブルクだった。これは Hansestadt Hamburg(ハンザ都市ハンブルク)ということなのだそうだ。こればかりは都市の規模よりも歴史が優先されて、今では人口 22 万でしかないリューベックにも HL という頭文字が与えられている。ブレーメンは HB、ロストックはHR。ポーランドに近い東のストラールズントは人口 6 万人に満たない小都市であるのと、HS の都市が他に存在するために HST となっていて、こんなちっぽけな町でも「ハンザ」を冠していないと承知しない、というのがおかしい。


だからハンザの栄光を語るならその主人公はリューベックに決まっていて、古都の常として人々も誇り高い。そこの住民にすればハンブルクなどは成り上がりの都市なのだ。


しかし現在のハンブルクがドイツ三大都市(人口が百万を超える都市はドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンの 3 つだけである)として日本でいう政令都市の扱いを受けているのに対し、リューベックは今では北端シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の一都市に過ぎず、州都ですらない。


初めて、というより今のところ最初で最後の旅なのだが 2003 年に夫の商用を兼ねてこの町を訪ねた際に、ふとどこかで似たような雰囲気を味わったような気がしてしばらく考え込み、ああ、ブルージュだと思い当たった。その前年に日本からやってきて英国での夏季語学研修に参加するという甥を車で英国に連れて行ったとき、夫が翌日フェリーに乗る前に一泊しようといったのがブルージュだった。「ブリュッゲに寄ろう、古くてきれいな町だよ」と夫がいうので、聞いたことがないわと付いて行ったのだが、確かに町の佇まいは古風でその静謐は息をのむほどだった。こんな町を知らなかったなんて、と思いつつ歩いていたらレースを売っている店があって「両替します」と日本語で書いた紙が貼られている。それで、あ、そうか、ここはフランス語でいうブルージュなのか、と合点がいった。


リューベックでそのときの光景を思い出し、夫に「ブルージュに似てるわね」というと、え?そうかい?と納得できない風だったが、町の地図を買おうと立ち寄った店で支払の時に彼が店員に「妻はこの町がブルージュに似ているというんです」というと、「当然ですわ、ブルージュにはハンザ(同盟)の支部がありましたから」と言うので、当の本人の私が驚いた。そのだいぶあとで上記の「ハンザ同盟」という本をまた開いたら、ブリュージュ商館のことも出てきて、何のことはない、私がちゃんと読んでおらず、読んでも忘れていただけなのだった。


それから後にアムステルダムやバルト海沿いの町ロストク、ヴィスマー、ストラールズントなどにも旅する機会があって、別にブルージュに限らずこれらの町がいずれもリューベックに似通っていることに気づいたのだが、それら海に面した今昔の商業都市の外見上の特徴として、第一に派風の家が挙げられる。つまり、表から見えるのは家の棟ではなく切妻の方で、これは、特に商業都市のアムステルダムなどでは間口の幅で税金を徴収したため、幅が狭く奥行の深い家が一般的になったのだそうだ。(この点は京都などの場合も同様だったと聞く。)


さてここでやっと「ブッデンブローク家の人々」の舞台としてのリューベックに話を移すと、広く知られているように、ブッデンブローク家のモデルは作者トーマス・マン自身の家系であり、主要な登場人物はマンの先祖がその原型である。この作品の副題は「ある一族の没落」となっていて、マン家も時代は若干ずれるものの、最盛期から数代で崩壊した。

面白いのはリューベックの旧市街にあるブッデンブロークスハウスで、正式には「ハインリッヒ/トーマス・マン・センター」と呼ばれ(トーマスの兄のハインリッヒも作家だった)、そのことから分かるようにもとはマン家のものだったが、マン家の歴史はおおむねブッデンブローク家のそれと重なることから事実とフィクションがごっちゃになっていて、多分観光業推進のためもありブッデンブロークスハウスという名で知られるようになった。


マンの何代か前の祖先が別の事業家から買い取ったこの家はリューベックのメングストラッセ(メング通り)4 番地にあり、「ブッデンブローク家の人々」においても同じ場所の同じ建物から物語が始まる。小説の中の家もまた、初代のヨーハン・ブッデンブロークが家運の傾いた商家から買い取ったことになっている。そして物語の終わりの方で、4 代目トーマス・ブッデンブロークの仇敵だった商人に売却される。


メングストラッセ 4 番地にはこのように虚実入り混じった世界があり、それがブッデンブロークスハウスとしてこんにちの観光客の目を引いているというのが興味深い。


フィクションの中に出てくる家で、読者の人気を博したことから在りもしなかった建物をあたかも事実のように「再現」するケースとしては、「赤毛のアン」の緑の派風の家(Green Gables)や、ロンドンはベーカー・ストリートのシャーロック・ホームズの住いがあるが、ことブッデンブロークの家に関してはほぼ史実という点がそのようなお話の中の家とは一味も二味も異なる趣である。


さてリューベックにおけるマン家/ブッデンブローク家の位置については、ウィキでBuddenbrooks と入れたら写真 1 のようにその所在と周辺の主な建物を示す俯瞰図が出て来たのにはびっくりした。赤い番号は、それぞれ、


1.  メングストラッセ 4 番地(ブッデンブローク家の本家があった)

2.  フィッシャーグルーベ(三代目ジャンの息子トーマスが結婚する際、未亡人となっ ている母と離れて住むために大邸宅を建てたところ)

3.  市役所(セレブであるブッデンブローク家の当主は市の要職にあった)

4.  ブライトストラッセ(一族の親戚筋の女性たちが住んでいた)

5.  クラブや劇場のある地区(トーマスの弟で放蕩息子のクリスチャンが出入りしていた辺り)

6.  トラーヴェ(リューベック旧市街を取り巻く川)

7.  ミューレン池


となっている。トラーヴェ川がバルト海にそそぐ場所にトラーヴェミュンデ(ミュンデとは合流点のこと)という保養地があり、町の中心地から 20 キロほどの距離なのでそこで休暇を過ごす商人も多く、結婚を強要されて健康を害したトーニがそこでひと夏を過ごすなど、物語の中でも特別な意味を持つ。


次に再現された家をみてみよう(写真 2 )。外から見えるのは切妻の部分でこれは 12 メートル幅、奥行きは 50 メートルというから相当の規模である。他の商家と同じく、表通りに面した部分が事務所になっておりその後ろに居住部分があって、さらに奥には庭がある。

マン家/ブッデンブローク家が扱っていたのは穀物で、そもそもハンザ都市の商売は贅沢な異国の品を扱う南の地中海貿易と異なり、穀物・木材・毛皮などの実用品を中心としていた。(北方の地ではフランドルの羊毛布と並んで毛皮も生活必需品の一部であった。)穀物倉庫はいずれもトラーヴェ川沿いに並ぶ。


ブッデンブロークスハウスのファサードの扉の上に「Dominus Providebit」というラテン語が見える。これは「主が備え給う」という意味で、旧約聖書の創世記にある「主の山に備えあり」という言葉からとされる。トーマスの一つ違いの妹トーニにとって、この箴言を刻した家は生涯を通じて計り知れない重さを持っていた。


小説家トーマス・マンがドイツで広くその名を知られるようになったのは、1925 年のノーベル文学賞受賞が大きな契機ではあったが、実はそのあともマンのリューベックにおける評判は必ずしも芳しくなかった。小説を読めば、マンが自分の生まれ育った町に抱いていたのは純朴な郷土愛とは言えなかったことが容易に察せられる。


数多くの登場人物も読者の心を打つキャラクターはむしろ限られていて、今日的視点でものを考えればそれも当然ながら、現代社会では保守派に属するであろう私自身の場合にも、読みながら、なぜこんな無意味な慣習・旧弊に拘って生きるのかというフラストレーションが募るのだった。総じて住民は spießig(偏狭で保守的で、視野が狭く俗物的)な印象で、本がベストセラーとなったためにそれが固定したイメージと化し、そのためドイツのみならず世界がこの文豪を誉めそやしても、いや称賛の声が高まるほどに、リューベックの人々は戸惑い、マンから距離を置くようになったというのは理解できる。


しかしそれもひと昔前の話で、今日のリューベックではトーマス・マンとその家とは観光の重要な目玉となっている。果たしてそれを嘉すべきかどうか、少しばかり迷ってしまうのだけれど。

 
 
 

2 Comments


大村繁
Feb 24

いやはや、大変なボリュームの原書に取り組まれたのですね…びっくりします。


マンの立場上の発言(ポジショントーク?)に

合点がゆかないどころか、不正義を感じていたことでこの本をお読みなったのかぁ、、とぼくの頭の中を整理してみればさらに驚く。


名家に生まれたものが、義務のようにして、一家の盛衰を描ききる、、それについてコメントなぞとまぁ知ったかぶりを駆使したところで、僕自身の華奢な頭の中身のなさを披露をするようなもので、桑原、桑原、、今回はびっくりしたことだけを白状して、お茶を濁させていただきます😅

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hm221002
Feb 24
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コメントありがとうございます。いや、なにかちょっと荷が重いこと、飽きる心配があることは、先に「やります」って宣言しておくと引っ込みが付かなくて続けられるんで、それでクレマチスさんに約束させていただきましたの。


あちら様は、さほど真面目に考えていらっしゃらなかったかもしれませんが、こちらはまだこれでも多少見栄が残っているもので。


マンって人は好きになれそうにないタイプですが、刺激にはなりました。その刺激については、次回・次々回に。


西洋社会ってのんびりつかるお湯じゃなくて、寒中水泳とかサウナのあとの水浴びみたいな感じで、日本には湯治って言葉がありますが西洋のは荒療治っぽい。今はまだそれに耐えられるけど、いずれはぬるま湯に戻りたいものです。

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