北と南
この小説の舞台はほぼ一貫してドイツ北部であり、ほとんどの出来事はリューベックを舞台として起きるのだが、ある箇所でドイツ南北の対比が鮮やかに語られていて、ドイツ南部に住む私はそれを興味深くまた頷きながら読んだ。
登場人物の中にはロンドンに遊ぶ者あり、ハンブルクを仕事の拠点とする者あり、またアムステルダムに出張したりもする。しかしこれらの都市の特徴や風物が語られることは一切なく、せいぜい主人公その他から彼(か)の地のことをそれもごく断片的に耳にするだけである。
そんな中で主人公の一人であるトーニ(トーマスの妹、クリスチャンの姉で、小説の最初に現れ最後まで残る)がある時期ミュンヘンで暮らすことになって、そうなると否応なしにこの地について記さざるをえない。そしてそれは専らトーニの口を借りて語られることになる。
ミュンヘンという都市の描写や時に風刺は作者のトーマス・マンにとってお安い仕業だったろう。彼は成人後にしばらくミュンヘンを生活の場とすることになり、後の妻で当時大学生だったカティヤと出会ったのもこの町でのことだった。
マンの実家は彼が生まれた当時はまだ「豪商」と呼ばれた時代の名残をとどめていたものの、1875 年生まれの彼が実科学校に通っていた 16 歳の年に父親が死去し、その前年に創立 100 年を迎えていたマン商会は解体する。兄弟姉妹の数は多くトーマスには兄ハインリヒもいたから一人くらい家業を継ぐ人物がいてもよさそうなものなのに、こうもあっさり解散というのは、遺された家族の中に事業経営に適した者がいなかったわけである。数世代にわたる上流あるいは中流上の豊かな暮らしの中で、文芸の才に恵まれた子供たちが誕生する一方、商業という全く別の能力を要する分野に進む人間は育たなかったということになる。
まさにビスマルクが指摘した通り、野心家が財を成しそれが手堅く守られたのちに芸術を語る者が現れて身代が傾く、という栄枯盛衰の流れにマン家も沿っていたわけだ。この点については別途述べるとして、さて店を畳んだマン一家はミュンヘンに移るのだが、トーマスは学業の都合もあって数年後に家族に合流する。そこで最初に就いた仕事は保険会社の見習いで、この時の経験も「ブッデンブローク」の中で一部生きている。しかし彼の中で文学への憧憬は抑えがたく、数年後には作家として身を立てることを決意するに至る。
「ブッデンブローク」中のヒロインであるトーニがミュンヘンに移り住んだのは再婚のためであった。パパっ子の彼女は実業者とは名ばかりのペテン師に近い男と、よりによって父親の強い意向で結婚する羽目になり、その結婚が破綻したのちに実家に戻るのだが、あるときミュンヘン在住の友人に誘われて遊びに行き、そこで知り合った男性がビール醸造用のホップの売買を生業としているペルマネーダー氏だった。
そのあと郷里に戻ったトーニを追ってペルマネーダーがリューベックにやってくる、その時点でトーニがこの外見も中身も何の取柄もない男の求婚を受け入れてしまうのは、初婚の失敗による「恥辱」を再婚によって拭い去ろうとしたためで、当時のドイツ社会で離婚女性が置かれていた立場の苛酷さには慄然とさせられる。その失敗が明らかに親の責任であっても娘一人が恥を耐え忍ばねばならず、当時の慣習として実家の名字に戻ることはできないので、別れたペテン師のそれを名乗り続けるしかない。
全 11 章から成るこの物語のほぼ真ん中の当たり第 6 章でトーニは再婚し、ミュンヘンに移住する。その前に同章の初めの方で、南ドイツの友人のところへ物見遊山に出かけたトーニが母親に寄越す手紙が面白い。これを面白がるのは私の個人的な経験のためもあって、見るもの聞くことすべてが珍しく何から話していいか分からないと興奮気味の彼女が綴ったピナコテーク美術館、ホフブロイハウスのビヤホール、華麗な市庁舎などは、私が 2001 年の一月に今の夫と初めてデートした場所だった。もっとも今の新市庁舎は 1867 年から 1909 年までに建てられたものなので、当時三十路にさしかかっていたトー二が目にしたのは 1475 年竣工の後期ゴシック様式の庁舎だったろう(写真 1 )

母への手紙でトーニは、南では野菜が少なく小麦粉を使った食品―今でいうパスタ類であろう―がやたら多いとこぼし(これは南ドイツの食文化がドイツの北よりもイタリアに近いことを示す)、海がないので魚が食べられないと残念がるのは日本人の私も全く同感であるが、「異国」ではそれも仕方ないわね、と彼女が嘆息するのは、この時期にはまだ統一されたドイツという国はなく北はプロシア王国の支配下にあったためだ。
そして現在の南ドイツの州であるバイエルンやバーデンは北のプロシアの厳格さ・生真面目さをずっとバカにしていて、21 世紀の現在に至るまでベルリンとミュンヘンとは互いに反目し合うところ大である。今のドイツで謹厳実直とか質実剛健などという言葉はまるで外国語のようなものだが、日本人の多くがドイツ人の国民性となおも信じている特徴の多くは、どうも北ドイツの風土からきているようで、明治のころのドイツのイメージが未だに拭われていない。
私の世代の高校時代の世界史授業では、ドイツの北部はプロテスタントが多く南はカトリック教徒が多数と教わり、欧州全体においては中・北欧は裕福で南欧は貧しいと習ったが、それと並んで当時アメリカでは WASP( white, Anglo-Saxon, protestant )という言葉がエリート層の特徴とされていたので、宗派の違いによる貧富差はドイツにも当てはまると信じていた。ところがこちらに来てみるとそれは大きな間違いで、ミュンヘンを州都とするバイエルンは最も豊かな州であり、経済に関しては同じくカトリック信者の多いわが西南の州がそれに次ぐ。
それに比べるとリューベックのあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州やその南のニーダーザクセン州(フォルクスワーゲンの本社がある)などは、GDP は低く債務は大きく失業率は南よりはるかに高い。その主な原因として、大きく強くなり過ぎた労働組合を嫌って企業家が撤退し新たな投資が為されないことが挙げられるが、ここではその話は措く。
ドイツの南北差の実態は何もここ 10 年や 20 年の現象ではないので、60 年近く前の、当時すでに時代遅れだった授業内容を恨めしく思う。情報の「アップデート」などという言葉もなかった時代である。私は常々、バイエルン州とバーデン・ヴュルテンベルク州と、そのすぐ北の、金融機関の多いヘッセン州とがなければ、ドイツの財政はギリシアとほとんど変わらない、と言っている。
南ドイツの人が北をバカにして言う「ユーモアを欠く融通性のない人たち」というレッテルは、必ずしもステレオタイプでも的外れでもなく、南の人間の方が明るく大らかと感じるのは経済的な豊かさももちろんあるけれど、カトリック教徒が多いことも影響しているように思われる。
先日のこと、欧州で暮らす日本人を主役にした日本の小説を読んでいたら、「こちら(ヨーロッパ)の人間の方が本音と建て前のギャップは甚だしく、その隔たりを埋めるために神様がいる」というセリフがあって、これはどんぴしゃりだと感心した。そしてこの場合の神は明らかにカトリックのそれで、最後は神様相手に「お任せするよって、まあ、よろしゅう頼んまっせ」と他力本願でいられるのがこの宗派なのである。
プロテスタントではそんな無責任は許されない。マックス・ウェーバーのいう「職業倫理」などとうの昔に北極のかなたに消え去っていても、「日々の信仰の実践によって地上に神の国を実現していく」という教えは根強く、現在でもやたら道徳や正義を説く連中は北に多い。そして教会が今や左派の、特に緑の党員たちの集会所みたいになっているのには首を傾げてしまう。現代の信者たちが崇め信奉するのは「環境保護」「人道主義」「民主主義」の三位一体である。
これも素人のいい加減な推測ではあるが、トーマス・マンは案外ミュンヘンでの暮らしが気に入っていたのではないか。「ブッデンブローク家の人々」を彼はミュンヘンで執筆していて、だからこそ生まれ故郷のリューベックという町を冷静に突き放して語ることができたのだろう。小説の中でトーニはミュンヘンを時に辛辣に批判し聖職者のことをボロクソに言ったりするものの、彼女の二度目の夫は腑抜けの怠け者ではあってもハンブルク商人だった最初の夫のような悪人ではなく、離婚時にはあっさり持参金を返すなど金銭欲や計算高さもない。
ブッデンブローク家が南にあったら、あれほど急速にあれほど悲劇的な最期は迎えずに済んだのではないか―と考えていて、ふとマン家が少なからぬ自殺者を出していることを思い出し、これもドイツ北部の特徴かもしれないと調べてみた。最新( 2024 年)の統計では、ドイツ 16 州のうち自殺率のトップ 5 を見るとザクセンなど旧東独の州が多いのはさもあらんというところであるが、そのトップ 5 の中に唯一旧西ドイツの州としてシュレスヴィヒ・ホルシュタインが入っている(第三位)のも、ああ、やっぱりと思わせられてしまう。
旧東独では 1990 年まで宗教は弾圧されていて、その地の住民には今も無神論者が断然多いが、プロテスタントとカトリックを比較すると前者の方の自殺率が高いことは 19 世紀末の社会学者デュルケームによって報告されている。自殺防止に効果的な薬は「ちゃらんぽらん」なのかもしれない。
マンの兄弟姉妹のうち妹二人は結婚後に自殺している。さらに 6 人いたトーマス・マンの子供の中で長女はいわば父親の秘書役を兼ねていて比較的まともな関係を保っていたが、作家となった長男クラウスは父とは不和で 42 歳で自殺し、次男・次女・三男もなぜか父親から疎まれ無視され続けいずれも鬱を発症して、生涯睡眠薬を手放せなかった。ピアニストの三女エリザベートのみが大のお気に入りで溺愛したというから、家庭人としてどう見ても良識あるまともな親であったとは思えない。さらに彼には同性愛の傾向があったことでも知られ(長男は正真正銘のホモだった)、だからこそヴィスコンティもマンの作品を好んだわけで、これについても後述する。
終生トーマス・マンに纏わりついて離れなかった暗い影は、実際のところは生まれ故郷の風土のせいというよりも、豊かになるほどに次第に退廃の色を深めていった一族の生き方にその原因があるのではないか。金儲け一筋の無粋な商人の家庭から洗練された知識人一家への変遷は、果たして進歩や隆盛と呼ぶに値するであろうか。少なくとも、幸福からは次第に遠ざかっていったように思われる。
かくも長き物語
ブッデンブローク家の人々の物語は数代にわたり、主役・脇役・端役取り混ぜて登場人物も多いので長編となるのも当然であるが、一つの特徴として絵画的要素が挙げられる。つまりドストエフスキーの世界よりもトルストイのそれに近いので映像化しやすいわけだ。実際ドイツでは何度か映画化され、最新版はテレビドラマとして 2008 年に放映された。
私はこのシリーズをろくに観ておらず、自宅の居間に出入りしながら時々目にした程度だった。というのも、この中でコンズル(名誉領事)ジャンの妻を演じた女優が私は好きでなく(彼女のドイツでの人気を慮って小説の中よりも重要な役を与えられている)、またトーマスたちの父親であるジャンの方も俳優がえらく年寄り臭くてイメージが違ったせいもある。ただしトーニを演じたジェシカ・シュヴァルツは適役だった。だが何といっても、私が時折ちらちらとでもこのドラマに目に留めたのはメング通り 4 番地の住まいの魅力のゆえで、外観も内装もドイツ南部とは全面的に異なる様式にときに目を見張った。
ところでブッデンブローク家の当主に代々与えられたコンズルという肩書であるが、最初にこの言葉に出くわしたときは何のことかと思い、本来「領事」を意味するコンズル(英語ではコンスル)に別の意味があるのかといろんな辞書を繰ったほどである。その結果判明したのは、19 世紀当時のリューベックはアムステルダムとの関係が深く、オランダは自国から領事を派遣する代わりにリューベックの名門の商家に「名誉領事」という肩書を与えていたということで、別に領事職の責任というほどのものもなく有名無実な役職で何人ものコンズルがいて、それもほとんどが世襲ということであった。
最初に目にしたのはコンズルの女性形コンズリンの方で、これはジャンの妻でトーマスたちの母であるエリザベート(ベッシー)を指し、物語の中では終始コンズリン(領事夫人)と呼ばれている。トーマスは父ジャンの死後オランダ人のゲルタと結婚してその妻もコンズリンなのだが、夫の方が途中で市のセナトール(Senator)という別のタイトルを欠員選挙によって得たため、ゲルタはその女性形セナトーリン(Senatorin)と呼ばれることになる。
Senator については、手元の普通の辞書を引いたら「(リューベックなどの)市行政官」とあって、古代ローマの元老院議員を起源とするこの言葉が今では米国などの上院議員を指すばかりでなく、リューベックの市行政官もそのように呼ばれていたのかと妙に感じ入ってしまった。やはり腐ってもドイツは「神聖ローマ帝国」の末裔というところか。
それにしても、映画化・ドラマ化を手掛けた監督や脚本家などは小説の中でのトーマス・マンの描写にずいぶん助けられたことだろう。晩餐会の場面にせよ葬儀の様子にせよ、マンは出される食べ物やテーブルセッティング、主人側・来客の服装など事細かに記していて、読んでいる方も容易にそのシーンを思い浮かべることができる。ただしおそらくこれはドイツ人の中でもかなり年配の人の場合で、Atlas という言葉などなんでこんなところに地図が、と思うと繻子・サテンのことだったり、Vatermorder(父親殺し)とあるのにぎょっとしたら、それは男性の襟の形だったり、洒落のめした衣装にしても今は古着屋でさえお目にかかれない類のズボンやチョッキなのである。幸い贅沢な食事のメニューの方は何となく想像できるものばかりだった。
私にとって最も関心があったのは家の作りや部屋のしつらいで、まず Landschaftszimmerというのに興味をそそられた。直訳すれば「風景の部屋」という意味だから、そこからきれいな景色が眺められる部屋かと思えば、町なかの事務所も兼ねたような家で遠景など見られるはずはなく、それは壁に大きな風景画を掛けた部屋のことで、Landschaftszimmerとネットで入れると写真 2 が出て来た。そしてこれはブッデンブロークスハウスからとあるから、典型としてブッデンブローク家のものが有名なのだろう。といってもこれは普通名詞であって、この他にも壁の全面に多くは古今の異国の景色を描いた部屋などもあったようだ。

それで思い出したのがだいぶ前にミュンヘンのピナコテーク美術館(ピナコテークというのはギリシア語で絵画の収蔵所という意味だからあえて美術館とことわる必要はないのだが)で見た部屋で、四方の壁にイタリアの風景がパノラマのように広がっており、「君知るや南の国」に憧れたご婦人たちがこんな部屋でお茶を飲んだのだろうかと想像した。早く言えば、日本の襖絵とその趣旨は同じである。
こうした視覚的な描写と並んでマンがたっぷり紙幅を割いているのが主要人物の心理描写である。図 1 に示したブッデンブローク家代々の家系図の中で、商会の創始者ヨハン・ブッデンブロークはこの物語が始まった時点ですでに世に亡く、二代目のヨハン・ジーグムント・ブッデンブロークとその妻は第二章で死去し、その後しばらくは同じヨハン・ジーグムントという名の三代目の時代になる。日本でも門閥を誇る豪商などでは当主は代々同じ名を踏襲する習いがあったが、このブッデンブローク家の場合それが「ヨハン」で、これでは混乱するから三代目はジャンと呼ばれ、その息子トーマスとオランダ人ゲルタの間に生まれたヨハンにはハンノという通称が与えられる。

さてこの家系図の中で、作者のトーマス・マンがその心理描写や心の内の働きに注力しているのは 3 人だけで、その一人トーニについては最後に述べることにして、本人の心理―不安や失望、葛藤等について延々と語られるのは四代目のトーマスと、彼の早世の息子ハンノである。あとの人物はその発言や会話などから心中が察せられるだけで、何を考え何を望んでいるのかさっぱり分からない。コンズリンのエリザベートにしてもその末娘クララにしても、次男のクリスチャンの場合でさえ、心の内は語られないので共感の持ちようがないのである。このしら~とした感じが最も顕著なのはトーマスの妻で芸術家気質のゲルタで、この夫婦の間には血の通いというものがまるでない。
ということは、おそらくトーマスと彼の息子ハンノだけが作者の分身的な存在と言えるのだろう。実科学校を卒業して 10 代で家業の手伝いを始めたトーマスは 29 歳にして四代目の長として颯爽と出発し、新婚早々豪邸を建てたりもするがバイオリニストの妻が生んだ息子のひ弱さに失望し、40 代半ばで自らの能力と肉体の限界を悟ってからはハンノを後継者とすることもあきらめ、自分の死後は事業を畳むようにという遺言を残す。客観的に見ればハンノは長じてのちのトーマスの繊細さとペシミズムを濃縮したような人間で、幼くしてその身に父親の苦悩を丸ごと背負わされた哀れな存在である。
あるとき、身も心も疲れ果てたトーマスがたまたま見つけた哲学書をあずまやで開くシーンがあって、その章の題は“Über den Tod und sein Verhältnis zur Unzerstörbarkeit unseres Wesens an sich“(直訳すると「死及びそれと我々の存在の不滅性との関係について」)となっており、ミュンヘンでショーペンハウアーの著書に読みふけったというトーマス・マンの姿と重なる。
また、自分は生来商才を欠き一家の長として失格だが、といって大学には行かずギムナジウム(ハイスクール)のあと実科学校を卒業しただけの自分には学者となる道も開かれていなかった、と嘆くのもトーマス・マンの履歴と似ている。しかしこの当時の特に都市においては、商人というのは決して侮られる職業ではなく一般に言われるカウフマン(Kaufmann 英語でマーチャント)は立派な専門職とされ、だからカウフマンという苗字も多い。オランダや英国ほどの商業重視はなくとも、なかんずく北ドイツにおいては 18 世紀の重商主義の影響がまだまだ大きかったのではないか。
ほんの 18 歳かそこらの娘トーニがトラーヴェミュンデで静養していた夏に恋に落ちる民宿の息子は、その頃ゲッティンゲン大学というドイツ北部の名門で医学を学んでいたのだが、その宿主の一家とブッデンブローク家とのやり取りを見ると明らかにブッデンブローク家の方の身分が格段に上で、大学生であることも医師を目指していることも商家の子女に対する優位とはならず、社会的地位を保証するものではなかったことが分かる。
だがトーマスが深く落ち込んだ背景には、道楽者の弟クリスチャンと激しくやり合った時、彼に「商人なんて、みんな詐欺師だ!」と罵られたことで受けた傷があった。クリスチャンはそういう理由で商業の道に進むことを拒否したわけではなく、何をしても長続きしないただのずぼらである自分の立場を正当化するためにそう言い返したのであってトーマスが傷つく必要はなかったのに、やはり商人であることに忸怩たる思いだったのは、おそらくトーマス・マンの場合も同様であったろう。
トーマス・ブッデンブロークの一人息子ハンノは母に似て音楽の才能には恵まれていたが、そのことはブッデンブローク家の人々にとっては何の価値も持たず、虚弱で成績も芳しくなかったことから学校でもいじめにあって、それもまた父親にとっては頭痛の種であった。
ハンノが唯一心を許せる相手は、落魄した変わり者の伯爵の息子カイで、彼は夢見る文学少年というところで天与の個性を感じさせたが、トーマスはハンノがそのような友人を持つことを好まなかった。自身が運命に深く傷つき懊悩しつつ、落ちこぼれの息子に手を差し伸べる術を知らない父親という点では、このトーマスは後の不甲斐ない家庭人としてのトーマス・マンの予兆のように思われる。もちろん当時のマンの方はそういう自分をまったく自覚しておらず、結末は「図らずも」ということで、これも一種のイロニーである。
後半、特に最後の三分の一ほどは暗いエピソードばかりが続く上に、落ちていく人間の詳細な心理描写で読むほうも気が滅入る。その時に私が思い出したのは、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の主人公ハンスだった。この作品を私はきちんと読んでいないが、あらすじを知って興味を持っていた。ハンノと異なりハンスという少年は知能レベルも高く学業優秀で、周囲からの大きな期待を背負って神学校に入るが、自らの内部に湧き上がる疑問のために親たちの願う方向に進むことができず落伍者となって果てる(そうである)。この本も積読の一つなので近々読んでみようと思うが、いや、もうその感想文は書きませんのでご安心を。
それにしても、トーマスといいハンノといい、またヘッセの語るハンスといい、私は悲運の俳人杉田久女の句を想わずにはいられない。
・個性(さが)曲げて生きる道わかずホ句の秋
人間の歴史を今振り返って思うのは、長い間―本当に長い間―個性のままに生きられた人間は、ごく少数の幸運な人達だったということである。
「ブッデンブローグ家の人々」やりましたね。ちょうど読み応えのある1冊分で完結するとは次回作も当然予感、期待してます。
僕のような門外漢でも、読み応えのある著作の読後感に浸れました、たくさんの人が同じ感想を持つこと間違いありませんね。偉そうな言い方ですいませんが…読ませる書き手が立ち上がった場面に立ち会えた気分です…ありがとうございました❣️今日はいい日になりました😌