句会で選句した作品を私なりに鑑賞してみました。
ご参考まで私の所属する結社を紹介します。山口誓子を師とする主宰のもとに我孫子、流山、東京、広島在住の会員約十五名ほどが集まる「白金葭」という俳句結社で我孫子市に本拠があります。句会の開催と会誌の発行を月一回行っています。芭蕉研究に熱心な主宰や句歴七十年というベテラン、個人句集のある人、「小熊座」などメジャーな結社の同人などから私のような初心者まで力量の幅は大きいですが、句会はいつも和気漂う共同錬磨の場となっています。
穭(ひつじ)穂のしつかり稔り頭垂れ
光成高志
稲の刈株から穂が出て、たわわに結実した。自然の再生の力は凄い。やがて渡り鳥などの冬の貴重な糧になる。
枯葉捲く銀座画廊や三島の忌
増田陽一
画廊や美術館の集中する銀座一丁目界隈には柳通りや銀座の柳由来の碑がある。割腹自殺した三島由紀夫の憂国忌がある十一月下旬は凩の季節で、街路樹柳の枯葉が寒風に吹き上げられて路上を走る。
秋桜に姿うずもれ花を摘む
淺野正美
丈の高い茎で密生して咲くコスモス畑が一面に広がる。迷路のような花の中に身を没して夢中で花を摘む。どちらを向いても軽やかな綺麗な花、花。なんと幸せ!
小さき手を祖父と繋いだお酉さま
橋ことり
縁起物の熊手と売買成立の拍手で知られる浅草鷲神社の酉の市。幼い孫が祖父の大きな手にぶら下がっての参詣だ。嘱目吟、あるいは幼時回想の句いずれであっても本句の要(かなめ)は「手」である。
竹馬の誰彼夢に菊枕
飯田孝三
敬老長寿の贈り物の菊枕で眠ったら夢で幼馴染みの皆に逢えた。遙かな人生の起点への郷愁という点で久保田万太郎の有名な「竹馬やいろはにほへとちりじりに」の句を類想させるが、季語「菊枕」で本句独自の感慨を醸している。
擦り切りて猶霜月のきりぎりす
増田陽一
余命永らえて初冬までたどり着き老残とも妄執ともいうべき姿を曝している昆虫の姿。哀れではあるが、感情移入して己が人生の行く末を想わされぬでもない。
冬越しの陽を溜めてをり瑠璃立羽
増田陽一
初冬までに卵を遺して死滅する蝶の中で瑠璃立羽は成虫で越冬する。黒地に鮮やかな青の帯模様の浮かぶ翅を拡げる姿を小春日の日溜まりに作者は見たのである。
柿落ちて豚啼くむかし世田谷区
増田陽一
昭和初期まで世田谷区は東京市郊外の農村地区だった。現在の高級住宅地の景観から当時を偲べば呆然とするほかない。「豚啼く」が当時と現在の風景の落差を端的に示して秀逸。
クレマチスさんの引いてくれた千夜千冊で金子光晴の行状思い返せました。金子光晴の晩年の顔は父の兄、つまり僕のおじさんに似ていると気が付きました。なんか嬉しいです。
春硯さんの鑑賞と繁さんのコメントに深く共感します。金子光晴という複雑で忘れられない日本人の名前を久しぶりに目にしました。私たちと同時代の松岡正剛が金子の「絶望の精神史」についてもう20年も前に書いた骨身に滲みる書評を読み返しました。
松岡正剛の千夜千冊0165夜
https://1000ya.isis.ne.jp/0165.html
春硯さんの鑑賞文が添えられたことで句がいっそう際立ちますね。ありありとした映像が浮かぶ今回の選定句集続編鑑賞文付きで、よろしくお願いします! きりぎりすの句は老残をさらす覚悟の(私見)金子光晴の詩を思い出しました。