top of page
執筆者の写真クレマチス

特別寄稿 「いいおわせて何かある」考   磯目春硯


結社に入った頃に書いた雑文ですが、今読み返してみると、初心者の目に写った俳句の世界が、それなりに浮かび上がっているように思われて、これはこれで初心者の参考になるかも知れません。


「いいおわせて何かある」考 磯目春硯


「しゃぼん玉虹色割れて夢と消ゆ」は、入門の頃に句会へ私が投句した句である。虹色の華麗な玉が夢幻の如く消える儚さを言いとめたつもりだった。だが、句会では一点も得られなかった。句会が終わってから、主宰がこの句を指して「すべて言い尽くして何かあるの句だ」と評した。それを聞いた瞬間、この句において私は俳句の要諦を逸していたことを悟った。 この句の場合、まさに時系列の序破急そのまま、すべて言い尽くして表現が完了してしまっている。直線的で屈折が無い。そこには読み手が参入して詩想をさらに展開する余地が無く、作り手と読み手の共同幻想へ架橋して作品世界を広げる可能性が乏しいことは否めない。何という未熟!

其角が句集に選んだ巴風の句「下臥しにつかみ分けばや糸桜」を、去来が「いと桜の十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」と褒めると、芭蕉は言下に「言ひおほせて何かある」と否定した。全てを表現し尽くしたために余情、余韻が喪失という欠陥に陥っていることを指摘したのだ。言い尽くしてしまったら、あとに何が残るというのかというのである。これを聞いて「ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。」と豁然大悟して、「去来抄」に記した去来もさすがである。

 芭蕉は「句は七八分までの表現ではくどい。五六分の表現で至当なのだ」とも言っている。、なにより端的で的確な表現と省略が産む余情。そこに俳句の要諦があると芭蕉は力説している。

最短の詩型である俳句は、詩語の表現力と連想喚起力の最高の発揮を生命としている。僅か十七音でミクロもカオスも含めて人間のコスモスからポエジーを拉し来たって表現するという大業を成し遂げるには、詩語の厳選と徹底的省略が必須である。詩語の厳選とは言葉の暗示力を洞察して選び抜き、詩語の組み合わせ、つまり「取り合わせ」による相乗効果も視界に入れたものであるべきだし、同時に徹底的な省略とは、語らずに語る無言の表現の可能性を見定めて、言葉を削ることにほかならない。

 たとえば蕪村の句「愁いつつ丘にのぼれば花茨」。この句に心と自然のドラマを観取するとき、いかに錬磨の選択と省略が蕪村によって駆使されているかを見落としてはならないであろう。読み手はその選択と省略を念頭に置いて作品世界の構築を始めるのである。俳句が省略から生まれた余白によって表現する文学、あるいは余情の文学と言われるのは、この芭蕉以来の俳句特有の詩法と作品の故である、

 俳句に限らず定型詩とは、本来言葉を選び抜きギリギリまで表現を絞って、そこにできる言語的空間に詩情を見え出すものに思われる。。長く小説を読み自作も試みてきた私のささやかな経験からいっても、その点、散文とは対蹠的と痛感する。

小説でも表現の過剰はタブーだが、自然主義文学の出発点をなすバルザックやゾラでもすでに明らかなように,全体的表現への志向は散文の否定できぬ属性である。社会と人間の徹底的追求と全体像の表現は近代小説の主潮をなすものである。散文,特に小説では、芭蕉の「言ひおほせて何かある」の論理は無縁のものか、あるいは無効といわなければならない。

私の内部に、すべて言い尽くしたいという表現欲があり、それは主として散文の世界に関心を寄せてきたために自然と身についたものである。作句でもそれが作品として表出してしまったのが、冒頭のシャボン玉の句なのであり、私が小説的俳句を作ってしまいがちな要因はそこにあると自戒している。主宰の評言はその意味でも貴重なものであった。


閲覧数:54回1件のコメント

最新記事

すべて表示

1 Comment


繁 大村
繁 大村
Nov 29, 2020

拝見して、僕はつくづく散文的な人間だなぁと思いました。現役の仕事時代忙しい中で心が弱っていく実感があり、せめてその時々に思い浮かんだ気持ちを映像で残したいと思い短歌の形を借りて散文を書き散らしていました。それはそれでその時の自分の気持ちを思い出すことができますので個人的には楽しい思い出です。 さて俳句ですが…僕は贅沢に作者の気分を味わえる観客の座を守りたいと思います。春硯さんの噛んで含めるような語り、、、僕の中では散文詩です。春硯さんの作句の長い物語が始まるワンシーンの映像として誘い込まれました。

Like
bottom of page