終戦記念日を前に―ドイツの黒い森から 73(びすこ)
- クレマチス
- 8月14日
- 読了時間: 15分
今年初夏にドイツで世間の耳目を集めた話題の一つに、学校教育の一環として生徒たちに強制収容所の見学を義務付けるべき、という教育界の一部の人たちの主張があった。強制収容所とは無論、第二次世界大戦中にヒトラーの第三帝国政権がドイツおよびその周辺の占領地に設けたユダヤ人、反ナチ分子、敵国の捕虜、スパイ容疑者その他を収容するための施設である。(ドイツ語で Konzentrationslager と言い、長いので省略して KZ と呼ばれることが多い。私も今回はこの KZ という略語を使う。因みにこれはドイツ語ではカーツェットと発音する。)
戦後 80 年の今になって少年少女の KZ 見学を必須とすべきとする議論の裏には、2 年近く前のハマスのイスラエル人質事件に端を発して、イスラエルがガザなど貧しいパレスチナ人の地域を攻撃して一定の成果を上げていることに対する欧州左派の反発が激化し、特にドイツの大学町や大都市で暴力的な反ユダヤ運動が蔓延ってユダヤ人憎悪を煽っていることへの懸念がある(そうである)。
そうである、と書いたのは、実のところはそんな簡単な理由づけでは済まない事情がドイツにあるからで、KZ 見学を主張する教育者がみな親ユダヤということはなく、また本気でパレスチナ人たちの反ユダヤ運動を鎮めたいと考えているわけでもなく、むしろ教師たちの間にひそかなユダヤ人嫌いが多いことは明らかだからだ。
戦後ドイツがどれほどナチス時代の罪を反省し贖罪に取り組んでいるか、そのことはいろんな政策・手段で示されている(ようだ)が、私のような、いわば外側の人間が見ても、ドイツ全体に根強いユダヤ人への侮蔑や嫌悪が残っていることは、周囲の人たちとのちょっとした会話からも明らかである。私がある女性の人柄を褒めたとき、元教師の義兄が「でも彼女はユダヤ人だよ」と言ったことを私は聞き捨てにできず、それがどうだというのですか、と言い返して彼を慌てさせたことがあった。この種の経験は直接のものだけでも半ダースを超える。
だから教師連の KZ 見学必須提案は、少し意地悪な見方をすると、ドイツに加え欧米各国でかなりの力を持っているユダヤ人グループや諸団体に対するアリバイ作りのような側面があることは否めない。口ではかつてのような反ユダヤ運動を蘇らせてはならない、と言いながら、実のところ昨今の動きにほくそえんでいる連中も少なくないのである。それも目下ドイツ政府が躍起になって進出を阻んでいる「極右」政党の人々のみならず、親イスラムの欧州左翼の間にその悪意が見え見えなのだ。
この KZ 見学必修科目案は今のところペンディング状態であるが、実は既にいくつかの州では義務付けられている(ドイツでは教育政策は原則として州政府に委ねられる)。その一つが私の住む州の東隣りのバイエルン州で、ナチといえば当然その拠点としてベルリンを連想するが、実際はナチ称揚・ヒトラー崇拝の運動が最も激烈だったのはミュンヘンを州都とするバイエルン州であった。ここはすぐ東にオーストリアが控えていて、ヒトラーがドイツとの国境に近いオーストリアの町の出身であることも関与しているだろうが、ミュンヘンという大都市の、他に類を見ない華やかさがヒトラーを魅了したのかもしれない。彼が本格的な政治活動を開始したのもミュンヘンにおいてであった。第三帝国の様々の大会・集会がここで開かれ、また同州内のニュールンベルクなどもナチにとって行政・立法や業務管理の上で重要な町だった。戦後の連合側による戦争犯罪裁判がニュールンベルクで実施されたのには、そのような事情がある。
したがってこのバイエルン州にも KZ はあり、それもアウシュヴィッツに次いで最も悪名高い収容所の一つであるダッハウ KZ が残っている。そしてここは、私がこれまでに訪れた唯一の KZ でもある。
あれは四半世紀近く前、ドイツで結婚して間もない頃、ある日夫に「ドイツに住むからには一度強制収容所を見ておく必要があるだろう。喜んで行きたい場所ではないが、いわば一つの義務だ」と言われた。その時はそんなものかと思い別に反対も同意もしなかったが、あるときアルザスへの小旅行でその地方の知識がほとんどない私を車で連れて回っていた夫が、広い敷地に古い建物がまばらに立っている所で車を停めて、ここもナチの KZ だよ、入ってみるか、と訊く。何の心の準備もしていなかった私は驚いて咄嗟には答えられず、少し考えてから「またにするわ」と言った。そうか、とそれだけで済んで別に強制はされなかったが、このことで、本当に一度は見ておかなくちゃいけないんだな、と少し本気になった。
それからだいぶ経って、夫がミュンヘン郊外の顧客を訪ねるのに同行した際、彼が商談している間に、いつものように町で買い物をしたりカフェに入ったりする代わりにダッハウのKZ を見学しようと思い立った。調べるとバス・電車・バスと乗り継いで小一時間の距離である。
ダッハウ駅からは収容所直行のバスがあり、それも比較的頻繁なので待つこともなく乗ることができた。不運なことに、乗り合わせたのはアメリカ人のグループで中高年者もいたが大半は若者層であった。彼らの傍若無人ぶりにはもう言葉もないほどで、そもそもかつて何十万人もの無辜の人々が犠牲になった場所へその恐ろしい歴史を記憶するために行こうとしているのに、彼らはまるでピクニック気分で歌い騒ぎ、いい年をした男性たちも彼らに注意することは一切なかった。この人たちはなぜ KZ を訪ねるのだろう、戦争について何を知っているのだろう、そもそもアメリカでどんな教育を受けてきたのだろう。あれこれ考えると吐き気がして、バスが到着するやいなや一番に飛び降りて入り口に向かった。
見学者はアメリカ人を除けばさほど多くはなくて、その彼らもまず門を入ったところで到着早々コーラをラッパ飲みしながら休憩しているので、私は邪魔されずに広い敷地と建物を見て回ることができた。
入って右側には昔の建物が保存されている。そこは独房が多く、取り調べや拷問の行われた部屋もあった。ここに収容されたのは比較的高いステータスの人々、というのも妙な表現だが、要するにドイツ人から見て劣等とは分類されない囚人で、スパイ行為の罪や騒乱の企てを疑われたドイツ人、あるいは英仏など西欧人の捕虜が厳しい尋問を受けた施設であった。
それらを見たときの第一印象は、その少し前に夫の大学同窓会のイベントで訪れたザクセン州はバウツェンという町に残る旧東独の政治犯の刑務所に酷似している、というものだった。建物の外壁が淡い黄色なので一般には「黄色い悲惨」という呼び名で知られるその施設は、東西ドイツ統一までソ連の傀儡として「われわれはナチとは全く無縁である」と主張してきた東独政府によって運営されてきたわけだが、それがよりによってナチの KZ をモデルにしたかのような獄舎とは。

ダッハウ収容所は相当広く、大きな空き地の反対側には、俗にいうバラックのような建屋がポプラ並木を挟んで左右に建っている(写真 1)。一般の囚人はここに収容され、狭い空間に二段ベッドがぎっしりと並ぶ。建物といえばこの左右の二つだけなので不思議に思ったが、入り口の受付で借りてきたガイドフォンの説明によれば、戦後西ドイツ政府はこれら二つを見本として残し、その後ろにずらりと並んでいた同じサイズ・同じ形状の囚人棟は全部取り壊されてそれらのフットプリント、つまり嘗て建物があったと分かる跡だけが残されているのだった。
そしてそれらの建屋には手前から人種国籍によって順位がつけられ、それぞれ西欧人、東欧人、ロシア人、バルカン人等を収容し、最下等のレベルがユダヤ人で一部同性愛者やロマ(ジプシー)も彼らの中にいた。
真ん中の径を歩いて行くと突き当りには記念碑としてチャペルが立っている(写真 2 )。石の礼拝堂のデザインは美術的観点からは興味深い建築物であるが、これがカトリック教のチャペルというのに私は些か抵抗があった。建設は 1960 年で私が KZ を訪れた時期から数えて 50 年ほど昔のことであり、保守的なバイエルン州は新・旧教徒が半ばするドイツで最もカトリック教信者の割合が多い地域だから、それは当然と受け止められたのかもしれない。また、その記念碑の建立を企画したのはミュンヘンのカトリック教会の神父で、彼自身ナチに抵抗して 1941 年から終戦の 1945 年までダッハウに収容されていた。一体に聖職者はナチから危険分子とみなされ、各地の収容所で命を落とした教会の指導者も少なくない。

従ってキリスト教の、それもカトリックの要素をこのモニュメントに付与したかったという意図は分かるが、捕われの聖職者の中にはプロテスタントの牧師もいたし、正教徒の囚人もいたはずで、何より最も残虐な扱いを受けたのはユダヤ教徒である。その施設に特定の宗教の色が濃い慰霊碑というのはいかがなものであろうか。(十字架はユダヤ教では禁忌とされる。)私は日本での靖国神社をめぐる論争を思わずにはいられなかった。
ダッハウを私が訪れたのは 7 月だったので、径の両側に立つ見事なポプラの列が濃い緑色に輝き、風にそよぐ葉末の美しさと、どこまでも澄んだ真っ青な空と、暗黒の過去との対比に胸を打たれた。
・訪ねきて収容所跡にたたずめば鼓動に重なるポプラのさやぎ
そのときの衝撃を託した後日の拙歌である。
見るべき場所は見終えてホテルに戻ろうと門に向かっていたら、13, 4 歳の男の子二人が駆け寄ってきて「一緒に写真を撮りたいのですが、よろしいでしょうか」と英語で訊く。とても感じのいい少年たちでアメリカ人のチンピラボーイとは大違いだったので「もちろんいいですよ」と答えると、後ろの方にいた 3, 4 人の男女がそれを聞いて「私たちも一緒に」と寄ってきて、さらに少し離れたところにいた数人も仲間に加わり、私は 10 人ほどの中学生と一緒にカメラに収まることになった。
お礼を言う彼・彼女らに「あなたたちはどこから来たの」と尋ねると「ここバイエルン州の生徒なんです、見学は授業の一部で」とのことで、学校のプログラムに従っていることが分かったのだった。聞くも恐ろしい KZ で遠くから見学に来た日本人に出遭ったと、先生や両親に写真を見せて報告したかったのかもしれない。そのときの彼らの礼儀正しい振る舞いにドイツの若者を見直し、少々辛すぎた一日の最後が少しだけ明るくなった。
ところで上に述べたアルザスの KZ であるが、結局そこには今日にいたるまで足を踏み入れていないものの、思いがけない所でこの KZ への言及に遭遇することになった。
これも 17,8 年ほど昔の話になるが、「愛を読む人」という映画がアカデミー賞を得て評判になり、日本でもずいぶん話題になったらしい。私はこの種のハリウッド映画にはあまり興味がなかったのだが、あるとき、この KBC でもラインでときどき顔(声?)を出す高校時代の同級生からメールをもらって、「私の娘がこの映画を見て『ハンナ・シュミッツさんがどうして英語で話すのよ』と言っている」とあったので、初めてその原作がドイツ語であることを知り、急いで「朗読者」を取り寄せた。
ここでその原作のあらすじ(映画はいくつか異なる箇所があるらしい)を簡単に紹介すると、主人公で語り手でもあるミヒャエル・ベルクの少年の頃の恋人ハンナ( 1943 年生まれの主人公より 21 歳年長)にはポーランドの KZ の看守として働いた過去があり、さらにその経歴を探ると、戦前はドイツ帝国の領土だったルーマニアのジーベンビュルゲンの生まれ育ちであった。彼女の家庭の背景には触れられていないものの、後に判明したように彼女が「文盲」であったことは、ドイツ人が優遇されていたルーマニアで相当貧しい暮らしぶりだったろうと察せられる。
大学生になったミヒャエルは専門の勉強のためにフランクフルトの戦争犯罪裁判を傍聴に行き、そこで裁かれているハンナの姿を見て驚く。裁判は終始彼女に不利に展開し、当時の看守仲間から身に覚えのない罪まで転嫁されるのだが、彼女らの主張に対する反証には、自分が文字を読めずもちろん書くこともできないことを告白する必要がある。これはハンナには耐えられない屈辱で、それよりは無実の罪を被る方を彼女は選び刑務所に入る。
この裁判から戦争犯罪の重さを知り、ミヒャエルは KZ なるものを見学しようと考えるが、あいにくハンナに関係のあるアウシュヴィッツやその近くの KZ へは当時 1960 年代前半の政情からみて足を運ぶことができない。それでヒッチハイクをしながら彼が訪れたのがアルザスのナッツヴァイラー KZ であった。
原作者のベルンハルト・シュリンクが小説の舞台として選んだのは今私の住むバーデン・ヴュルテンベルク州の北部で、明示はされていないが父親はハイデルベルク大学の教授らしい。一つ明確に地名が出てくるアモールバッハにはオルガンで有名な教会があって、ここには私も 30 年近く前に行ったことがあるが、ちょうどバイエルン州とヘッセン州とバーデン・ヴュルテンベルク州の 3 州が接する地点に位置する。
つまり、その地理的条件を見ると、裁判の行われたフランクフルト(ニュールンベルクの裁判が連合軍占領下であったのに対し、フランクフルトのそれはドイツの司法に基づいて実施された)はミヒャエルの住まいの北方の「近所」であり、また現在はフランスの東北地方であるアルザスも国境のすぐ西側で、ヒッチハイクで行けるほどの距離なのである。
その舞台設定も、私が「朗読者」の原作を(当時のドイツ語読解力で)読み進む上で大いに助けになったのだが、後にこの小説との縁のようなものを感じたのは、ロマの救済プロジェクトに夫が関与していたため、ハンナの生まれ故郷であるルーマニアのジーベンビュルゲンに旅する機会が得られたことだった。
ジーベンビュルゲンはドイツ語名称で一般にはドラキュラで有名なトランシルバニアという名で知られており、そのトランシルバニア地方最大の都市はシビウである。そこもやはりドイツ語ではヘルマンシュタットと呼ばれていた。その歴史的経緯からシビウには今日でもドイツ人旅行者がかなり多く、町には「シラー」という名の書店があって、そこがドイツ人の集合場所になっているのがおかしかった。
日本なら、「朗読者」(というより映画「愛を読む人」)の人気に便乗して、どこかの村に「ハンナの生家」なんてものがでっち上げられ兼ねないが、実を言うとこの旅で私が認識を新たにしたのは、地政学というものの重要性であった。東と南に伸びるカルパチア山脈はさほど高くはなく急峻でもないので、ハンガリー人が先祖と仰ぐアッチラも、ジンギスカンもチムールも、馬を駆って難なくこの山を越えたであろうと思うと、元寇などで大騒ぎした日本の長閑さがありがたいような、滑稽なような。
それにしても、ドイツはどうしてこんなところにまで版図を広げたのだろう。私はこの国に住むまでは、海岸線の長さが限られるドイツはフランスや英国と異なり海外植民地をほとんど持たなかったので、戦後その負の遺産を清算する必要がないのはせめてもの幸運だと思っていたが、それは無知・無見識の為せる勘違いであった。ドイツ人は早い時期から大陸の東方に領土を拡大していたのである。
敗戦でこれら旧ドイツ帝国の住民は戦勝国に激しく追い立てられ、少なからぬドイツ人が虐殺され、危険を承知でかつての領地に残らざるを得なかったドイツ人はロシアやルーマニアなどの政府から人質として利用されて、ドイツ政府は彼らを帰国させるのに莫大な身代金を払った。
しかも、ナチの犠牲者として堂々とドイツという国を弾劾できる他の欧州人と異なり、ドイツ人は戦後 80 年経っても「加害者」のままで、この国の再生のために捨て石となった同胞の悲劇を語ることは許されないのである。それゆえの自虐的な思考様式も捨て鉢な憤怒も、現在の極右の台頭に繋がっているのかもしれない。何かといえばホロコーストを持ち出されてうなだれるしかない口惜しさ。経済・財政的には欧州の繁栄に最も貢献してきたのに、主役を演じるフランスや英国のための縁の下の力持ちに甘んじるほかないという理不尽。
今の欧州を見ていると、結局人々はその歴史から大して学んではいないという思いを深くする。過去の戦争が、今までとは違う形で、つまりもっと洗練された巧妙なやり方で繰り返されるだけではないか。それに対しどんな悪い平和でも戦争よりはいい、という「平和主義者」の声を聞くにつけ、では、日本が海の外への扉を固く閉ざし、身分は固定され移動も言論も厳しく制限され、その代わり戦争も内紛もなかった徳川 250 年の「平和」はどうなんだ、と問いたくなる。
今日本では団塊の世代の「老害」を罵る声が聞かれるが、そもそも私たちの青春時代に「戦争を知らない子供たち」などと誇らかに歌った気楽さをどう評すべきか。先人に対する敬意を欠いていた点では今の若者と変わらない。そして、現在の「生きづらい」世の中に団塊の世代が責任あるとする人々も、40 年、50 年後にはその次の世代に責められる定めにあるのだろう。所詮世の中はその繰り返しなのだ。
私自身は、1940 年代生まれは戦争の後遺症に苦しめられた世代だと思っている。戦争そのものは知らないかもしれないが、戦争の残骸・残滓の中で育った。少なくとも私自身はそう言い切れる。

今から 17 年前の初秋に母が逝った後、その遺品を整理していると刺し子のような布が出てきて、妹が「こんなぼろ布、捨ててもいいわよね」というので見ると、何と千人針ではないか(写真 3 )。父が戦地に赴くとき、祖母と母とがその武勇と無事の帰還を祈念して近所の女性たちに頼んで縫ってもらったもので、千人の縫い手を見つけられたかどうかは知らないが、父はそれを携えて中国の東北地方に発った。そして九死に一生を得て帰還したときには、千人針を持ち帰ることも忘れなかった。
・北支より千人針も帰る秋
この話を私の弟妹は知らない。彼らの育った時代には、戦争の残骸は日本社会からほとんど掻き消されていて、一つには私が長女で祖父母・父母から昔話を聞かされながら育ったこともあって戦争は常に頭のどこかにあるのに対し、三歳下の弟や六歳下の妹の場合には、どんな形であれ、戦争に思いを致しそれについて語るということはなかった。まして千人針など。
万に一つの偶然で命拾いをした父は、同郷の出身者で構成される部隊が朝鮮から出港して大宮島(グアム)で玉砕したことを受け、息子を失った母親や未亡人のための「恩給」受給の手続きに奔走していた時期があった。この手続きは簡単ではなく、殊に田舎の農家の婦人たちにとっては厄介極まりなかったようで、私が 4 歳ぐらいのときにも父がしょっちゅう遺族を訪ねて回っていたのを覚えている。
その記憶があるので、私は今でも帰国中には村の目立たぬ場所にある慰霊碑を訪ねる。
・父母の知る人の名尋(と)め来(く)慰霊塔
ちょっとしつこいんですが、訂正を兼ねて。ネットを見ていたら次のような記事が目にとまりました。Palantirという逆説:ユニコーンを生み出した哲学者、アレックス・カープとは誰か | The HEADLINE
https://www.headline.jp/articles242
(1)の242、(2)の244,(3)の247とあり、アレックス・カープについてかなり詳しく記されています。
訂正というのは、アレックスがドイツに渡る前に彼が父親の影響でドイツ語を習得していたと思ったことで、実際は渡独以前にはドイツ語の知識はなかったのですね。それをあえて、というのはやはり自分のユダヤ人としてのルーツと、ホロコーストのドイツ人について知りたかったというのが動機でしょう。西洋史・世界史を見るとドイツは西洋文明を担ってきた国でもある。また西洋文明の源泉にはヘレニズム(ギリシア/ローマ)と並んでユダヤ人のヘブライ文明もある。
ハーバーマスとの関係については聞いていましたが、私はこの人が嫌いなので言及しませんでした。嫌いなわけはかつて羽仁五郎に嫌悪感を覚えた理由に似ています。後には似たような理由から鶴見俊介も嫌いでした。しかし一番大きいのは、かのメルケルがハーバーマスを自分の人気取りに利用したことで、彼自身も喜んで利用されたことです。もっともメルケルは哲学などどうでもいい人なので(悪い意味での理系)、彼女を取り巻く「4人の魔女」と言われる得体のしれない顧問だか助言者たちのオピニオンに従ったわけで、ここでもメルケルと彼女らの共生がドイツという国に恐るべき影響を与えたのでした。
なかなか面白い記事ですので、お時間があれば是非。
すみません、いちまるさん、フォーラムを覗くのがちょっと遅れたのですが、慌ててコメントしようとしたら、何とコメント欄が機能しないのです。そこをクリックすると消えてしまう。それでこのブログのコメント欄を借りて、いただいたコメントへのレスとフォーラムへのコメントの両方を兼ねた珍説を綴らせていただきます。
私、貨幣の話はさっぱり分からないのですよ。実は昨年S銀行に勧められて、手付かずのままの預金の一部で国債を買いました。利息なんか雀の涙で、富豪が利息で暮らす時代は終わっているとはいえ為替や投資で大儲けという人は今でも、いや今の方が、たくさんいると思います。そういう生き方は自分とはもちろん無縁で、縁を持ちたいとも思わない。ただ単純な私としては、1年たつといつでも解約できる、利息は自動的に口座に入る、という気楽さと、勧める銀行員がいい感じの40代だったので、少し花を持たせてもいいかな、と同意したまで。
その話を東京で会った友人にしたら、「そんなことをするのって、国債で国民から借金しまくっている政府(日本銀行)に組するようなもんじゃないの」って非難されました。うーん、世の中難しいんだなあ。ドイツが今年まで執着していた「国の債務ゼロ」を日本が真似たら、福祉政策の大部分はストップしてしまう。子ども手当、生活保護、医療費援助、最低年金額、どれも借金なしでは無理です。0.6%の金利で貸した私の微々たる蓄えが福祉の継続に微々たる助けになるなら、まあいいか、と思うのですが、友人からそれについて批判がましいことを言われたのには、ちょっとショックというか、うんざりして、もう二度とお金の話はすまい、と思いました(と言いながらここでしているのだけれど)。
今更資産を増やすなど、考えもつきませんが、行政上必要な資金の源泉としての税については、これはもう仕方ありません。国とか領土というものができて以来人間は何らかの形で「お上」にこの税を納めている。正しい税というのがあるかどうかも分からずに。ただ、税を無くせというのは暴論中の暴論だと思います。所得税・相続税・消費税、それぞれ影響を受ける人達がいて、一番余波が大きいのは買い物する人全員が払う消費税ですが、全員が相手だから一番フェアともいえる。今ドイツでは最富裕層の税を増やそうという声が出ていますが、これをやると富裕層はアメリカ、スイス、バハマ諸島、ジャージー、モナコなどに住居を移す。フランスでそれが起きて隣のベルギーに移住する人が増え、財務省が悲鳴を上げてまた元に戻りました。結局もぐら叩き、鼬ごっこなんですね。
スイスはお金持ちの駆け込み寺みたいになっており、世界中の合法・非合法の金持ちの資産管理で国は潤っているので、ケチケチと相続税を取り立てる必要もない。それでますます多くの金持ちが集まり、ますます投資銀行は儲かり、余裕しゃくしゃくの国になっています。
今月初めにトランプさんはスイスに39%という関税を課してスイス人を仰天させました。EU加盟国と日本・韓国は15%なのに「なぜだ!」とスイス人は叫んでいます。ちょうどスイスにいたときその発表があったので、もうどの新聞の第一面にも大きな「39」という数字が舞っていました。その背景はいろいろあって、私も要約すらできないので触れませんが、アメリカが「いいとこどり」のスイスに腹を立てていたことは確か。(それと、私の意見です、戦争が起きるたび『中立』を掲げるスイスの卑怯ともいえる態度に、トランプは一矢報いたかったのかもしれない。)EUは「ざまーみろ」でまさにシャーデンフロイデ(Schadenfreude)です。
その件については事の成り行きを見守っていくことにして、さて今あちこちで発生して収まらない戦争についてですが、1週間ほど前にアレックス・カープというソフトウェア企業の主についての記事がスイスの新聞に掲載されました。私は全く聞いたことのない人でしたが、既に世界中でその名が知られているPalantirパランティアという会社の創設者・CEOなのですね。
記事の題が「新しいオッペンハイマー」というものだったので興味を惹かれたのでしたが、オッペンハイマーって原爆の開発に従事してマンハッタン計画とやらで日本を無条件降伏に追い込んだ原水爆弾を世にもたらした人でしょ。
アレックス・カープは戦争を無くするには技術で対抗するしかない、と考えており、オッペンハイマーが原爆によってこの80年間大規模な戦争を不可能としたように、最高レベルのソフトウェアによって中国・ロシア・イラン(ついでに北朝鮮)などの独裁国家に対峙して攻撃・侵略を不可能にする、というのが目標なんですって。
彼自身は口をつぐんでいますしアメリカ政府もCIAも黙していますが、2011年のビン・ラーデンの捜索と射殺にはこの会社のソフトが使われたらしい。彼と協力したらイスラエルのモサドだってハマスを倒すことができる。この6月末のイランの核施設破壊はモサドの諜報活動によると言われますが、実際はパランティアが背後にいる可能性も。
ところがそうやって独裁国家やテロリスト集団を撲滅することに、反対している国もあるんですね。とっても不思議なことなんだけど、西側先進国であるドイツもパランティアとの協力を拒否している国の一つで、ということは、独裁国家・ならず者元首に消えてもらっては困る、ある程度存続してもらわねば、と思っている政治家+マスコミが世界中にいるということです。プーチンやハメネイなども少なからぬ人間(それも民主主義標榜者)の商売のタネになっているわけで、こうなると技術よりも政治の問題になってきます。
あれこれ御託を並べてしまいましたが、私が言いたかったのはちょっと別のことで、実はこのアレックス・カープって半分ユダヤ人なんです。お父さんがドイツ国境に近いオーストリア西部からの移民、お母さんはアフロ・アメリカン。写真を見てその風貌から一目でユダヤ系と分かりましたが、ちょっと肌の色が濃いと思ったらお母さんが黒人系でした。
彼は自己申告では「社会主義者」で、すべての人間が公平な医療を受けられるべきと2016年はヒラリー・クリントンを応援したそうで、共同創立者のピーター・ティール(ドイツ生まれでかなりの右翼)とはちょっと違いますが、ユダヤ人としてのアイデンティティには誇りを持ってイスラエルとも親密な関係を保っているそうな。
父親がドイツ系ユダヤ人だからドイツ語も堪能で、ドイツの大学でも学んでおり、そこで博士号を得たようです。
それで興味を引いたのは、彼がインタビューの中で、ドイツにいた時期にドイツ人一般のユダヤ人憎悪を肌で感じたと言っていること。上記の通り風貌からユダヤ系と分かることもあって、それはわりと深刻だったらしい。
それについて、彼はこう語っています。「その時期、私はしばしば第二次世界大戦中に欧州にやってきたアイオワ州やカンザス州の出身の若者(兵士)のことを思った。彼らは私のような人間を解放するために命を賭けたのだった。」
ドイツの正式な降伏を待たずしてダッハウKZの囚人を解き放ったのは、アメリカ人兵士でした。
そのカープ氏、メディアなどへの露出を好まぬためもあるのか、なんとリヒテンシュタインに(も)居を構えており、そこに滞在することが多いのですって。リヒテンシュタイン公国ってスイスの一部のようもので君主制である点だけが異なり、スイスのもっとも豊かな州と言ってもいいくらいだから、なんだか「社会主義者」には似合わないような気もするけど。ただし、お金がイチバン、命よりお金、というスイスの、特に都市部はユダヤ系には住みやすい所です。
確かな記憶は貴重ですね。びすこさんのご郷里にしっかりと当時の記憶が、あちらこちらに確かに残るよすがとして残り、それがまた記憶を確かなものにしている。唸るばかり。
やわらかな飴ように切れ目なく連続した歴史の記憶…それぞれの個人の幻想だと思う。感じの悪い人に会えば頭の中では、あえてあっという間に消してしまっても、実際のところ、そうは簡単に記憶は消えない。あの人はユダヤ人だからあーだ、こーだ。理屈ではない感情。日本人が朝鮮や韓国の人たちに対する僕らより1世代、昔の先輩たちの感情に接するにつけ、反論を試みるも、やがて虚しい。
びすこさんが見学者の子供たちと一緒になって写真に収まったそのスナップ写真の意味の重さ…どうやって測るんだろう?子供たちの直感を信じる方がずっと気分が良い。
事実は事実として記録する。大変な仕事でもやっておかなければならない。後の人が歴史を上手に思い出すために、丁寧に記録した事実、、ほとんどは証拠隠滅のために消された記憶はかろうじて文字と写真で残る。びすこさんの考察もまた。
はい、無事に新しいアイホンを入手できました。シュトゥットガルト郊外のショッピングモールにあるアップルの店で、最初、ハリウッド映画に悪役で出てきそうな色黒・デブ・髭だらけの大男が対応してくれて、なぜかここは強面の外国人の店員が多いなあ、と思っていると、肌の色はきれいな褐色で大きなお眼目で笑顔がメチャ素敵な、割と小柄な、ということは威圧感のない若い女性(24歳の大学院生だそうです)が、支払のあとの技術的な手続きを担当してくれ、一緒に行ってもらったMさんは鼻の下を長くして質疑応答していました。20代、50代、70代(80歳に近い)の三世代が和気あいあい、この女性のおばあちゃんでも私より若いんだろうな、と厭でも年齢を感じさせられました。
私たち二人が出かけるというと、今夏休みなので亭主が「俺も」と言ってついて来て、携帯のことなど分からないから店でチョー退屈し、一人でさっさとお目当てのカフェへ。だいぶ待たせてから私たちもコーヒーを飲みに行きましたが、要するにここでカプチーノとリンゴのタルトを注文するために1時間半かけて付いてきたわけです。
さて、コメントにある藤山一郎の「長崎の鐘」ですが、私は作詞がサトーハチローと知ったとき、ああ、あの「小さい秋見つけた」の詩人か、という程度の認識だったのが、後に妹さんの佐藤愛子の「血脈」を読み、わあ、こんな滅茶苦茶な人があんな美しい歌詞を考えつくなんて、と改めて驚きました。
ダッハウのKZで夏の青い空を見上げて頭に浮かんだのは、まさに「こよなく晴れた青空を哀しと思う切なさよ」というフレーズでした。
ラインで紹介されていた「クスノキ」は、そのままでは欧州では再生できないということで、YouTubeをいろいろ探して聴くことができました。テーマがテーマなので明るく胸弾むような、とはいきませんが、やさしいメロデイーでこれならなるほど少年少女の合唱にも向いていますね。
クスノキにはいろんな思い出があるのですが、それに触れていると別のブログが書けるほどなので省略して、この木は日本では珍しく大木になるため神木とされて明治神宮にも見事な楠がありますが、ドイツやフランス、要するに西欧にはありません。
ということは、温かい南欧なら生育可能なので、私はドイツ人グループとポルトガル領マデイラに行った時、この木を見ました。私は見慣れていますが、ドイツ人には珍しいのでガイドさんが張り切って説明、英語ではCamphor wood、ドイツ語はKanpferbaum、どちらも「樟脳の木」という意味です。
この木に初めて注目したのは80年代初めに鹿児島に出張した時で、街路樹の見事さに見とれましたが、聞けば楠は鹿児島市の木なんだそうです。これも後に知ったのですが、それに似た街路樹としての楠木は高知市の真ん中にも。高知といえばフェニックスの日曜市が有名だけど、お城の南側の大通りで木曜市が開かれるのは、楠の並木径沿いです。クレマチスさんは高知市内にお住まいだったので、ご存知ですね。
楠と言えばその桃色がかった薄茶の若葉が「楠若葉」として季語になることを知ったのは、10年余り前にかちねっとで自己流俳句を初めてからのこと。でもむろん楠若葉のことは知っており、社会人になってから連休前後に父母の様子を見に航空便で帰省するときには、目の下の山脈にこの若葉が花のように溢れているのを目にしました。
・楠若葉眼下に萌ゆる帰郷かな びすこ
ついでですので、明治神宮の見事なクスノキに見とれていたわが亭主の写真を(興ざめなので顔をつぶして)添付します。
今回のびすこさんのブログは 8 月 15 日に合わせた重いテーマを新しいパソコン環境のもと私には未知のメールアプリで送信していただきました。そのメールはブログ本文とは別の興味深い内容もふくんでおりましたのでコメント欄を使って以下に一部を引用させていただきます。藤山一郎の「長崎の鐘」については期せずしてラインで私が投稿した福山雅治の「クスノキ」とも響きあって面白く拝見しました。後の私の返信は蛇足ですが、このところ私たちを悩ませているメールアプリについての技術的問題についてなにか参考にしていただけたらと思って付け加えました。
「・・・お気づきと思いますが、このメールは新しいアドレスからお送りしています。別に必要とは思っていませんでしたが、ITに詳しい社員がスマホのメールアドレスと同じアドレスを持つと良いと言って設定してくれました。また、私のスマホは旧式だそうで、明後日には別の社員と新しい携帯電話を買いに行きます。「え、今までの内容は消えちゃうの」と怯えた声を出すと、いや、そのままそっくり移すから大丈夫、とのことで古くても私は構いませんが、老いては子、ではなく若い人達の言うことに従うことにしました。
今回のブログは終戦がらみで、戦争を知らないはずの私にはふさわしくないかもしれませんが、まあ、体験に基づくこういう意見もあるということで読み飛ばして下さい。
ところで 10 日間休暇でスイスにいた間に、ハイデンという小さな町にあるアンリ・デュナン・ミュージアムを再訪しました。スイス南西のジュネーブ生れのデュナンが没したのがスイス東北のアッペンツェル・アウサーローデン準州のハイデンであったことを知ったのはもう 20 年近く前、偶然にミュージアムの横を通りかかったときで、当時は私のドイツ語理解力も心もとなかったためその後何度か訪ねようとしましたが、改築の作業が長引きそのあとはコロナで、今年漸く、昨年完成した新しい施設を見ることができました。小さな建物であまり時間を掛けずに回れますが、訪問者の記帳簿があって私は何も書くつもりはなかったものの、ふと覗くと一昨日の日付で在スイス日本大使が首都ベルンから来館し署名していました。これは 2025 年 8 月 9 日が長崎の原爆から 80 年ということで、数年前に長崎から平和の鐘がこのミュージアムに贈られていたことを記念しての来訪だったようです。敷地の隅にその鐘があり、当然私は「長崎の鐘」の歌を思い出しました。
オーバーツーリズムの問題がしつこいほど取り上げられている一方で、スイスは物価も高いし(ざっと計算して日本の二倍)、世界の高級リゾートのどこにでも行ける富裕層ででもなければここに足を運ぶのは躊躇するでしょうし、特にスイス東部の田舎は地味でバカンスにはあまり人気のある地域ではありません。ただ、景色は抜群にいいので山歩きのため子連れ、家族で来る人達はいて、私たちも宿で総勢12人のオランダからの大家族と一緒になりました。・・・」
「・・・新しいスマホに変更予定の件とメールアドレスの変更承知しました。
受信した側からの報告ですが、これまではヤフーメールをメインに使っていたのですが、メール本文は問題なく読めましたが、添付ファイルがすべて winmail.dat という未知のファイル形式になっていて従来のようにダブルクリックですぐに Word や jpeg のようなファイル形式で開くことがができませんでした。
送信側のメールアプリがどのようなものかわからないので種々試みてみましたが、すぐには解決せず一時は途方に暮れていました。
そこでメールアプリ間の不調に問題がありそうなので、念のためいつも同報先に入れて送っていただいている G メールのほうで開いてみましたら、さすが Google 、もとのワードや jpeg に自動変換してくれて問題解決しました。・・・」