10月8日(日) やや曇り予報
昨日午後から兄のとこへ出向きました。やっと面会できるまでに回復し兄はすっきりと痩せていました。写真に撮って家族のグループLINEに流すと…規則正しい病院のバランスの良い食事の成果だと甥っ子の1人がコメントしました。
今後の生活について今の住居に住み続けることができないことをこんこんと説得しました。
甥っ子の長男の方が僕の後に行き同じように説得したようです。半世紀にわたり暮らした家を出て別の施設に入ることへの最後の抵抗ですね。その気持ちは充分理解できます。
僕の説明で頭では理解できても体が動かない。そういう時は、、ゆっくり急ぐ。
まもなく、兄は転院して本格的なリハビリコースに移ります。その勢いを借りて、そのコースが終わる頃に続いて、施設のお泊まりお試しコースを体験してもらう、、そこまでは頭に描いてもらうように施設のパンフレットを見せながら説明してきました。
ケアマネさんにその旨連絡すると、先行してとりあえず施設のほうに予約の申し込みをすることもできることを確認しましたので実行いたします。
頭ではわかっていても体がついていかない。同じ立場に立たされれば誰だってそうなる。兄を理解しつつチームで兄を施設入居へ誘導することを家族LINEで共有しました。
帰宅する途中、立石の中華料理屋で、海老そば、水餃子に、あったかい紹興酒、昔から馴染んだセットを頼む。
海老そばの澄んだスープが体に染みていく。完食して家に戻り一息入れてからバタンキュー。今、目が覚めてこれを書いてます。
兄が自宅で動けなくなり…それから始まった1年半の物語と考えればとても長い道中だったと僕には思えます。甥っ子たちが30年後この物語をどのような形で思い出すのか想像がつきませんが、、
おそらくは…物語は「そうなった」とあっさり総括することでしょう…あはは。
くしゃみする🤧えり掻き合わせ秋深む
お兄様が一人では暮らせなくなって、半世紀住んだ家を離れ介護施設に入所しなければならなくなった。そのための説得、私にも経験があるので分かります。というより老いた親を持つ人の多くは似たような経をしているはず。ただ、いちまるさんの場合は相手が親御さんでなくお兄様というのが少しユニークですけど。本来なら甥御さんたちの仕事の一端を弟として引き受ける。今どきそういう兄弟関係というのも珍しい。たんに優しい弟というだけでは済ませられない。
私の母も82歳で心臓手術をして、結婚以来60年余り住んだ家に一人で暮らせなくなりました。私は外国だし、弟妹は関東在住で狭い彼らの家で暮らすのは厭がるし、故郷を離れたくないというので新設の介護施設に入れたのはよかったのですが、母はそれを病院のように思っており「しばらくして元気になったらまた自宅に戻る」と繰り返す。他人の中での生活というか、自宅以外での暮らしは初めてで、社会性が全くなく自己中で老いても虚栄心は変わらず、同じ施設の女性たちの多くが農家・商家の出身であることも気に入らず、特別扱いしてもらえないことに不満を募らせて、1,2年すると「いい加減、家に帰して。こんなところはもう御免だ」とせがむようになりました。
そのときに「この介護施設は病院ではない。老いて弱って一人で暮らせない人に食事させたり入浴させたり掃除洗濯もして世話してくれるところだから、若返りが不可能な身ではこのままずっといてもらわないと困る」と説得すると泣きだしました。
最近古いノートや書類を整理していたら、作家の富岡多恵子さんが書いた「老いと病いのちがい」という記事を見つけました。記事と同年(1992年)の5月に亡くなった漫画家の長谷川町子さんの死について綴ったものなので、31年前のことになります。長谷川さんは70歳を過ぎて病気になってもそれは回復できない(引き返す見込みがない)老いのためなので、入院も手術もさせないでほしい、と言い残し、72歳で逝ったそうです。
富岡多恵子さんのことを結構好きだった私は思う所あってこの記事を取っておいたのでしょうが、<わたしが長谷川さんの「入院と手術おことわり」に強く心を動かされたのは、それが「老い」を「病気」にすりかえたくないという意志だと受け取ったからである>という言述に関しては、まさか自身の母が後にその「すりかえ」で周りを騒がせ関係者を振り回し、遠くの娘を何度も日本に呼び戻すようなことをするとは思いもしませんでした。人生90年が普通になった今思うと70代でというのはいくらなんでも諦めが早すぎる、と感じるものの、具体的な年齢や寿命の件はおもかく、これからただただ老い行くだけの身として、このことは心の隅に残しておかねばと思います。富岡さん自身は今年の春に87歳で没。カッコいい人だったというのが私の印象です。
・枯花を去らぬ蜂ゐるこの世かな
・秋の陽にポジティブ疲れを癒しける
・赤味さす力まだあり枯紫陽花