7月16日(日) 曇り時々晴れ予報
時の経過が気持ちをなだめてくれるということは確かにありますね
人や物に対するわだかまり、は蟠る(自動翻訳にびっくり、ワダカマル、こんな漢字だったんだ!)からわだかまる。時間の経過がわだかまりを解く。
解かれないわだかまりも当然ある。簡単に解いてはいけないわだかまりもある。何言ってんだか。
今日の夕方訪問客が2人見える。家を見ていただける。もうそれだけで家の中が片付く。当然ざっと掃除する。
人が出入りしていれば家の中は風通しが良くなって居心地が良くなる…体験的実感論。
お馴染みの岡島書店さんが閉店すると聞いた。アマゾンに潰された、というか、とばっちりを受けた、と思う。
熱心な古書愛好者も、店そのものに対して愛着を持った客も多かったであろうに、残念と、店先に並べられた1冊100円の本にしか興味のない僕は思う。
素通りはしたことない。無造作に並べられた店先の本は、僕自身が今何を知りたいと思っているのかを知る指標にしていたところがある。
玄関の下駄箱本棚に岡島書店の一部を再現してみようかな、岡島書店は僕にとって何だったのか…その記念、、仕掛けは?本に値段をつけること。
(本の価値は重さではない、装丁でもない、べらぼうで、人を圧倒する「その値段の安さ」だと思う。本の中には当然のようにたくさんのスイッチが内蔵されている。スイッチをオンにするかオフにするか、一か八かのあからさまな本の企み、人生の快楽と悲しみ)
古本屋の主人は客を値踏みする。アマゾンがやっていることと全く同じだ)
下駄箱本棚から1冊の本が生まれれば、岡島商店の成分がそこに当然含まれる…それを書店の神様に手向けることにしよう。本のタイトルは…「古本屋の客」(すでにこんなタイトルの本があるかもしれない)
書き出しは、こんな具合、、
古本屋の客の所作を見ていると面白い、絶対に店の中の本を物色しない客がいる。
店の外に並べてある1冊100円の本にしか手を出さない客。
ある時そんな客の一人が…神妙な面持ちで1冊の文庫本を左手に持ち、ことさら何気なさを装うように100円玉を、書店の親父の前にデンと据えられた本の受け渡し台に乗せた。その本のタイトルは…
古書店は自分のために行ったことはなく、行くとすれば地方の田舎に住む父のお使いでした。ただ、80年代の一時期ペルシアや西・中央アジアの美術に関心を持っていた時代があり、それで神保町・小川町のあたりをうろつくことも。そこである店の前に並べられた書物の中に中央アジアの細密画集を見つけ、法外な値を見てますます欲しくなり、とうとう買ってしまった…ものの、その後他のことで忙しくなりその画集は実家の書庫に置いたままでした。
今年の帰国中、高校時代の同級生で現在は留学生の世話をボランティアでやっている女性が私のイランとの繋がりを知っていて、イラン人女性を連れて遊びに来ました。彼女は趣味でペルシア風の絵を描いているとのことで、女性像をお土産に持ってきてくれたので、画集のことを思い出して見せたら、「うわー、こんなところでイランや中央アジアの細密画を見るなんて!」と驚いていました。40年後にやっと、その本領(?)を発揮してくれた画集の話です。