5月26日(金) やや曇り予報
昨日、午前中ちょっと床下収納庫を整理しました。外の通気口を全て開けて床下の通風を良くすれば収納庫の温度が床上よりも数度ぐらいは下がるのではないかと思っています。ここに酒類とか漬物樽を置く予定です。
いつもより長めにプールで柔軟体操をして1時間ちかく泳いでから家に戻って本の整理をしていたらQさんが見えた。昨今のスマホ事情などいろいろ聞かせていただいた。想像はしていたものの子供たちや若い人たちのスマホとの深い関わりを確認できたような気がしました。地理や歴史の学習においてもAI教師によるラーニングが子供たちの気持ちを捉えているようです。既に実際の先生方を超える勢い、、と僕は思いました。一人ひとりに向き合うという点でまず負けています。先生方は何を補完すべきなのか、今現場では多分それが問われているのだと想像がつきます。
隆盛を極めているスマホですが手持ち型から両手がフリーになるなんらかの形に進化するのではないか、などの話もあり、それをすんなり受け入れる土壌も整いつつあり、環境の変化はさらに加速する予感がしました。
僕にとってやはり何度も言うようですがスマホよりは本からの情報が合っているような気がします。紙媒体の魅力です。めくる楽しみ。テーマごとに、ある程度のボリュームの一塊りの情報による起承転結が快いのだと思います。
「過去」をありありと思い出す…現場にもいないし経験もしていないことをこのように表現することが許されるとするなら、僕はそれは表面上は単なる文字の羅列に見えるかもしれないけれど行間もゆるがせずしっかり読み取ればリアリティーをもって思い出す事は可能であると思います。たとえそれが外国語の翻訳であったとしてもです…。
寄せては返す波のようにあるときはひたひたと、ある時は怒涛のような言葉の奔流となって人に伝わる事はある、僕はそう信じています。僕自身は本で作られたとさえ強弁したい位です。語彙の豊富さとかレトリックのうまさとかそんなことを言っているのではないです。絞り出すような言葉、腫れ物に触るようにしてそっと添えられる言葉、その肉薄を受け止めずにおくものかという緊張感、これこそ、言葉の醍醐味だと思っています。時代遅れと言わばいえ、言葉は生きるためにある、本は動くために読む。
生まれた時からスマホがある世代の人たちに言葉によって伝えるものは必ずあると思います。もしかしたら言葉によってしか伝わらないものだってあるかもしれない。それがどういう形になるか見当もつきませんがトライする価値はあると思いました。言葉の代用になるものがあるとはとても思えない。僕は人間は言葉でできているということを信じている者です。
バーチャルリアリティーでは伝わらないものもあると思う。
時代と時代の継ぎ目が不連続では次の時代の立体的な映像は作れない。バーチャルリアリティーが「現実」になるために言葉によるしっかりしたサポートがなければそんな現実なんて絵に描いた餅だ、僕はそう思う。仮想現実をいくら直視したところで仮想現実とという現実は変わらない。(実はこの言葉を吐きながらもしかしたら仮想現実も現実なのかもしれないと思っている自分がいます、現実との区別がつかなければそれは現実と言うべきなのかもしれない!)
(夕方歯医者に行ったら歯を整形する前の削った歯がさらに新たに欠けていたことが判明しまた形を取り直しました、、なるべく修繕箇所でかまないようにして下さいと言われていたのに構わず噛んでいたせいだとわかりました、お恥ずかしい、再度カタをとってきました、とほほ)
歯の話ですが、私は生来癇が強いので歯ぎしりをして歯がすり減ります。それでだいぶ前から帰国すると歯科医にマウスピースを作ってもらい、夜はそれを嵌めて寝ます(毎晩ではありませんが)。いちまるさんもそれで歯を保護されてはいかが?
私も文字が好きです。そして漫画とかアニメは好きになれません。映像が嫌いとは言いませんが、私にとっては文字の抽象性が大きな魅力で、抽象なのでこちらが好き勝手にイメージを膨らますことができる。アニメの場合みたいに誰かが作ったイメージをこれでもかこれでもかと強制されるのはご免被ります。つまり「絵のない絵本」を読みたいのです。