5月18日(木) 快晴予報
昨日は結局夕食前までにガン病棟第一部の本の最後の方まで読み進め…スマホから図書館に第二部をリクエストしました。
まるで高校2年生の夏休みに戻ったみたいに読書に集中できました。
人々のほのめかしが、すぐに逮捕、流刑、身分剥奪に直結する身の毛もよだつ圧政下の日常が淡々と、思い出話として回想されるシーンのそうとは思えない「日常の凄まじさ」に自分自身の自覚されない保身本能を指摘されたようで慄然とします。
つまり圧政により、個人がブラックボックスの如き網の目(ウェブ)に絡めとられて行く構造、人心撹乱操作は形を変えてその実像を把握しがたいが故に、民主主義の名のもとでもよりソフィスティケイト洗練?されて繰り返される可能性があるということだと思いました。
大きなシステムの渦中にいれば個人の思惑など渦に巻き込まれてひとたまりもない現実はこれからの歴史の中でもきっと繰り返される予感がありますね。
(布団のシーツを夏のものに変え夏掛け布団1枚で寝ましたが…途中蒸し暑いので東西の窓を少し開けてみるとすっきりと風が通り涼しくなりました。この分なら夏も何とか過ごせそうです。梅雨を過ぎたら一階外の通気口の全てのブロックを取り外し床下の風通しを良くしよう)
かつての激戦地での休暇でしたか…ヤモリを身近に感じながら…季節外れのタイトルの本を読む、、か、、好い思い出なのですね😌
また詩の話になりますけど、今日の日記は谷川俊太郎の「ネロ」という詩を思い出させます。あそこに出て来る夏、つまり「メゾンラフィットの夏、淀の夏、ウィリアムスバーグ橋の夏、オランの夏」は、淀を除いて(ここにはご両親のどちらかの実家があったらしい)、全部俊太郎君が読んだ本の中の舞台ですよね。いちまるさんのが「ラーゲリの夏」になるとちょっとドキリとしますけど。
私の夏の一つは「レイテの夏」。8月に出張でレイテ島に行って3泊した時のこと、夜になると加賀乙彦の「フランドルの冬」を読みました。たまたま読みかけていたので、フィリピンのそれも真夏にフランドルの冬なんてミスマッチもいいとことは思いつつ持参。でも、レイテ島の会社の宿泊施設は古くて荒れていて、シャワーも水だけで、どこも暗くて、しかも壁や天井にヤモリがいっぱい。最初は「キ」の字に見えて何だろうと思った。顔に落ちて来ると厭なので、真夏なのに布団かぶって寝ました。
それにしても、レイテの夏とフランドルの冬は絶妙のコンビでしたよ。