4月21(金)やや曇り予報
昨日大きな鏡を押し入れの奥に取り付けた…たったこれだけで世界が倍になる。鏡の奥に虚像の部屋が出現する。もう1人の自分が鏡の中にいる。右目が左に付いている変な顔。でもこれが僕ら自身が見慣れた顔だ。
他人が見ている自分は鏡の中の自分ではない。一挙手一投足表情の一つ一つを正しく見ているのは他人。当の本人だけが見えない。人間は社会的動物にならざるを得ないのはそのせいもあるのかな…今日もお先走りにいい加減な結論を出そうとしているわけではない。
閑話休題。鏡があると賑やかになる。もう1人いるみたいに勘違いする。生活感が増す。これを、ごまかすと言えば偽悪的、引き立てると言えば化粧と同じ。
巨大な鏡を演出しているのはAIだと仮定してみる(AIつまりAIにインプットしている人間が鏡からの連想で仮想空間であるバーチャルリアリティーに夢中になるのはある意味納得がいく、プラトンにまでさかのぼれるような気がしてきた)、どこまでわかっているか知りたい時はAIに聞けば良い。虚像から実像を想像する。馬鹿とハサミは使いよう。
こんなふうにしてAIの助けを借りてどこまでわかったのか判断材料の参考にして、…わからないことだけ考えれば人間も少しは落ち着くだろう、、実は何もわかっていないと。
今日も自分に言い聞かせてます。
(昨日ホームセンターに鏡を止めるビスを買いに行った途中の橋の上から、中川の川べりの遊歩道で保育園児たちが先生の監視のもと、あちこちトコトコ歩きまわっていた子供たちを観察?した。
転びそうで転ばない。倒れる前に逆の足が出ているからだ。重心が前のめりに体を運んで行く。理想的な省エネ歩行。手はぶらぶらと実に優雅に体全体のバランサーになっている。
昨日大きな鏡の前で野球のピッチャーの投球フォーム、相撲の運び足、ゴルフや野球の打撃フォームを一旦、体幹を直立にキープしてから「倒れる」動作を利用して体重移動を行ってみた。どれもそれなりに様:さまになっている、つまりプロはそうして省エネしている、、自己満足承知。
太極拳のカタ(形)のテキストの1ページからの練習に弾みがつきました😉)
ちゃんと見える鏡…あ、それって確かあると思いましたよ。 化粧鏡にカバーをつけていましたよね昔は。不思議なものは、怖い。たくさんの作られた「事実」、これも僕は怖いです。
鏡の中の顔って、異界のものって気がする。それを思ったのは、化粧室で私の隣で髪を直していた友人の顔を鏡に見た時。え、実際はこんな顔じゃないのに、と感じたのは、彼女の顔を初めて左右反対で見たためですね。ということは、自分の顔だって鏡を介してしか見ていないのだけど、それは他の人が見たら「あら、ちょっと違うわ」と思う顔なんだ。ねえ、左右反対じゃなくて、実際と同じ側で見える鏡ってないかしら、いや、それじゃ鏡じゃなくなる?私の知っている私は左右反対の私…考えてみると不気味じゃありませんか。