11月17日(木)晴れ
今マグロとネギのお汁でご飯を食べ空きっ腹を満たした。夜陰に乗じて一仕事済ませたあとの食事はうまい。
折りたためる御膳、ハイチョウだのを運んだ。背を高くしたり短く伸縮曲げ伸ばし方向自由な、絵描き用の投光ランプ、丸い屋外用の折りたたみテーブル、玄関用の鏡、なども運んだ。今日の仕事もこれでおしまい。早起きは三文の得どころか1日分の日当が出る位仕事が片付く。
道中…片手が空いていたのでスマホで小説の1場面の地の文と会話を録音した。主人公の亜紀が同僚の教師、後の配偶者となる男の品定めの場面、、。両手を自由にしておけるマイクを使えば、歩きながら小説が書けるというわけだ。なんちゅう時代だ。こんな風だから、誰でも簡単に書けるわけだ。読むより書く方が時代は進歩する。つ、つまり、そのほうが…脳の血流が増えるから、という無茶苦茶な強弁です。
昨日バーミヤンで兄と兄の友人と飲食した。
(OKさんが見える前に最初に2人で会ったとき兄が黙ってお年玉袋みたいなものをくれた…多分ぼくの誕生祝いだろう、、生まれてはじめてと返事をすると…そうだとはっきり言った、僕は兄貴の誕生祝いなんかしたことないのに悪いね、と言ったら、気にするなと言った、今後も気にするなという意味だと思う、僕の性格をむんずと掴まれた気がいたしました)
もちろんOKさんには、会ったそうそう、今回の物件購入のご報告さしてもらい、コメントもいただいた。若い時、弁護士事務所に勤めていたOKさんは僕の強引な契約、決済の進め方に呆れていらした。いっぽ間違えばおじゃんになり得るケースに見えたのだと思う。万が一騙されたとして…僕の判断なので…多分諦めたと思います…と申し上げたら…なんとも返事のしようがない困った顔をなさっていた。僕はこうやって今まで何人の人の忠告を無視してきたことだろう、結果的に無視していることすら気づかずに。
今日夜道を台車を押しながらつらつら考えた。太陽光の1000分の1位の明るさで月の光よりは10倍も明るく街灯で照らし出されたアスファルト道路を歩いていく。道路だけがスポットライトを浴びたような道の両側の建物はいい塩梅に沈んで見える。現役時分、他の仲間が来る前に現場に行って現場の周囲を整えていた頃が懐かしく思い出された、そうだそうだ僕はこうやって自分自身を毎日落ち着かしていたんだっけ。
(主人公や周りの人たちのキャラクタライズ性格付けがはっきりと心に浮かんだ時、小説が動き出す…なんでもやってみるもんですね、まさか作家の気持ちがわかるようになるとは思わなかった…後は心に浮かぶままに浮かんだシーンから徐々に組み立てて最終的に話をまとめ上げる意識の流れを主体として組み上げていく方法と読者を意識したエンターテイメントに傾くか、びすこさん…僕の場合はどちらでもない。僕が気が済むように自由に書く、それがクレマチスさんの助言、今回はこれでいきます、びすこさん😅お二人に感謝、僕はメンターにも恵まれている😊)
わーすごいですねーご造詣が深い、英国人はなぜか信頼がおける、バグパイプの先頭に立った貴族たちのせいでしょうか、心意気や好し、日本の上層部も少し見習ったら良いと思います。日本男児なんて言葉を懐かしく思い出します。同じ島国でもえらい違い。違いがわからなければ話にならない…例えば僕のように、あはは🤣おかげさまでいろいろな先人がいてくださったことがわかります、ありがとうございます、今日もほとんど誰とも口を聞いていませんが…こんな感じが今のところ居心地がいいです♪
文学作品と批評についてほんの少しだけつぶやくことが許されるなら、私の場合は英文学ということになりますが、これまで読んできたロシア文学やフランス文学、ドイツ文学と比較するに、小説ならやはり英文学がもっとも豊かであるという意見を持っています。それに応じてこの国の歴代の批評も質が高いと思う。その中で有名な(無知な私でも知っているというだけですが)、F.R.Leavis, E.M.Forster, Virginia Woolfなどは、批評される作家よりも批評する側の個性を鮮やかにに示していて、唸ってしまうことが多々ありました。The Great Traditionで知られるLeavisなどは、先ほどウィキを見たら、どこの誰が書いたのか「英文学の学問としての成立史において欠かせない人物ではあるが、その権威主義的、排他的な態度が現在では批判の対象となっている」などと言われていますが(この人の名が2001年の映画〈ブリジット・ジョーンズの日記〉で出て来た時は笑えた)、でもそのコンラッド評などは、古くても何でもやっぱり好き。
それらとは別に小池滋(1931-)という英文学者の「幸せな旅人たち」という評論・エッセイがありまして、ここで小池先生(私は実際に習ったので先生と呼んでも構わないはず)はピカレスク小説について語っています。ピカレスクというのはスペイン語由来で悪漢とか悪者を意味し、こういう主人公が登場する小説なら普通の俗な読者に面白くないはずがない。この種のエンターテインメント小説の嚆矢とされるのはフィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」ですね。ところが私が一番仲の良かった友人はウルフの大ファンで、フィールディングも、小池先生までも耐えられないというのだから笑っちゃう。彼女はその路線から生涯(といってもまだ存命、但し病弱)外れることなく、今は詩人になっていますが、よく鬱に悩んでいます。だから「意識の流れ」なんか止めとけっちゅうんじゃ。
はい、私の方もエンタメ小説路線に忠実で、庶民的な物語を好む傾向は変わっておりません。ただ、俗臭を嫌悪したハイブロウのE.M.Forsterなんかはほぼ全部読んでおり(だって寡作の人だから)、この人についてはいずれ、今年中にブログを書こうと思っております。