柿の若葉を摘んでお茶にする話が団伊玖磨の本を読んでいたら出てきたので…昨日兄の所へ行ったついでに若葉とは言い難いもののいかにも柔らかそうな兄の庭の柿の葉を摘んできて、昨日の夜、駅前開発会議から帰ってきて刻んでおいたのを今部屋に干した。これをフライパンで炒ってお茶として飲む🍵
1枚1枚洗って刻んで干して炒ってお茶として飲む…もう飲む前から良い気分だ。漬物のぬか床を作ってみたり、干菓子を作ってみたり、今度はお茶を作ってる…こんなほんのちょっとしたことが楽しい。作ったお茶を飲む前から、朝から一服している気分。
僕の1人生活が8年目、兄の1人生活が10年目、今が、それぞれの節目という感じは確かにする。母の最初の子供、我が兄。変な言い方ですが…母が最初の子供を胸に抱いたその時から母が兄と僕をつないでいる。そして最近…甥っ子たちとも、兄を介してつながった。ファミリーは、ある、のではなく、作るもの、であるのかもしれないとふと思いました。
あ、勘違いです…文章にすると粉飾はしないまでも…別の風景が作られます、それは今朝感じたことです。仕事中のというか、現役中のびすこさんの忙中の閑ありのご感想…よくわかります。休んでいても…忙中の「閑」は感じられない。あったはずなのに思い出せない。常に緊張状態、そうなのですよね…僕も思い起こすと同じ感想です。実は今もたいして変わらない。 一つ違うことは… 一日何もしなくても良い日を、「その気になれば」取れるという気持ちの余裕。 ところが一日何もしないことなんて今まで一日たりとて、なかったような気がします。気持ちの余裕を作っている中身は…今なら… 一日何もしないでいられることができる…という気持ち。そしてそれが何を意味するか…全然わからない…。それが証拠に…先ほども言ったように、今までの人生において一日何もしなかった日なんか一日もない、あはは🤣