兄とのやりとりを僕が一方的にLINEを通じてどんどん流すので…兄も仕方なく受け答えしているうちに…スマホに対する抵抗も少しずつですがなくなりつつあるようです。習うより慣れろ…これは昔兄が僕に…外国籍の相撲取りが日本語を覚えるコツとして…何度も話してくれたことでした。…でね兄貴、スマホは習うより慣れろ…なんだよね…とことあるごとに伝えています。ばかっぱなしはもっぱらLINEで一方的に話しかけています…兄も仕方なく3回に一回は返事をよこすようになりました、大成功。図書館からリクエストをした本が届いたので少し没頭できました→
影の獄にて:L・ヴァン・デル・ポスト著:由良君美/富山太佳夫 訳:新思索社2006年9月第1刷発行
この本の第一部は50ページにも満たない。ここを読めば、既に残る200ページの緊張の予告であることがわかる。その第一部…「影さす牢格子」は、、何の解決も見当たらない、、疑問の洪水を起こさせ、それでも、わずかな手がかり、断ち切れそうなへその緒のような生命力を秘めた手がかりが残りました(ちょっと一杯引っ掛けているので言葉が支離滅裂、いつも通り?) 戦時中という特殊な状況下における人間心理というものではないと思いました、もっと普遍的。例えば、自分自身に塵のように堆積していく負の感情はなくならないし、逃れられないし、逃れてどうするという気持ちになりました。開き直れた分、未来に可能性を感じます。可能性を信じられる本です。この三部作は10年余りの間にまとめたもののようです。どの作品も詩文のような美しさの描写が際立つ人間に対する深い信頼に支えられていると思いました。テーマそのものは重いものがありますが作者の善悪を超えた、1ミリもごまかすことを潔しとしない人間性にあふれる作品だと思いました。国籍など眼中にない、作者が果敢に人間とはなんだと 一歩ふみ込んだ作品だと思います(河合隼雄は遠慮がちに半歩踏み込んだ、と言っています)。この本を読みつつ僕自身の青春の未熟な振る舞いに少しさいなまれ今も気持ちの整理がつかずにおります。情けない奴だと思いました。若気の至りの未熟者たちに正義の鉄槌?を加えられないのも彼らにかつての自分を見るからです。彼らに同じ後悔をさせないためにはやはりきちんと伝えるべきだと思います。それができなければ、僕は…どこまでことなかれ主義の姑息なやつに成り下がる。これでも僕は若い時、母から…お前みたいに何にでも(後先考えず)首を突っ込む人間は終いには殺されると脅されてました。そんな僕が恥じ入ることが多くなりました。さて寝る前に…がんばります→
第一部の中から、戦時中日本軍の捕虜となったロレンスにまつわる部分を引用します(これは小説ですが心の軌跡は事実と同じことだと思います)
30ページ
…中略…ロレンスは、日本に滞在していたころ、すでに日本人は、ある深い錯倒した、逆の、変質的とさえいえる意味で、生きることよりは死を愛する人たちであると、いつも感じていた。民族こぞって彼らは他のどの民族にもみられないほど、死を自滅を美化していた。民族の理想の美しいまっとうの仕方、英雄的な暗殺の伝統の美しいまっとうの仕方は、しばしば、おのれを虚しくして、崇高に、品位をもって、大義のうちに自滅することだった。あたかも、個人というものが、その出発点から、生まれおちるやすでに、自分自身の、個人として生きる資格を拒絶しているかのようだった。生まれてからというものは、日本人は、個々の人の範型や実例に動かされるというよりも、むしろ全体社会を守り抜くため、1秒何分の1のあいだに何百万と死んでゆく、血のなかの血球の行いに対する生得の勘によって動かされるようになる。結果として、日本人の社会は、あの偉大な昆虫たちの社会生活の、さらに複雑な延長に似たものになっている。実際、ロレンスが日本に住んでいたころ、日本人を非常に好んでいる彼でありながら、それでも、思わずこの昆虫の社会との根本的な対応をいつも考えざるを得なかったという。動物の社会の対応でもなく、団結した狂信的な遊牧の民の社会との対応でもない。いちばんぴったりした対応は、昆虫の社会との類比だった。集団としてみれば、日本人は、雄の女王蜂である天皇を中心とする、一種の蜂たちの超社会だった。ロレンスは、べつに誇張して言っているのではなかった。そうではなく、いかにハラの民族は…まるで旧式の、時計の針を逆にまわす、あらかじめ予定された運命の軌道の上をゆく、異常な、落下する彗星のように…奇異に、ほとんど宇宙的に、駆り立てられて動く民族であるかを、わたしに理解させようとすれば、これ以外には説明のしようがなかっただけのことなのだ。日本人たちは、彼らの現実の、また空想上の過去に、あまりにはまり込み、あまりにも盲目的に、無心に過去におちこんでいるために、彼らの人生観は、われわれ西洋人の切迫した時間とはそりが合わない。とりわけ、ますます大きな、もっと几帳面な個人の分化を要求する。やけっぱちの20世紀の声に、こたえることができないのだ。彼らの人生観は個人的になることを拒むのだ。おのれの火山帯の、揺れうごく大地の上にそびえ立つことを拒む…まるで彼らと個人の心の光明とのあいだには、暗いガラスが、自我の奥底ふかくひそむ恐竜の翼の投げる影が、いつもあるかのようだ。まるで彼らと太陽の間には、彼ら自身の自転する地球のながい長い暗闇があって、あこがれの月ともっと明るいいくつかの星を暗くしているかのようだ。こういう言い方は、いくらか空想的に聞こえるだろうが、彼としては、ほかに言い現わしようが見つからなかったのだ…。
引用以上。
(少しお酒が入りましたが、おかげで少し正直になれたかなと…酒の力を借りなければ正直になれない小心者のぼくでございます…明日はゆっくり残りの第三部を読むつもりです、おやすみなさい)
そうです、死ねばあの世で死んだ人に会えるというのとは違います。ちょっと説明しにくいですね。でも賛同してくださってありがとう。
日本人は生きることより死を愛する、というのは言下には否定できません。このところ何となく、生と死の間にはそんなに大きな違いはないのかもしれない、という気がしています。たまたま今読んでいる小説の主人公が、自分は死んだ人間なんかに興味はない、ときっぱり言うのですが、私は大いに興味があります。死んだ人々への連帯感、といったら変でしょうか。