今3冊ほどの読書記録ほぼ1日かけて作ったものを一瞬にして誤動作で失ってしまいました…でも不思議なことにがっかりしていないのです…何故かといいますと…やっと書き留めたメモは皆さんにはお見せできませんが僕の頭の中にしっかりと刻み込まれています…僕は今日初めて気が付きました、本を読むという事は僕にとってちょっとキザですが生きることなのだなぁと…今日生きたことは間違いない、メモした事は全て頭のどこかに記憶されている、失ったものと得たものと釣り合っているからがっかりしないのだとしっかり理解できました。見ていただけなかった分いつか何かの形で発表したいと思います、おやすみなさい
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たくさんのお話や興味深い絵を引き続きご紹介お願いします…たくさんのヒントを頂けます。話をしない人が多すぎます、失言したくないからでしょうか…失言したら謝ればいいし、許してくれなかったら、、ほんとにごめん…どうかしてたんだと言えばいいと思います…僕らはすぐどうかしちゃうからです、僕のよた記事にいつもコメントありがとうございます♪
先日クレマチスさんへのメールに書いたのですが、最近「昔話の深層:ユング心理学とグリム童話」と言う本を読みました。1977年刊だからすごく古いですね。(本は亡くなった日本人女性の遺品ですが、彼女は私よりちょっと若かったみたい。)どうしてそんな話をしたかというと、先日ライントークにこの河合隼雄とカエルのお話が出てきたから。
小川洋子の「博士の愛した数式」、これは昔、友人がわざわざ日本から送ってくれました。あとがきは数学者の藤原正彦さんでしたね。
お父様のことを伺って、いちまるさんの「詩人の心」の源泉が分かりました。
作家や文人には、目が見えない家族(多くは父親)のために毎日新聞を朗読したとか、物語を読んであげた、とか言う人が結構いるようです。読んでもらった側も喜んだでしょうが、それを毎日読んだことが役立って、のちに自ら新聞記者になった有名な女性がこちらにいました(もう亡くなりましたが)。
盲目の父を助ける子というテーマに私が若いときから関心を持っているのは、学生時代に知った英国の大詩人ジョン・ミルトン(1608-1674)の話からです。この人は40代前半で視力を失いながら、そのあとに世紀の名作「失楽園」を書いています。それを助けたのが3人の娘でした。これは画材にもなって、「ミルトンと娘たち」、「娘たちに口述筆記させるミルトン(Milton dictating to his daughters)」などという題の絵がたくさんあります。
また、ミルトンは世を去る前年にSamson Agonistesという詩を書いていますが、これは旧約聖書のサムソンとデリラの話からで、デリラの奸計で捉えられて盲目にされたサムソンが最後に渾身の力で敵を倒すまでの話。英語の叙事詩というのは私にはかなり読みにくいのですが、この話はそうでもありませんでした。
いちまるさんの読書記録が失われたおかげでこんなお喋りができました。
人は必ず死ぬもの、Memento Moriの話はいずれまた。
いつも気になっていた晩年の父がポツリと漏らした… 一日って…一生だったんだな、という言葉、、、河合隼雄と小川洋子の対談集の中にまさにそれに応えるような対談の中のニ人の意見の一致に父との遭遇を感じ、言葉を書き写しながらそれを一瞬にして失った時も不思議とがっかりしなかった事は…結局一日中そればかり考えていたせいだったのだと今気が付きました。そんなことを忘れようがないから…。 記憶が80分しかもたない小川洋子の小説の主人公をめぐっての会話の中に、、あ、引用さしていただきますね 生きるとは自分の物語をつくること(新潮文庫)、の I 魂のあるところ、、(引用文中※は僕の言わずもがなの注記です) 30〜33ページ (河合)…前略… 僕がスイスから日本へ帰ってきたのは1965年ですが、その後15年ぐらいは学会では魂と言う言葉は一回も言わなかったんです。言うたら誰も僕の言うことを聞かなくなるだろうと分りました。だんだん、そろそろ言うてもいいかな、というように周りも変わってきて、1980年ぐらいに「今日は一遍、変な話をします」言って魂の話をしたのを覚えていますよ。 (小川)この間、遺伝子学の先生にお会いしたときにうかがったのですが、サイエンスにも昼間の科学、デイ・サイエンスと感性の世界のナイト・サイエンスがあると。 (河合)それは面白いね。 (小川)すごいのは、ミッドナイト・サイエンスで、電気を消して、ちょっと一杯お酒でも飲んで理性が緩んだときに心にぽっかり浮かんだりすることが、実は大事だったりする場合があると、でもそれは学会や、講義ではあまり言えない、とおっしゃっていました。 (河合)だから何時(いつ)どのように言うか考えて言わないといけないのやけど、僕は文学が一番それが書けてると思っているんです。だから僕がはじめに心理学の人たちに魂のことを話すときに使ったのが児童文学です。児童文学が一番すっと魂のことを書けますから。ルート君が博士にもの言うときみたいに。(※ルート君は年齢の違いを超えて主人公の博士と会話できる友達) (小川)よけいな常識とか理屈とかなしに。 (河合)博士もそうですよね。しかも記憶というのは完全な常識だけど、それも切れてゆくんですから。 (小川)全部とっぱらって、本当に魂をむき出しにして生きざるをえない。 (河合)そう、すごい人を考えられたと感心しましたね。(※河合が小川の小説の中の人物設定を褒めている) (小川)それで、その魂と魂を触れあわせるような人間関係を作ろうというときに、大事なのは、お互い限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだという一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね。 (河合)やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いています。(※河合が自分の著書の中に自分で書いたことをこう言っているのだと思います)やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。 (小川)自分だけは100年も200年も生きるような気持ちでいる。 (河合)そう。それとすごく親しい人が死ぬことは想像できない。死という可能性を消しているんです。心の中でね。 (小川)あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる。相手のマイナス面も含めて受け入れられる。 (河合)それで、そういう観点から見たら、80分も80年も変わらない。 (小川)永遠を感じさせる、至福の時というのは、そうして実現するんですね。 (河合)そのひとときが永遠につながる時間なんです。 引用以上。 (父が言った言葉は…晩年視力を失った父に僕がニ階のよく陽のあたる狭い廊下で海音寺潮五郎の「西郷と大久保」の本を代読している合間…僕がちょっと一息入れたとき…父が自分の両手に当たる日差しを感じながら…日差しってこんなに暖かかったんだな…と独り言を言った後に、ややあって、、一日って一生だったんだなぁ、と漏らし、、今もぼくの耳の奥に残っているその言葉でした)
どうしてそんなことが起きるのでしょう。うっかり「消す」にしてしまっても、「本当に消していいですか」という確認は為されないのですか。あまりに迅速に処理されると迷惑ですよね。私は書くときワードにして予備を取るから、幸い今までのところは一瞬で失う、ということはなかったのですが(日本でまだパソコンに慣れないときは失敗しましたけど)。でもおっしゃるように、作ったものの結果は今は見られませんが、そのプロセスは意義があったでしょうし、記憶している部分が膨らんで少し別のものになってアウトプットされる可能性大ですね。