2009年ドイツ紀行🇩🇪 006
…ポツダム会談の街を訪れた…
エルベ河の上流は、チェコ領内に入ると「モルダウ川」と名前を変える(チェコ語では「ヴルタヴア」)気高く美しい旋律で知られる曲「モルダウ」はプラハの春音楽祭のオープニング曲「我が祖国」の中の曲としても有名ですが、作曲家スメタナは独立運動を支援した人としても知られています。日本の中学の音楽教科書でも紹介されているスメタナの言葉…「音楽…それは感性の言葉、言語…それは思想の言葉」、私の座右の銘としたい表現だと思っています。言葉が人を遠ざけるものであってはならない。歌の世界でも過去に歌ったことがあると言うだけの理由で、暗に暴力革命を示唆する曲、仇討ちの思想にとりつかれた曲、歴史的検証の結果賞味期限の切れた曲、誤植や勘違いで言葉が違った曲等がコンサートで時々向けられるのです見受けられるのは、私の考えすぎなのだろうか。うたごえ運動も情報を共有する仕組みを持つことが必要だと思います。差し当ってNGワード事典、間違い事典などを皆で作ってはどうでしょうか。次世代に歴史を正しく伝えることは老人だけの仕事ではないと思うのです。
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1月27日(火)
今日はいよいよ第二次大戦の戦後世界を決定付けたポツダム会談地、ポツダムへ。
午前8時にホテルを出て、ベルリンの西に位置するポツダムまで快速電車で25分。ポツダム中央駅の構内を歩いていたら「ラーメン」と「すし」の赤提灯を発見。近づいて話してみたらベトナム人の若い夫婦が開店前の準備をしていました。
駅前からトラム「(路面電車)に乗り、目的地手前の停留所で降りて地図を片手に歩いていたら、白髪の男性が英語で話しかけてきて、ていねいに説明してくれました。広大な公園の森の中の道を行こうとしたのですが、アイスバーン状態なので公園脇の石畳の道を歩くこと20分、左側は高級住宅地で軽井沢とよく似た風景です。美しい湖に面した、ポツダム会談の場所ツェツィーリエンホーフ宮殿に着きました。城壁のようなものではなく、イギリスの田舎風の木造の建物です。かつては、この宮殿前の湖の渚にもベルリンの壁があったそうです。
1945年7月17日〜8月2日の間、米・英・ソ連の3首脳会談が開かれ、第二次世界大戦の戦後処理が話し合われました。7月25日にはこの地から日本に対する原爆投下命令が、米陸軍幹部により発せられました。今25日夜には原爆犠牲者を追悼する灯籠流しが、トルーマン大統領館裏の湖で行われています。会談の内容は、現地で入手した日本語パンフレットによると次のようになります。「米・英・ソ連の3大強国の同盟は、1941年にヒトラーがソ連を襲撃し、アメリカに宣戦布告したときに成立し、3人の統率力がある政治家及び彼らの配下にある政治・外交・軍事などの専門家による取り決め事項等に基盤を置いたものである。当初これを推進する舵取り役は、イギリスのチャーチル首相であった。しかし1945年7月の下院選挙で、それまで連立を組んでいた労働党のアトリーにまさかの敗北を喫し、その地位を彼に渡した。ソ連のスターリンは政敵を次々に粛清し恐怖政治を敷きながら強大な権力を手に入れていった人物であり、冷たく打算的、決して戦略上の誤りを犯すことのない大物であると評価されていた。三頭政治家の中で最年少のアメリカのルーズベルトは1933年から1945年まで連続して大統領としてアメリカを指導したが、ドイツが無条件降伏する数週間前に脳卒中で倒れ、後継者はトルーマンとなった。その結果三巨頭会談は、経過を熟知しているスターリンの発言力が強まった。」
次号に続く
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