4月26日(金)
動作をゆっくりするとわかることがたくさんある。
日本舞踊はゆっくりに見えてゆっくりでないと見えないところを見せている。一瞬一瞬が絵になるように見せるためには、そう努力していることすら見せないようにしないと観ている方が疲れてしまう(当てずっぽう)。
ゆっくり泳ぐと手や足がしっかり水をつかんでいる時を実感できる。筋肉の弛緩と緊張。
鍵盤楽器を練習する時もメトロノームを使ってきちんとリズムを刻むと音のつながり方が把握できる…実はこれ僕が省いているところです。
そうしていると行き詰まってしまうので基本に立ち返らざるを得ない(ナンチャッテやってる事は初歩の初歩、黙ってやっていれば良いのですが、こうやって書いてしまえばもう逃れられないし、練習が面白くなってきたとすれば少しずつわかり始めたということだと思う。ちょっとは面白くなってきました。負け惜しみではありませんがあまりにも指が自由にならないのでかえってそれが面白い。
小学校の先生は勉強が遅れがちな子供たちに関わっていられない、期間内に教える分量が決まっているからだ、、そこでAIを組み込んだ授業が始まった…
ゆっくり、じっくり一人一人が学習に取り組める。
これってものすごい進歩❣️だと全員が認めて、、教師が良い意味で緊張して、教師も本来の役目を思い出す。
こうやって役割分担の社会的なステップアップを果たし社会が進歩する…そんなうまくいくもんかな?
先日、生前の小澤征爾が指揮する画像がたまたま久しぶりにスイッチを入れたテレビに現れた、、練習風景だったと思う(話題がフラフラしてすいません)。
楽団の全員が小澤征爾の、集中しなければ読み取れないゆったりとした指揮棒と体の微妙な変化を聴き取ってゆく、、かすかな指揮棒の動静を楽団員それぞれの我が身と一体の楽器にシンクロさせていく緊張の場面、、
なんとしても伝えたい人とそれに答えたい楽団の人々の顔も映し出される、、見ているこっちまで緊張してしまう。
自由なタイミングで入ってきてください…と小澤征爾が促して、、タクトを振り始めるのですが…団員たちが入ってこない、、どうしたんですか?入ってきてください…
どこまでもゆっくりと…時々体を支えきれずに傍の特設の椅子に座り込む小澤征爾、、元気だった頃の情熱がそのまま残っている我が身を持て余しているように見えました…
言いたいことは…ゆっくりは疲れる、、ってこと。
ゆっくりはごまかしがきかない。ごまかしがあらわになる。だからゆっくりやる。
そう考えて僕もゆっくり納得する。
有名な、神奈川沖波裏、の北斎の何かに掴みかかるような波の浮世絵を思い出します(話題は横丁にはいってきています)。
自分の目をスローモーションビデオにして現実を再現する、、その緊張感によって、波頭の下に垣間見えるはるか遠方の富士山、、と、次の瞬間に聞こえる砕け散り長く尾を引く波の余韻、、波の音だ。
北斎が富士山を引っ張り出してまで表現したかったものが波の音楽だとわかる、、
(あっ、、🤭適当なこと言ってます、、
波と取り組んだクールベはどう思ったか?多分猛烈に北斎に嫉妬したと思う😜でなければクールベの波の傑作も生まれなかったと思う、、ま、これはさすがにどうかな?めちゃくちゃなこじつけ、、と、、ここで今日の駄弁はおしまいにします)。
おまけ: 昨日.KBCのグループLINEに投稿したいつものお遊びの句
シャツ干して夏気配あり風そよぐ
縁側のごろ寝春の陽風清し
物干しの洗濯物の春爛漫
縁側の日差し嬉しや春うらら
揚羽蝶鳥の影追う卯月好き
最初の句は、そよぐ風、が風薫ると一緒で5月の仲間らしいので…季重なりをひょいとかわすつもりで言葉をいじりました…
季語から季節を掴み取る?つまり季語に積極的に働いてもらうと意識するといろいろな手が使える、、もう気分は一人前😅
季語は俳句を豊かにしてくれますね。俳句を発想するときにも、季語にその気分を乗せてみたい時にも使えますし、また、気軽に一句詠みたい時に歳時記に季語を求めるのも面白い。
季語のルールに則って作句するからこそ面白みもあるし新たな俳句が生まれる。
季語があることで俳句の上の「お付き合い」も広まるだけでなく深まる。
なぜ季語があるかと言えば、大きな理由の1つはそれだと思います。
杯を極限まで小さくしてお酒のやりとりを増やし言葉のやり取りの代わりにすることと季語は何の関係がある?
俳句に季節を織り込むルールは、杯を小さくすることによって酒のやりとりを増やす工夫をすることに似ているかなと思ったのかもしれない、交際目的。
内容に共通の記号を用いることで共通の土壌の上に俳句の花が咲く…どこまでも楽しみたい僕らです。
その時面白く感じたことをとりあえず俳句にして書き留めておきたいとき、、僕は新しい言葉を作ってその場をしのぎます、、とりあえずのスケッチで、とても適当です。だから気楽に作れます。
例えば、今の時期だったら、埋まらないその言葉を適当に春と合体させて作っちゃう…例えば…
春の部屋、春隣り、春タッチ、春を行く、春掴む、春と居る、、なんて塩梅でそんな言葉成り立つかどうかも構わず、とりあえず「春」が入っているんだから季語だと言い張る😅(そのうち季語に昇格する?可能性もある)
た、た、た、たとえば…今挙げた自作の季語を使って、、
東西の窓を放ちて春の部屋
春隣り夏の兆しの薄着かな
園児らがまろびて芝生春タッチ
白昼夢まどろみの中春を行く
恋かもな鼻つまむ君春と居る
昨日午後いかにも春らしい陽気に、縁側に寝転んで干し終えた洗濯物に目をやりながらこんなことして少し遊んでみました、、たとえお粗末な句作でも、とりあえず楽しんじゃう。
たくさん楽しんだ後でそれぞれの道を探っていけばいい。
(昨日は縁側でごろごろゆっくりできたので、ダラダラと文章をかけたのだなぁと強引に書き出しの文章に結びつけます、、ゆっくりすると面白い発見がある)
お粗末日記も…まだまだ続きます…読者が少ないからかえって気楽で面白いです。
気楽に取り組んだ方がかえって面白いことが起きそうな気もします。
ゆっくりは疲れる、そうですね。私はせっかちで動作が早いので、よく分かります。日本舞踊を見たアフリカ人が「あの服装では、あんなふうにしか踊れないよね」なんてトンチンカンなことを言っていた。腕や脚の動きを止めたり、一瞬静止したりするのに、力が必要だってこと、彼らには想像できないみたい。
春の季語って多いですよね。春障子、春炬燵などは何度か使ったことがあります。
・去年よりの菓子食べ終える春炬燵
とか。それが、炬燵のないこちらでは
・去年よりの菓子食べ終える春暖炉
になりました。私も最近クリスマス菓子(賞味期限3月末)を食べ尽くしたばかりです。
春の季語と言えば、「北窓を開く」というのもありますね。日本のわが家は北窓を開けると田圃と山が見えるので春になったという実感がありますが、都会ではどうなんだろう、と思っていたら、結構うまく作ったのがありました。
・北窓を開き南の窓磨く
なるほどねえ。
揚羽蝶鳥の影追う・・・いい句ですね。