4月1日(月)
久しぶりに布団を干してせいせいしたついでに縁側でビールを飲むことにした。
ちゃぶ台を出し、開き寄せた障子の戸がニ枚重なった狭い端面に背中を当て、楽な姿勢をとる。
鶏のフライが残っていたのでキャベツのざく切りと一緒にいただく。多分今年初めてのビール。
昼間から酒など飲む習慣はもちろんない。
ちょっと気が向いただけ。外を歩けば汗ばむこの陽気じゃ家でビールごくごくがぴったり。
午後は2階で日差しを感じながらポストに届いた幸田文の「木」を読んだ。
落ち着いて楽しめた。読み終わった後…そういえばしばらく山の木を見ていないなぁと思いました。
清く澄んだ山の空気、、いいもんだと思いますがわざわざ人混みかき分けて、出かけようとは思いませんね。
僕自身が老木から枯木に向かいつつある、水気も色気も不足がちの今の時節には、街中の草花やちょっとした公園の木々からでも、不足分の生気をもらえますし、充分癒されます。
宮大工の西岡棟梁たちの話が面白かったです。
木は材木になってからでも生きている木と死んでいる木があるという。
本を読んでその内容が掴めたわけではありませんがざっくりとこの言葉のまま覚えておこうと思います。
千年以上が経つ法隆寺のヒノキにカンナをかけると生き生きとした木肌が出てくる、、木は生きている話。
139ページ…法隆寺千ニ百年の昔の材に、ひと鉋あてれば、いきいきとしたきめ(傍点付き)と光沢のある肌を現し、芳香をたてる。湿気を吸えばふくよかに、乾燥すればしかむ。これは生きている証しではないか…引用以上。
まぁ思い入れたっぷりに幸田文は木に関して日本の北から南まで現地を訪問し縷々述べていくわけです。
僕がこの本にすんなり入れた理由はと言えば、あるいはまたこの本を興味深く読めたのは、父親の幸田露伴の影の濃さです。父親への語りかけのような気がしました。
もちろん、僕の独断の思い込みです。
著者は、父親への言い訳のようにして樹木や花の実相を追ってゆく。
父を訪ねて何千里の世界、、愛すべき父娘、、かっこいいなと思いました。父の樹木や花に対する思い入れに応えられなかった娘のせめてもの言い訳、尊敬する父に対する鎮魂歌のように聞こえました。ファザーコンプレックスのなせる技、、
なんちゃって。歳とると偉そうにここまで言っちゃうんだな…ハハハ。
偉大な幸田露伴に代わって職人の僕が言うとすれば、、文さん、よくできた娘、、といういうことだと思います、、ね、露伴さん😅
(幸田文に比べて、僕の生きている証しは…大変心もとない。
陽気が好くなってきたので2階の畳の表替えでもするかなぁと、今迷っています。
女が恋の未練を断ち切るために髪型を変えると言う話を聞いたことがある。
たかが畳の表替え…やるかやらぬか、迷うような歯切れの悪さ…生きている証しというにはちょっと情けない…あはは🤣
そんなことより先日畳屋さんの前を通ったら看板が出ていなかった…いよいよ畳の需要もなくなってきたか、、現在の職人たちはどういう顔をしているのか思い浮かばなくなってきてしまった。寂しい😔、、今日はどこまでも偉そうなぼく、、歳をとったからといって何でも許されるわけではないのは承知)
これを書いてから、また一寝入りりして目が覚めたら4時近い。
たっぷり夢を見たようだが忘れた。
忘れたと言えば…「木」の中の倒木に関する記述(僕なりの勝手な文章になってます)、、
…自然の猛威になぎ倒された木が大地に寝転ぶ、、寝転ぶったって木の方で望んだわけではない。
時がたてばやがて倒木の腐食の進行とともにその倒木の養分を吸収して若木が横倒しになったその幹の道筋のまま何本も育ってゆく。倒木更新。
その倒木の無残と倒木で育つ新しい芽について静かに観察している、、その受け入れ方の告白がきっと読者をも納得させる、、というか僕も納得させられる。
幸田文は、、朽ちた倒木を指でほじくり返してさえいる、、そこにあったものは…木の冷たさでかじかんできた指がたどりついたものは…かすかだが確かな倒木のぬくもり、、
今僕が自分自身を納得させようとしている葛藤と受け入れ、きっと著者の正直な気持ちでもあり、キューブラーロスの死の受け入れに関する言及もあったと思う。
少し前に見て、忘れた夢のおかげでこの本の肝心なところを思い出すことができてよかった。
外国の監督がこの本に触発されて映画を作ったとか?なんたらかんたら…と本の帯に書いてあった…あっ?どうりでこの本がリクエスト待ちになっているのかやっとわかった、、。
、、、ところがそもそもどうやってこの本を知り…読む気になったのか全く忘れている!
老人の季節と淡い夢は相性がいいのかもしれないな…なんて思ったりして、、
さてと、もう一寝入りするかな
宮大工の話をされていますが、神社・仏閣のための畳を専門にする職人さんもいるみたいですよ。たしか有職畳という言葉を聞いたことがあります。需要は限られているけれど、一定数の職人さんはゼッタイに必要ですよね。
こちらにいると、床に寝そべることはまずないので、ソファの上がベッドになりますが、もし日本で畳が発明されていなければ、硬い板の床にいつまでも寝るわけにいかず、早晩「寝台」が発明されて暮らし方も変わっていたかもしれません。平安時代などは余り高くない台の上で寝たようですが。それで十二単だか何だかの重ね着が上布団だった、というのが面白いですね。
昔は畳の上に布団を敷いてそこに老人や病人をずっと寝かせていましたが、どんなガンコな「布団派」も最期はベッド派になる、ならざるを得ない、みたいです。だって治療も介護もできないから。祖父はどちらも畳に敷いた布団の上で亡くなりましたけど、あれは60年代のことでした。