3月24日(日)
ものは考えよう、、考え方1つで良くも悪くも受け取れる。
今、寝床でさてと今日は何を書くかなと考えて…やっとあぁそうだ…
歳をとっていくという事は箍(たが)はずれていくことだと考えてみることにする。
桶や樽を固定しているタガが外れれば、もちろん本来の形は崩れていく。
それは、歳をとっていくことと同定できる。
ちょっと無理があるかもしれないけれどそう考えるとこちらにも対処のしようがある。
この世に生を享けて(せいをうけて) 終焉を意識すれば、どうやってその演技を終えるか誰だって考える時期が来ると思う。
自分をきつく縛っていたものが緩んできて自由度が増せば気持ちだって少しは楽になる。
ものは考えようだ。
昨日はおもちゃの手作りロボットの胴体部分にとりかかった。少しずつ形になっていくのが面白い。配線1つでも決められた位置に収めないと形が決まらないところがすごい。つまりうまく組み合わさらなければそこは間違っていると知らせてくれるようなもの。
歯車と歯車がきちんと収まるように「治具」まで用意されていた!つまり指定位置で収まるようにそのジグを使い、使った後は取り除く。これなら間違いようがない。
組み上がったものは多分確実に動作する予感がある。
ちょっと飽きてきた頃にストップ。
コーヒーを飲んで、さてと…今日の分の楽器の練習をしようと、2階の作業台から下へ降りる。
鍵盤楽器の練習の指遣いが絡んでそれもそれで面白い。
小学生だってもっと自分の指をうまくやりくりするだろう…何度やってもどこがいけないんだかわからない。つまり正しい指遣いができない。
直感では小学生にかなうわけがないとあきらめる。
そんなふうに子供みたいにボチボチ遊んで、夕方近くになればお酒のつまみの心配をする。
つまみなんか何でも良い。手近のありあわせのもので、その日の気分に合わせてこしらえて日本酒の燗をつけてちびちびやり出す。
上手に「遊べた」時は特にテレビも見たくない。多分頭の中で今日やった遊びを反芻しているんだろうと思う、、なんちゃって。
(兄の友人達が兄の所へ訪問したことをOKさんがメールで知らせてくれた…予定した時間をはるかに超えて話が弾んだことを知り、その日が兄にとって特別な日だったことがしみじみわかりました。
ところで僕は…最近誰かと外で飲むということがほとんどなくなりました。
それでも仲間の動静?はLINEを通じて伝わってきます。今はそういう緩めの「付き合い」が僕に合っていて気が楽だ。
ピカピカの小学1年生たちの新学期も近い。
タガが緩んだ1年にしたいと思う)
そうです、お付き合いは緩めに。どんなに気が合うと思ってもしょっちゅう会っていると飽きて来る。いやになる。たまに会うからこそ、楽しいとある作家が言っていました。君子の交わりは水の如し。昔の人(もう2500年も昔だけど)は良いこといいますね。子のたまわく・・・はいつも簡潔。それに比べると西洋の格言とか箴言というのは、大した内容はなくても重々しい表現で哲学的に見せる。包装はえらく立派。
このところ考えるのは、同じく子の言葉らしいですが、
「之を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」です。
これも年とってしみじみ実感しますね。何たって楽しいことが少しあれば生きていける。そのためには、そうだ、箍もはずそう。誰がための箍だ!なんちゃって。
考えてみれば、ブログだのSNSだのインスタグラムだのも、使い方を誤ると箍どころか鎖、あるいは頸木になり兼ねない。それだけに賢さが求められるのでしょうが、この玩具、人類にとって歴史が浅いので使う人がまだ未熟なままで、だからついのめり込んだりして、自分で自分の首を絞めることに。