3月20日(水)
居場所を見つける、居場所を作る事は誰にとっても大切だ。
個人にとっても国家にとっても。
安心できるところがある。日本人ならそれは当然と思っているだろう。
例えばイスラエル。国民に貸し付ける国土がないから、約束の地に念願の国を置いた。
その一方で、例えばパレスチナ。国土と思っていたのに壁を作られて難渋している。
アメリカには居心地が悪くないであろうと僕などは勝手に考えてしまうユダヤ人がいっぱい住んでいる。
それでいいんじゃないのと考える国土が当たり前のようにしてある日本人、というか僕自身。
パレスチナの人々、壁の中で安心して暮らせる工夫をすればいいんじゃないの…社会的インフラが整っていないのに、そんな風に考えるのは素人。
あんな狭い土地でこれから何百年も何世代もかけて、小競り合い、大競り合い、の合間に話し合いを続けていくのか。
宗教の違いも含め融合は簡単にありえない。改宗するなんて、生きる世界の大転換、宗教の縛りが少ない日本人?にわかるわけがない。
(自分の居場所をやっと最近見つけた感じがして、そっとして置かれる陋屋暮らしに満足し始めている僕は、、現状では到底満足できない人たちのことをやっと考えられるようになったのはいいが…じゃあどうすればいいかという提案の1つもできない。
話し合えば分かり合える世界を作るにはどうすれば良いか一緒に考えていくしかない。
年寄りにだってまだまだ用事はあるということだろう…他人は変えられなくてもとりあえず自分は変えられる?)
Blasphemy(神への不敬、冒涜)に対する罪ってご存じですか。この刑罰が未だに存在する国が世界にたくさんあることも。欧州ではフランスが早くから政教分離を実施して、そのためこの冒涜の罪というのも無くなりましたが(つまり神をバカにしても罵ってもいい)、ドイツやオーストリアではやはり「神を敬わない」人間は罰せられるというのが驚きです。つまりこれほどの近代的な先進国(と思われている国)でも、神を信じない自由はないわけです。
先進国・民主主義国という基準、自由という定義をもう一度考え直さねばと思います。