2月15日(木)
晩酌の後に思い立って引き出し式の熱い鍋を置く台を作った。思い立ったら作ってしまいたい。厚い板をノコギリで引き出しの中にぴったり収まるように切り出す。しっかり汗ばんでシャツ1枚になり工作した。いつもなら食後のコーヒーを飲んで、寝る時間に一汗かいてしまったので気分が高揚してしまい…もういっぱい薄いコーヒーを飲んで気分を落ち着けた、ふ〜。
既に作ってあった引き出し式の台と新設した台の上に作り置きのスープ入った鍋をそれぞれ乗せてみる。
もうこれだけで風景と気分が一変した。工作した部分は大した事なくても俄然料理をする気になる。熱い鍋を置くところを作っただけなのに、、。
使わない時は引っ込めておけばよいところも気にいった。
(昨日取り寄せておいた、弱いロボットに関する本を一気に読んだ:
岡田美智男著:医学書院2012年9月第1版第1刷
何が「弱い」かというとたいした機能があるわけではないので役に立つロボットというわけではないという意味のロボット🤖。
ゲゲゲの鬼太郎に出てくるような1つ目おやじに角が生えたようなフォルムがかわいい。色を判断するセンサーを搭載して決まりきった簡単な会話をする。光の加減でセンサーが誤った判断もしてしまう。
例えば積み木を差し出すと…黄色とか緑とか発声する、、たまにランダムに仕込んだ発声装置が「そんなことどうでもいいじゃん」みたいなとんちんかんなことを言う。
フォルムの可愛さに惹かれてついつい構いたくなるロボット。
ゴミ拾いロボットというのもあって、ポリバケツみたいな形をして自分勝手に移動する。人間がゴミを拾ってその中にゴミを入れると軽くお辞儀をする…それだけのロボットなのですが、、これまたついつい人間が関わりたくなる優れもの。
本には書かれていませんでしたが今これを書きながら、、あっ!これって絵画でいう補償心理に近いなと思いました。あえて描かれていないイメージをついつい付け加えたくなり頭の中で鑑賞者が絵を完成させる、、まぁ僕なりの言葉で表現すればそのような意味だと思います。
姉の長男が幼児の頃、スヌーピーの人形をボロボロになるまで離さなかったことを思い出しました。
子供は人形を相手に会話を引き出し発展させていく、、弱いロボット、の何が弱いかと言うと、人間が積極的に参加していかないとその面白さがわからないと言うところにあると思います。遊び方はそちらで考えろ、という突き放しが、人間の想像力を引き出して、そこに人間関係に似たものをロボットと一緒に作る感覚かな?
積極的に役に立つというロボットではない「弱いロボット」がコミニュケーションに新しい光を与えていると思いました、、という言い方では意味が伝わらないし、多分何も言っていない、、え〜と、、
弱いからこそ安心して関われるロボット、気安くバカが言える関係、生産的なものを会話の中から引き出そうという意図がない、特に役に立たないのだけれど予定調和がないので楽しめる、つまり意味のない雑談だからこそ意味がある。弱いロボットとの関わりの中で知らない間に自分の立ち位置が変わっている、思ってもいなかったところに立っている。
これで何か意味のあることを言ったことになるのか自信がないです、、解説するほど訳が分からなくなる…あはは🤣
私の経験では、お料理上手とお掃除・片付け好きとは、両立しないんですよ。友人に料理が好きで抜群に上手な人がいるんだけど、家の中は「足の踏み場もない」ってところ。鍋釜などもいつも総動員だから、仕舞う場所は不要。一方、片づけに情熱を傾ける人は、台所が散らかるのに耐えられないそうで、使うのはコ―ヒーメーカーと電子レンジだけ、という人が多い。ドイツ人はもう圧倒的に後者です。この人たちの場合、ただ整理整頓が好き、というより、箒やモップでの作業はいいが、包丁だの俎板などが相手の仕事はやってられない、ということのようです。それでウチの旦那はいろんな人からよく「あんたの奥さん料理するの」と訊かれ、「うん、毎日やってるよ」と答えると「ひいい~」とびっくりされるんだって。
でもいちまるさんは、料理も苦にならない、片づけも得意、という稀なケースですね。
一方で、料理もしない、片づけも嫌い、という人は世の中に結構多いみたいですが。