1月20日(土)
看板に偽りあり状態になっていた未来小説創作ノートを一時棚上げにしました。作中の人物たちも成長は止まったままです、と言えば気取った言い方、有り体に言えば…インスピレーションの枯渇、老人の現実…といったところです。
インスピレーションをどこでもらうかを問題にすることにしました。読書はもちろんのこと場所を次々と移動していけば考え方も見え方も変わってくるので面白いかなと思っています。地下室のような部屋にいて飽きたら出歩く、、何の事はない今まで通りという事なのですが気持ちの問題です。
自分の部屋でもちょっと違う高さと場所に視点を変えてみれば違って見えてくる理屈の応用です。
変わり映えのしない日常に少し違った日常を少しずつ付け加えていく、転換していく、これは今すぐできることだから決心も何も入りません。このままでは、日常は徐々に減衰していくのは間違いないとしても、気持ちまで減衰していくわけではない。
心臓は休まず全身に血を配っている。胸に手を当てればすぐそれを思い出せます。何事も自分自身に対する興味が推進力です、少しでも頭のゼンマイを巻いておく、緩んだらまく。
では続・陋屋記よろしくお願いします。今日はご挨拶だけと言うことで…。
はい、私も懐かしい(?)陋屋に戻りました。
小説のことなんですけど、今朝方、何度も読んだ本を読み返していて、面白いくだりを見つけました。(前には何を読んでいたのかしらん。)
「小説も言葉の力で読ませる点では文学であっても、我々が言葉の為に小説を読むということは殆どない。結局は言葉なのであるが、我々はそれよりもその言葉が指していると思われる事件や登場人物を追って読み、例えば、こういう人物はあり得ないなどと考える。又それが、小説というものが成功した所以でもあって、人間は誰でも人間の世界に住み、そこでの出来事を身近に感じて暮らしてゐるから、文学に興味がないものでも、小説は読む。」
これは吉田健一の小説論ですって。